02.竜との生活
……正直に言おう。家主の反対を押し切って家に住み着くことになったピーナは、びっくりするほど便利だった。
フリィは小さな魔法の制御が苦手なので、誰もが使える生活魔法がほとんど使えない。反対に、ピーナは細々とした魔法が大の得意らしく、息をするように家事をこなしてみせた。同じく莫大な魔力を内包しているはずなのに不公平なことである。
家の中の掃除はお手の物。指を振れば風が舞い、埃がドアから勝手に出ていく。細かな霧と操作魔法で拭き掃除までこなしてみせる。
食生活の違いゆえに料理はできないようだったが、フリィが細心の注意を払っていた火起こしは目くばせひとつで完了するようになった。億劫だった食事の洗い物は、洗い桶の中で踊る食器を楽しく見守る時間に変わった。
洗濯などは本当に画期的だった。ぐるぐると回る水柱の中で汚れを落とし、飛び出した洗濯物たちは踊るように身を捩って水を切った後、自ら物干し竿に身を任せる。ここですぐに乾燥させることもできるようだが、日光に当てた方が綺麗になる気がすると言って、ピーナは自然に任せて乾かしている。勿論取り込むのも瞬く間だ。
改めて考えてみよう。ひとつ屋根の下に住む男と女。まして、男は女に求婚していて、女はそれを拒絶している。大変な問題である。問題であるが。
――問題があるだろうか。だって、相手は竜なのだ。フリィが常に竜の形をしているのならともかく、欠片も似つかぬ人間だ。胸の些細な膨らみ――竜の質量と比べてだ。フリィが貧乳だという話ではない――に興奮などしようか。人が鼠に性的欲求を抱くようなものでは?
世の中にはそういう奇特な者もいるかもしれないが、話している限りピーナはそこそこ人に近い常識を有している。人間社会のルールは熟知しているし、情勢においてはフリィよりもずっと詳しいようだった。
竜は絶滅したと思われている存在だ。彼の言葉からすると、彼も自分以外の竜にあったことがないらしい。そこからフリィが推測するに、彼は同じ竜の形をしたものを見たのが初めてで、次がないと思ったから求婚したのではないだろうか。そこにあるのは恋情や性愛ではなく、隣合う誰か、家族欲しさからの暴挙だったのではと思う。
ならば、そう、別に問題ないのではなかろうか。ひとつ屋根の下で暮らしても――下着の洗濯まで任せてしまっても。
「終わったぞー。今日は天気がいいから乾きがよさそうだな。あとやることあるか?」
「ありがと、特にないわ」
外から入ってきたのは、鱗やツノ、そして尻尾の生えた人型のピーナだった。
一緒に住み出して数日。どうやら人の姿のままというのは気が疲れるようで、家の中では甘めの変化であることが多い。今日のように尻尾をくねらせていたり、あるいは竜をそのまま小さくした姿で寛いでいたりする。
なお、初対面で偉そうな喋り方をしていたのは、竜は威厳のある生物だと思われているから人の夢を壊さないようにだとかなんとか。案外形から入る方らしい。
「私はこれから街に行ってくるから」
「俺も行く!」
「ええー……」
間髪入れずに返されて、面倒の予感に眉を寄せた。
下処理を終えたケスパの根を束にして、紙で包んで袋に詰める。それから、折れてしまったケスパの根で作った回復薬も。
植物を育て、その扱いを得意とする緑の魔女から教わった薬の製法は特別だ。不具合のある魔草からは本来効力をほとんど得られなくなるが、多くの魔力を費やすことで補填ができる。そうして作った秘薬の効力は、市販の薬を大きく上回る。当然その分価格も高くなるけれど、皮肉なことに疎まれる魔女が作った秘薬は、誰もがのどから手が出るほど欲しがるものだった。
だから、不良品をフリィが納品するはずがないのだ。痛んだ素材とて決して無駄にはならないのだから。
そもそも手間こそかかるものの、素材を納品するより薬を納品する方が儲かる。それでも素材の形で納品するのは、人の薬師がそれを求めているからで、ひいては薬師から仕事を奪わないようにという配慮のためだった。
思い出したらムカムカしてきた。こっちは人の生活を守るために競合しないよう気を遣っているのに、それを台無しにするいちゃもんをつけられたのだ。だったら全部薬に変えて納品をしてやろうか。魔力ならいくらでもある。この庭で育つ薬草の全て、フリィが魔女だからこそ手に入れられる素材の全てを加工して世に出してやってもいいんだぞ。
「ああもう、やめやめ!」
頭を振り、大声を上げて暗くなる思考を切り替えた。
フリィに慣れた妖精は見向きもしなかったが、ピーナは驚いた様子で目を瞬いている。
ピーナの尻尾は隠れ、ツノもなく、肌に貼りつく鱗も消えていた。そうなると大層大柄なただの美丈夫で、この男に下着を洗濯させたのかと複雑な気持ちが沸き上がる。できればずっと異形の姿をしていて欲しい。フリィの尊厳を守るために。
声をかけるか迷ったような素振りを見せたが、最終的にはスルーすることにしたようだった。空気の読める竜で何よりだ。
「よし、行くわよ」
妖精が自分の部屋としている瓶の中から顔を出して手を振った。
手を振り返して外に出ると、草食性の魔物たちが餌の時間かと寄って来る。個性豊かな見た目をした魔物たちには、体毛や鱗などを貰う対価として、魔草の使わない部分を混ぜた餌を与えているのだ。
散れ散れと押し退けて進むフリィとは違い、ピーナはあからさまに避けられていた。やはり魔物だけあって、巧妙に隠した竜の気配を感知しているのだろうか。
「何もしねえっての」
「図体が大きいから怖いんじゃない」
「……まあ、こいつらが見慣れてる人間は小さいからな」
「は? 文句あんの」
「可愛いよ。可愛い可愛い」
「馬鹿にしてんのよね。喧嘩なら買うわよ」
「可愛いって」
いつもは一人で黙々と歩く道を軽口を叩きながら歩くのは、不本意ながら楽しかった。
「街まではどうやって行くんだ」
なんなら飛ぶか? なんて言いながら人型のまま羽を広げたピーナに首を振る。竜の翼を見られたら、魔女以上に混乱を引き起こしそうだ。
「近くまで転移して、そこからは歩き。家の周りは色々結界が張り巡らされてるから転移できないのよ」
「ああ、なるほどな」
瞳孔まで丸く変化した赤黒い目が虚空に向いた。只人には何もないようにしか見えない空間には、師である緑の魔女が紡いだ綿密な結界が聳え立っている。フリィはそれを、決して壊れないように補強した。今は亡き師の魔法が、少なくともフリィの寿命の続く間はなくならないように。
「害意を持つ者が入れない結界か。器用なことをする」
「緑の魔女リラリーレインは、そういう細かいことが得意だったのよ。……そういえば、ピーナはどうして私の家を占拠しようとしたのよ。あんなに居丈高な態度取っておいて、傷つける気は毛頭なかったなんて笑っちゃうわ」
ピーナが結界を通ったということは、害意はなかったということだ。家から追い出そうとしておいて害意がないなど、一体どう考えたらそうなるのか不思議で堪らない。
問われた彼は気まずそうな顔でそっぽを向いた。
「竜には効かない結界だったんじゃないか」
「リラリーレインの結界は完璧よ。結界が壊れたならまだしも、感知しないなんてあり得ないわ!」
身を乗り出して噛みつくフリィに、ピーナはもごもごと口籠り、小さな小さな、妖精の囁きかと思うほど微かな声で言い訳がましく何かを言った。
「……せっかく人なのにあんな遠いところに一人で住んで……追い出したら人里に避難するかと……」
「遠くて聞こえないわよ。でかい図体で小さな声って、ギャップでも狙ってるつもりなの」
「おまえが小さいんだよ」
「なんですって、あなたが無駄にでっかいのよ!」
「いや俺はでかいかもしれないが、おまえは絶対に小さい」
「仕方ないでしょ、十四歳で魔力のピークが来たんだから!」
「うーん、ロリコンの誹りを受けそうだな俺」
「二十六歳よ、ロリじゃないってのー!」
この世界の生物は全て、魔力の高い者ほど長生きをする。そして一定以上魔力が高い生物は、最も魔力が高くなった時点で体の成長が止まるのだ。
やや虐げられながら育ったフリィは栄養が足りず、あまり身長が伸びないままに魔力ピークを迎えた。他人から舐められるのはそのせいもあるだろう。おまけに人との関わりが薄い分、恐らく中身も実年齢ほど育っていない。
「そう言うピーナは何歳なのよ。見た目は……三十より前くらいかしら」
「数えてないけど、多分四桁入ったとこ」
「……安心なさい。誰相手でもロリコンよ」
あまりに長い月日に毒気を抜かれて牙を収めると、彼は少し寂しそうに笑った。
魔力が減退する年齢になると緩やかに加齢するのだが、お互い死が訪れるのはいつになることやら。緑の魔女は三百年を生きた。フリィは当然まだまだ先で、竜たるピーナは途方もない。考えても仕方がないことで、同情するのもまた違う。
「まあ、あなたがいると生活が便利になるし、気が済むまでいればいいわ」
大きな手をぺちんと叩いて、この辺でいいかと歩みを止めた。
踵でコツコツと地面を叩く。転移の魔法はなんの属性でも使えるが、フリィは一番使いやすい闇の魔力を用いている。ピーナはピーナで勝手に飛ぶかと思ったが、特に動きがなかったため黒いサークルに引き込んだ。
魔力消費が膨大であるため、一対の転移陣で繋いで魔力消費を抑え、定位置に飛ぶのが転移魔法の一般的な使われ方である。各都市はそうして繋がっていて、要人たちや貴族が高額を払って利用するのだ。
しかしフリィには関係なかった。家こそ結界に影響を及ぼさないよう着地地点を定めるために転移陣を敷いているが、街へ行くなら小細工もいらない。
「へえ、転移ってこんな感じか」
「したことないの?」
「俺には翼があるからな」
片翼は傷だらけだったが、飛ぶのに支障はないのだろうか。考えながら茂みの中から街道に出ようとして、忘れていたと慌ててフードを下ろす。
歩き出してすぐ、不満げな顔をしたピーナにちらりと捲られて手を叩き落した。
「顔が見えない」
「髪を見られると厄介なのよ」
200センタの身長からでは、フードがあろうがなかろうが、どうせほとんど顔など見えないだろうに。
向かいから歩いてきた商人が嫌な顔をして道の端に寄った。フリィは気にせず進んだが、ピーナは気に食わないようでフリィの体を反対側へと引き寄せた。
街には何度も訪れている。こんなに深々とフードをかぶっているのはフリィくらいなもので、フリィが魔女だとは広く知られている。だからそんな気遣いは今更だったし、近い壁のような体は歩くのに邪魔だったけれど、悪い気はしなかったからそのままにしておいた。