12.リラリーレインの手記
髪は体を洗うと石鹸の泡が黒くなる。防備していてよかった。そうでなければ肺の中まで黒くなっていたところだ。
「ううー、体痛い」
ぎこちない体を解すべく湯を跳ね上げながら体を伸ばす。腕がぶるぶると震えていた。これは名誉の負傷である。
ピーナも入りたいだろうと、ストレッチは程々にして早めに上がる。
「ピーナ、お先……」
「ん、空いたか」
納屋を覗き込んでギョッとした。
完全な人への変化を止めたようで、角や尾が生えたピーナは、なぜか逞しい上半身がむき出しになっている。
鱗の貼りつく健康的な肌色が眩しくて、フリィはすぐさま視線を逸らした。こちとら男性の裸とは縁がないのだ。
「なんで脱いでるの!?」
「緑の魔女ヤバくないか。箱開けたら服が溶ける謎の液体が噴出したんだが」
謎の液体とやらをかぶって、シャツがほとんどなくなったらしい。確かに足元に布切れが落ちていた。
強靭な竜の体がベースのピーナだったから無事だったが、それがもしフリィだったらと思うとゾッとする。
「危ないもの詰まってそうだから、他のも一人で開けるなよ。しまい込んでたってより処理に困って埋めてた感じだな」
「絶対開けないわ……」
風呂入ってくる、と立ち上がったピーナから、恐らく赤くなっているであろう顔を逸らしていたのだが――ふと目に入ったその背を見て、思わず声を上げた。
「あなた怪我したの!」
背中の右側、肩甲骨の辺りに酷い傷があった。ズタズタに引き裂かれたような無残な引き攣れだ。
「怪我? いや、してない」
「背中酷いわよ! 痛くないの?」
「背中……?」
腕を回して傷に触れ、ピーナは納得の声を出す。
「人間になってても残るんだな。古傷だよ。翼がボロボロだっただろ」
確かに竜の形をしたピーナは右の翼が破れていた。
恐る恐る手を伸ばす。痛くないかと反応を確かめながらそっと傷に触れると、彼はくすぐったそうな顔をした。
「痛くない?」
「ずっと前のことだからな。そうだな……八百年くらいか」
「……途方なさ過ぎてわからないわね」
四桁になったところと言っていたから、二百歳くらいのことかとあたりをつける。
一体何があったのだろう。苦い笑みは聞いてくれるなと言っているようだった。
今度は頬を染めることも忘れて浴室へと向かう背中を見送る。手持無沙汰に散らかった室内を見回すと、ピーナが読んでいたらしき本を見つけた。
手にした本は、どうやらノートのようだった。黄ばんだ表紙にタイトルはない。
紙を一枚捲ると、そこには覚えのある筆跡。
「リラリーレインの手記、かしら」
フリィの知る限り、一番荒れた文字だった。日付はあるが日記ではない。思ったままに書き殴ったような走り書きは、文字の大きさがまちまちで、縦横無尽にあちこちへと飛んでいる。文章になっていない部分が多く、とても読みにくい。
魔法の原理や、魔力の制御の仕方が羅列されたページを飛ばす。彼女から執拗に覚え込まされたことだ。ぱらぱらと飛ばしていると、記述は何やら怪しい方向に向かい始めた。
魔力をなくす方法。髪の色を薄くする方法。変化の魔法で容姿を変える方法に、別人として認識される魔法の構築。大範囲の標的を一撃で消し飛ばす術。過去に飛ぶ魔法の組み上げ。生まれる子供の魔力を変える魔法がぐちゃぐちゃに塗り潰され、上書きされているのは胎児を別人に変える魔法。
日付を見ると、それらは彼女が二百歳くらいの記述だった。
リラリーレインは前向きな強い魔女だったが、彼女だって人間だ。彼女に拾われたフリィのような存在が他にいなかったのであれば、彼女はずっと一人きりだったのだろう。最終的には持ち直したようだったが、長い孤独は彼女を悩ませ、狂わせた。
これは緑の魔女である女性の孤独を詰め込んだ手記だった。
フリィは孤独だった。七歳までと、十四歳から最近まで。その間でさえ、喚いて暴れて、魔力を暴走させてやろうと何度思ったことか。
自分を蔑ろにする者を全員殺してしまったら、こんなに嫌な思いをしなくてよくなる。どうせ自分は孤独なのだから誰もいなくなったっていいではないか。
軽い衝動なら何度もあった。ギリギリで踏み止まったことも一度や二度では済まない。
この短さでこうなのだ。三百年を生きた魔女ともなれば爆発しなかったことの方が不思議である。
頑固な老人だったが、彼女は高潔な人だった。三百歳になった自分がこんなにも高潔でいられるのかと実は少々心配したりもしていた。こうして狂気の手記を見て、不安になると同時、安堵もしている。彼女もやはり悩める人だったのだと。
「フリィは過去に戻りたいと思ったことはあるか?」
背後から声をかけられて驚いた。
風呂から出たピーナが、ちゃんと服を着て背後から手記を覗き込んでいた。足音を立てないよう忍び寄ったのか、それともフリィが知らず術式の解読に熱中してしまっていたのか。
答えはフリィにとっては当たり前のことだったから、深く考えずに否定する。
「ないわ。どうせ戻ったって同じことしかできないもの」
「ひとつもないか? やり直したいことは? 例えば、緑の魔女の寿命を延ばせる術を手に入れたら、それを手にして過去に行きたくはならないか」
「……多分、ないわね」
実際にそうなれば迷うのかもしれない。けれど、この手記を見てしまっては、恐らくフリィにはそれができない。
「リラリーレインは自殺こそしなかったけど、生まれてきたことは後悔していたんだわ。寿命を完遂した彼女は褒められてしかるべきで、その時間を伸ばすのは冒涜よ」
「おまえは、緑の魔女が生きていたら嬉しくないのか」
「嬉しいわよ。嬉しいけど、彼女に負担を強いるのは違うもの」
そうかと呟いて、ピーナは箱の上に座るフリィの後ろ頭に顔を埋めた。
「おまえは強いな」
「ピーナに会う前だったらわかんないわよ」
腕を伸ばして、甘えん坊の頭を撫でる。洗い立ての髪はふわふわとしていて気持ちがよかった。
「今だから言えるの。あなたがいるから寂しくないもの」
「……そうだな、俺も、今なら……」
妖精の囁きのように小さな声が、フリィの黒髪に吸い込まれる。
互いの呼気と、外から聞こえる雨の音。それ以外の音のない静けさは、まるで世界に二人だけしか存在しないかのようだった。
酷くなった雨に辟易したらしい魔物たちが、大挙して押し寄せるまでは。