第三百五十四話(カイル歴515年:22歳)予想外の敵
タクヒールらがクサナギを出て3日後、公国及び帝国防衛を任されていた者たちは、最もイストリア正統教国との国境に近い、アストレイ伯爵委任統治領に進出した。
ウエストライツ魔境公国の防衛軍16,700名に加え、ドゥルール子爵軍が8,000名、総数で24,700名がその任に当たり、第三皇子委任統治領の外縁に沿って陣を敷いた。
最も国境に近い左翼には、ゲイルを指揮官とする旧王国領駐屯軍の3,200名、対する右翼には各貴族軍に傭兵団を加えた4,400名、それらの少し後方に中央軍として7,000名が陣取り、その更に東側にドゥルール子爵が指揮する8,000名の帝国軍が配置に就いていた。
彼らの目的は、第一に領民たちが避難するまでの時間稼ぎ、第二に侵攻する敵軍の先鋒を挫き戦意を喪失させることだった。
〈南〉
〈北〉
本来ならば総数五万とも予想される敵軍に対し数で圧倒的に劣っており、まともな勝負にすらならないため、焦土作戦を採りつつ戦略的後退を繰り返し、イズモの防衛網に依って迎撃することが望ましかった。
だが、そうなればその過程で多くの領民たちが犠牲になり、帝国領北部辺境は侵略者たちに蹂躙されてしまう。
このことは何としても避けたかった。
そのため現在も、マスルール指揮下で帝国人だけで構成された新領土駐留旅団1,200騎が、予想される侵攻地域を巡回して領民の避難を促していた。
そして……、遠征軍に参加しているラファールが残していった諜報攪乱部隊は、国境一帯に散って索敵に努めていた。
ゲイル率いる左翼は森を抜ける街道の一角に陣を敷き、鉄壁の防衛陣であるダブリン戦術を行使すべく、急ぎ準備を進めていた。
「どうやら防衛ラインの構築は、なんとか間に合いそうだな」
目の前で進む、防塞構築のための兵たちが忙しく動き回る様子を見ながら、ゲイルは安堵の言葉を漏らした。
「そうですな、何とか間に合いそうです。
それにしても司令官、今回の戦いはどうもまどろっこしい形ですな」
「ははは、マルス殿の気持ちも分かる。だがここから先は、我らの意が及ぶ土地ではないからな」
そう言って苦笑しながら、自身の気持ちを敢えて抑えた。
今いる場所ですら、本来は彼らの陣営が領有する土地ではない。だが、主君の盟友たる方の委任統治領なので、ある程度の自由はきく。だが……
「戦術的には本来、国境の出口まで進出して出口を半包囲する形で陣を敷けば、数の差も補えましたが……」
「言うなイサーク、誰もがそうしたいのはやまやまだ。同じ帝国人であるドゥルール子爵でもな」
そう、彼らが陣を敷いた場所より南は領境となり、第一皇子陣営の伯爵家が領有する土地だった。
そのため、ドゥルール子爵が迎撃のための進駐を申し入れても、主人不在のためという訳の分からない理由で拒絶されていたからだ。
「彼らには他人事なのでしょうか? 自身の領地が戦禍に巻き込まれるという自覚が全くないように思われますが」
「ははは、マルスのいう通り自覚がない……、というより逆だな。
先の戦いの西部戦線で、西のクランティフ辺境伯と同じだろう。侵攻軍は彼らにとって援軍、片や第三皇子の陣営やそれと結ぶ我らこそが敵なのだ」
「ですな。どうせ領内を何もしないで通過する密約でもできているのでしょうな」
どれだけ国境周辺が不穏な動きを見せても、件の伯爵家はずっと不気味な沈黙を保ち続けていた。
それの意味することは、もはや明らかだ。
「それで、こちら側の領民の避難状況はどうだ?」
「はい、マスルール殿の定時報告によれば、まだ芳しくないようです。
現在我々の担当戦域にて避難が完了した領民は6割、未だに4割は農地と作物を捨てきれず、各農村に残留するか、近隣の山中に潜み収穫までやり過ごすようです」
「ちっ! 馬鹿なことを……、死にたいのか?
引き続き根気よく説得を頼むと伝えろ。まさか畑を焼き払って追い出す訳にもいかんからな」
ゲイルは思わず舌打ちするしかなかった。
彼らにとって最大の敵は『時』であった。
「私自身、テイグーンに移住するまでは辺境の農村に暮らす農民でしたからね。
彼らの気持ちも分からんでもないのですが……」
そう言ってイサークは深刻な表情を浮かべた。
数か月かけて慈しんできた作物が、あと半月もすれば早狩りだが収穫が可能になる。
そんな農地を捨てて、後方に退避することを農民たちは嫌がった。
「それに、帝国という巨大で強力な国に住まうということは、それ自体が慢心につながるのだろう」
そう発言したアラルの言葉は、彼らの心の裏にあるものを的確に示していた。
常に国土を拡大してきた帝国にとって、はるか遠くの南部辺境の例外を除いて外敵に襲われるという歴史がなかった。それは旧ローランド王国でも同様だった。
王国が滅亡した際も、電撃戦で王都が陥落し、その後はほぼ無条件降伏となったため、民たちは戦禍に見舞われることがなく、帝国領への移行が円滑に行われていた。
そのため、外敵という意識も低く、住まう土地を馬蹄で蹂躙された経験もなかったため、これから起こるであろう戦いにも、今一つ当事者意識が低いことが、ゲイルたちの悩みの種であった。
「取り急ぎ、防衛線構築の目途が付いた部隊から、マスルール殿の部隊を支援させろ」
『まぁ、俺たちが手伝っても、おそらく状況は大きく変わらないだろうな』
そう心に浮かんだ言葉を、ゲイルは飲み込んだ。
『あとひと月、いや、あと20日程度は、この危うい均衡が続いてくれれば良いのだが……』
このゲイルの願いは叶わなかった。
彼らが配置に付いて5日目、事態は急変した……
「急報! 一大事です!
諜報部隊の報告によると、3万の敵軍が国境を越えて侵攻を始めました!」
「来たか……、先ずは落ち着け! 侵攻してくることは予め分かっていたことではないか。
全軍に戦闘準備を整え、陣の前に誘導して一撃を加え然る後に反転、順次後退を……」
「いえ、司令官、侵攻してきたのは敵兵ばかりではありません!
先頭を進むのは、武器を持たない民です! 中には老人や女性、子供の姿さえ確認できます」
「な……、何だと!」
タクヒールらの弱点、領民たちを大切にするという『甘さ』を知るリュグナーが、最強と名高い敵を打ち破るために打ってきた秘策が、正にこれだった。
「異教徒に神の教えを、同胞の解放を、魔王に神の鉄槌を……」
そう口々に唱和して、国境から次々と溢れ出てきたのは、飢餓に苦しみカストロが支配する南部四郡に流れ込んできた流民たちより構成された部隊で、その数は一万を超えていた。
彼らの先頭は、プラカードや横断幕のような物を持っていた。
『我らは武力を持たず、神の教えに従う者なり』
『我らは戦う術を捨て、神の御心に従い進む』
『力を誇示する戦いではなく、話し合いを』
『非武装・非暴力こそが我らの神の教えなり』
「進め! 我らは神の教えを説く使徒となるのだ!
一歩前に進むことが、神に捧げる功徳となる。圧政に苦しむ民たちを、神への祈りで解放するのだ!
お前たちと共に教皇自らが、神の御許へ至る道を歩んでおられるぞ!」
注意深く観察すれば、数百名の粗末な剣を腰に下げた男たちが、この集団に交じり民たちを煽っていたが、大勢の民たちが歩む中、外からその姿を確認できる者はいなかった。
彼らはまるで、集団催眠に掛かっているかのように、口々に神を讃える言葉を述べながら、怯むことなく歩みを進めていった。
※
侵攻してきた敵軍の異様さに、報告を受けたゲイルたちの本陣は騒然としていた。
「民たちの集団はこちらを目指して進軍して進んおります!」
「前方に埋伏させている伏兵より伝令っ! 作戦継続の可否を問うておりますっ!」
「司令官、ご指示をっ」
「くっ……、悪辣な……。武器を持たぬ民を並べて盾にするとは……」
ゲイルはどう命令を出すか、判断に窮していた。
おそらく民の人垣の後ろには、敵の兵士たちが隠れている。そんなことは簡単に予想できた。
だが、敵軍を撃退するにはまず、前面に展開し歩みを進めてくる民たちを撃たねばならない。
作戦を継続し攻撃に出れば、『無辜の民を虐殺した者』として主君の名誉を汚してしまう。
それだけではない。特火兵団やイズモ駐屯軍には、イストリア皇王国出身の兵たちが多くいる。
武器を持たない皇王国の民たちを討ったとなれば、彼らはどう思うだろうか?
「奴らはどの程度の距離にいる?
長さではない、時間的な距離で、だ」
「はっ、奴らは老人や女子供まで引き連れております故、おそらく半日程度は……」
「では俺は直ちに後方の中央軍に向かい総司令官に指示を仰ぐ故、各隊に徹底させよ!
攻撃してはならん、特に前線に埋伏した先鋒には、いざとなればやり過ごすか、陣地まで引くことも許可すると伝えよ」
そう命を発すると、ゲイルは騎馬に跨り本陣を目指した。
これより各指揮官たちに非情な決断を迫る、凄惨な戦いが始まろうとしていた。
◇魔境公国防衛軍構成
中央軍 7,000名
・イズモ駐屯軍 5,000名
・特火兵団残留組 2,000名
左翼軍 3,200名
・魔境伯領 ゲイル 2,000名
・辺境伯領 マルス 600名
・キリアス領 アラル 300名
・コーネル領 ダンケ 200名
・武装自警団 イサーク 200名
右翼軍 4,400名
・ゴーマン侯爵軍 1,700名
・ソリス侯爵軍+傭兵団 1,700名
・ファルムス伯爵軍 1,000名
遊撃軍 2,100名
・新領土駐留旅団 1,200名
・諜報撹乱部隊 800名
・本営護衛軍残留組 100名
ドゥルール子爵軍 8,000名
最後までご覧いただき、誠にありがとうございます。
次回は『女神イスタールへの誓い』を投稿予定です。
どうぞよろしくお願いいたします。
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