第三百五十話(カイル歴515年:22歳)南部戦線① 捨て奸(すてがまり)
ーー時系列は少し遡る
ケンプルナ商会の会頭がジークハルトの命を受け、ビックブリッジ砦を出立する少し前のことだった。
エラル騎士王国という予想外の敵の出現により、ジークハルトの立てた各個撃破戦術が綻びを見せ始めたころ、その不安要素を払拭し活路を見出すべく動いていた一軍があった。
「報告します! 間もなくこの先の拠点で、南軍が作戦『カマリ』を発動して偽装後退から逆撃に移ると思われます」
「そうか! では我らは街道の左右に兵を埋伏し、『カマリ』によって痛手を受け、猛り狂って味方を追う奴らを殲滅するとしようか。味方への連絡は整っているのだろうな?」
「はい、追いすがる敵軍の先端を叩いたのち、機を見て再度後退し敵軍を引き込む旨、南軍の指揮官より伝令を受けております」
「そうか、では我らも急ぎ軍を進め、餌につられて猛る猪共を屠ったあと、転進ののち長駆して西軍の援軍として向かうとしよう。我らは南軍と合わせ3万、2万の敵軍に後れを取ることはない。
予想外のことで少々忙しくなってしまったがな。
後で総参謀にはその分、しっかりと働いてもらうとしようぞ」
この時点では、多少は追い詰められていたものの、第三皇子グラートにも軽口を叩くぐらいの余裕はあった。第三皇子率いる本隊は、各個撃破を目的として全員が騎兵で構成されていた。
そのため彼らは進軍の速度を速め、迎撃予定地点まで急ぎ騎馬を駆って疾走していた。
そして……、予定していた地点に到着すると、兵たちを街道脇の森林に埋伏した。
全ての準備が終わり、頃合よしと思ったころに街道の南から大きな歓声が起こり、味方の騎兵たちが一気に彼らに向かって街道を駆けてきた。
「いいか、味方が全て通過し敵が半ば通り過ぎるまで待てよ。奴らの後背から一気に襲い掛かる」
グラートの指示で街道脇の森に身を潜めた軍勢が、息を殺して命令を待っていた時だった。
「急報っ! 急報っ! 索敵に出ていた者からの急報です!
北西から此方に向かい土煙が上がっております。その数、一万を超える模様です!」
「何だと! どういうことだ?」
この時点でグラートは幾つかの不運と小さなミスを犯していた。
ひとつ、全軍を急行させて迎撃地点への移動を急いだため、周囲への警戒がおなざりになったこと。
ひとつ、街道の左右に兵を埋伏させたため、索敵に出ていた者も報告に時間を要したこと。
ひとつ、潰走を偽装した味方が雪崩を打って街道を北進しており、報告者はその流れに妨げられて前進できず到着に時間がかかったことだ。
そして、更に不運に見舞われる。
矢継ぎ早に到着した斥候は、グラートが自身の耳を疑うような報告をもたらした。
「申し上げます! 北西より押し寄せてくる敵軍、およそ三万!
このままでは先行した南軍は敵軍に阻まれ、包囲殲滅の危機にあります」
「くっ……、俺としたことが、逸るあまり細心の注意を怠ったわ!」
グラートはここに至るまでに犯した、小さなミスに気付き自責の念に駆られていた。
このままでは、友軍一万は全滅する。
もし彼が、勝利至上主義者で味方の犠牲を厭わない性格であれば、当初の作戦を堅持して南軍を追いすがる敵軍をやり過ごした後、後背から襲い掛かりそれなりの戦果を挙げることができただろう。
味方一万を敵の餌にして、二万の敵軍を葬る形で……
だが彼には、それを見過ごすことができなかった。
「殿下……、敵はいったいどこから?」
「今更それを議論する余裕はないっ!
我らはこれより、北進する味方の背後を守りつつ、彼らを追う敵軍の前に立ちはだかる!
直ちに合図を! 全軍、街道に向かい突撃を開始せよ!」
グラートは南からの一軍と、北から一軍、この二つの軍に挟撃される覚悟で味方を守る道を選んだ。
森の中からは攻撃開始を告げる銅鑼が一斉にかき鳴らされた。
だがこの命令も、街道の反対側に埋伏した友軍を混乱させることになった。
予定していた作戦より、あまりにもタイミングが早過ぎたからだ。
そのために、奇襲となるべき攻撃は精彩を欠き、追いすがる二万の敵軍に大きな損害を与えるにはいたらず、二万対二万の軍勢が正面からぶつかる混戦が展開された。
「ちっ、俺としたことが……、なんと不味い戦を……」
そう呟くグラート自身、味方を鼓舞するため血刀を振るって最前線で勇戦していた。
その同数同士の戦い、若干グラート率いる本隊が優勢であった戦いも、一気に形成が変化しつつあった。
「殿下、南に退却していた味方が潰走して来ます。正面の戦列が維持できませんっ」
「どうか殿下、ここは一旦お引きを!」
部下たちの声も、グラートには届いていた。
しかし、引くにも左右は森林地帯であり、隊列を維持したままの撤退は不可能だった。
「敢えて奇襲と包囲殲滅を期した地形が、俺にとって災いとなったか……」
「殿下っ!」
「分かっておるわ! 全軍、斜線陣を敷き街道の右側にのみ圧力をかけよ!
右側に壁を作り街道と林の間を南に駆け抜ける!」
騎兵ばかりで構成された第三皇子率いる本隊は、襲い掛かる敵軍の右側にのみ圧力を掛け、激しくぶつかる人馬と斬撃を、まるで軋む音が聞こえるかのような状態ですり抜けようと突進した。
それは、大きなふたつの濁流が正面からぶつかり、お互いに身を削りながら左右を交錯するかのような状態だった。
グラート率いる本隊と、既に半数を失いつつ後方に続いた南軍は、死戦を繰り返しながら奔流となって逆進、なんとか南に退路を確保するに至った。
だがこれは、戦いの終わりではなかった。
既に南軍と本隊で合わせて一万近くを失った彼らに対し、若干数を減らしたとはいえ、合流して4万を超える軍勢となったスーラ公国軍による追撃戦の始まりだった。
『それにしても新手の三万、一体どこから?』
最後尾にあって、全軍の後退を指揮していたグラートにも、その事情は掴めなかった。
※
この戦の裏では、エラル騎士王国を扇動して南部戦線の戦局を動かした、ハーリー公爵ですら予想できなかった事態を引き起こしていた。
エラル騎士王国が参戦する事実を知ったスーラ公国は、急遽1万の軍勢を新たに編成して中央から侵攻する部隊に増派していた。
これは漁夫の利を狙うエラル騎士王国に対抗し、スーラ公国が慌てて長駆派遣した部隊であり、事前にジークハルトが放っていた間諜も、このことを事前に掴むには至らなかった。
そしてもう一つ……
エラル騎士王国の参戦により、ジークハルトはなけなしの八千名を北西に派遣した。
この事実は、ハーリーが潜ませた間諜により第一皇子陣営にもたらされていたが、同時にスーラ公国軍にも伝えられていた。
そのため中央から侵攻した部隊は、本来ならジークハルト自身が一軍を率いて進出し、その動きを牽制されるはずだったが、誰に妨げられることもなく自由に行動することができた。
そして、手薄となったビックブリッジには目もくれず、確個撃破を目論む帝国軍の本隊を、逆に各個撃破すべく動いていたからだった。
だが……、グラートやジークハルトがそんな事情を知る由もなかった。
※
本来は順次北へと向かうはずのグラート率いる軍勢は、南へと向かって敗走を続けていた。
四万五千もの敵軍に追撃され、今や二万を切るまでになった軍勢は疲弊し、徐々に脱落者を出すまでになっていた。
特に南軍は、新たに招集された歩兵中心の部隊であり、その足並みも遅かった。
「殿下、ここでお別れです。
我らが『ステガマリ』にて敵軍を食い止めます。その間に殿下は南から東に迂回して撤退を!」
「ならんっ、あれは死を前提とした下策、公王すらそう言っていたであろう」
「なんの、あの魔境にて私は一度死にました。魔境で戦女神たちに救われたこの命、ここで役立てて見せましょうぞ」
グラートの元に馬を寄せて来た南軍の武将は、かつて収穫祭が行われた際、彼に同行して魔境まで共に行った、側近中の側近のだった。
「ま、待てっ、其方にはまだすべきことが……」
「御免っ!」
そう言った彼は、主人に対し最後に笑顔で挨拶すると、ー千名の部隊を率いて反転していった。
制止しようとする、主人の言葉を振り切って……
※
かつて第三皇子である身分をやつして魔境公国を訪れたときの夜、第三皇子、公王、フェアラート国王、ジークハルトらで酒の肴として行われた戦術談義。
それはその時に語られたものだった。
『我が友が最も敵に採られたくない戦術は何かな?』
そうフェアラート王に問われたタクヒールが、一瞬迷った後に答えたもの、それが『捨て奸』だった。
ニシダが知る歴史、かつて関ヶ原の戦いで西軍の敗北が確定した後、西軍側の将であった島津義弘を撤退させるため、島津軍が採った恐るべき戦術。
自らの命を捨て石にして敵を足止めして逆撃を行い、敵を怯ませて時間を稼ぎ、主君の撤退を支える戦術だった。
この壮絶な戦術にはグラートやジークハルトも絶句し、後日になって用いることはないにしろ、帝国軍内でも研究が行われた。
その結果、生まれたのが今回採用している『カマリ』と呼ばれた偽装後退の戦術で、退路には偽装された拠点が事前に幾つも用意されており、安全に反撃を行いつつ然る後に再度後退、敵軍に損害を与えつつ引き込み、最終的に全軍が生き残ることを前提としたものだった。
そのため帝国軍の上層部にも『ステガマリ』と言う壮絶な戦術の知識は根付いていた。
※
「殿下、ここで失礼します。
どうか、至尊の冠を手に入れられること、お祈り申し上げます」
『ステガマリ』は、矢継ぎ早に発動しなければ敵の足止めにならない。それを知る緒将は次々とグラートに別れを告げ、彼の静止を無視して反転していった。
だが、一時の時間は稼げたとしても、まだ敵軍は追撃の手を緩めることはなかった。
「殿下、恐れ多いことですが殿下の至宝、お命の代わりにいただいて参ります。
お叱りは後ほど……、それが、遠い先になることをお祈り申し上げます」
そう言って最後に反転した者は、グラート不在の折にクリムトの鎧を纏わされた影武者として、前線に配備されていた男だった。
今も彼の身体には、虹色に輝くそれが纏われていた。
「待てっ、行ってはならん。こんな所で……、俺は……」
次々と笑って別れを告げる側近たちに、グラートはもう掛ける言葉さえなかった。
手綱を握る彼の手は、強く握りしめた爪が掌に食い込んだ血で濡れ、きつく嚙み締めた唇からは血が流れていた。
そして……、追撃する敵軍からひと際大きな歓声が上がると、スーラ公国軍の追撃は止まった。
主将たる第三皇子率いる帝国軍本隊及び南軍の三万は、大きく兵を損ない戦場より姿を消した。
だが南部戦線における戦いは、まだ始まったばかりだった。
最後までご覧いただき、誠にありがとうございます。
次回は『南部戦線② ビックブリッジの神経戦』を投稿予定です。
どうぞよろしくお願いいたします。
※※※お礼※※※
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