第三百四十四話(カイル歴515年:22歳)動乱の始まり
かつてはグリフォニア帝国の最南端の街として、スーラ公国の侵攻を受け、一度は壊滅的被害を受けた街エンデ。
この街は旧帝国領が半島のように公国領に突き出した位置にあったため、領有を主張する公国から常に侵攻の脅威に晒されていた。
そのため、エンデを奪還した第三皇子軍は、麾下の軍団の駐留拠点として定め、絶対防衛線として確保していた。
それにより、一度は街として完全に機能を喪失したエンデは再び栄え、その後は帝国が公国より割譲された新領土への兵站拠点として更に発展し、今や帝国の中でも有数の都市として、過去に類を見ないほど賑わっていた。
このエンデから南に4日ほど進んだ先に構築されたビックブリッジ砦には、総参謀長として第三皇子の軍団を差配する、ジークハルト率いる精鋭が本営を置き駐屯していた。
カイル歴515年の春も終わり、季節は夏へと移り変わっていたが、数多の者たちの予想に反して、帝国の新領土では至って長閑に時が過ぎていた。
周辺国からの侵攻もなく、後方に待機する兵たちは定期的な訓練以外、専ら農作業に従事していた。
その成果もあり、砦の周りを囲む水田は満々と水を蓄え、例年より早い時期に作付けが終わった苗が、力強く根を張り青々とした葉を大きく伸ばし、稲穂が実り始めていた。
「それにしても、長閑な光景ですな。早植の穀物はもう少しで収穫できそうですね。
我らの兵糧として納めることができれば、真に重畳ですな」
「叔父上、今の情勢のなかで、ちょっと長閑過ぎるんですけどね」
そう語る二人は、砦の南にある望楼に上り、周囲を見渡していた。
彼らの視線の先には、見渡す限り広大な水田が広がり、河から引き込まれた水路では、至る所で揚水水車が稼働して水田に水を満たしていた。
「ははは、そのお陰でここいら一帯、大きく景色が変わりましたからな」
アストレイ伯爵の言葉通り、元々この辺り一帯には広大な沼沢地が広がっていた。
そこを抜ける街道は、丸太や板切れをただ雑然と並べただけの、橋とも言えない場所を通っており、通行の難所とされていた。
この頼りない橋とも言えない沼沢地を抜ける通路を、人々は『ビックリブリッジ』と呼んで揶揄していた。
かつてはスーラ公国の軍も、ここを拠点に防御陣を敷き帝国軍を苦戦させた場所だ。
ジークハルトは敢えてこの地を選び砦を建設し、その後は兵たちに命じて砦の周囲一帯を、大規模な水田として開墾していた。
「それにしても、当初から総参謀長殿のご存念を理解していたのは、どれぐらいいたでしょうな?
私もその話を聞いた時、身慄いしましたよ」
「いえいえ、僕も農家出身の公国兵から話を聞くまでは、そんなこと知りませんでしたからね。
この平凡な風景全てが、侵攻軍に災いをなす盾となります」
そう、広がる水田は通常のそれとは異なっていた。砦に近づくにつれて泥濘が深くなる深田として姿を変えていく仕掛けが施されていた。
水を湛えた田に入るとズブズブと沈む。
その深さは、砦近くになると膝の高さを超え、一度深く沈み込むと最早身動きすらできず、攻め寄せる者たちを絡めとるよう牙を剥く。
騎馬ならば脚を取られて転倒するし、重装歩兵はバランスを失い、二度と立つことはできないだろう。
軽装歩兵ですら行動の自由は奪われる。
「砦に通じる整備された街道も、敢えて狭く整備されたのは誘いですな?」
「ええ、泥濘に沈んでいる隠し通路を知らぬ者は、往生するでしょうね」
事実としてこの砦を初めて訪れた第三皇子は……
『なんて出入りの不便な砦だ。こんなものが役に立つのか?』
そうこぼしたとも言われている。
しかもこの砦には、南と北に門があるが、整備された道は東側と西側にしか通じていない。
街道の行きつく先は、砦から三角状に突き出した城壁の頂点にあり、城壁の手前にある堀に沿って、狭い道を迂回してぐるっと進まなければ門まで辿りつけない。
なので、平素はこの外周道路に一方通行が定められている。
これを破って馬車を進めれば、反対から正しく進んで来た馬車に進路を遮られ、全く身動きができなくなってしまう。
「にしても、隠し通路の発想はどのように?」
「これも実は、僕が最も恐れる人の真似に過ぎません。収穫祭で魔境公国を訪れた際に聞いた、あの人がクレイラッドの地で川に築いた沈降橋の話から、これを思いついたんです」
「なるほど……、魔境公国の公王陛下ですか。
真にあの方が味方となって良かった、今はつくづく思いますよ。
当初から『彼を味方にすべき』そう言い続けた総参謀長のご慧眼にも感謝すべきですな」
「いえいえ、僕は常々、仮に誰かと戦わねばならない場合、一番楽ができる道を、戦い自体も楽をして勝つのが一番と思ってますからね。それは昔から変わってませんよ」
「それに儂も命を救われ、復権までしていただきましたからね。ありがたいことです」
「さて、叔父上にここに来てもらったからには、僕も少しは昼寝を楽しむことが……」
その時だった。のんびり会話を楽しむ二人に、水を差す報告がもたらされた。
「総参謀長に報告いたします!
北北西の地平線に異変あり、とのことです」
「なんだとっ、それは訝しい。南や西ではなく北北西だと?」
「詳細を、今分かる範囲で教えてくれるかな?」
「アストレイ伯爵の仰る通り、北北西です!
総司令官、私も詳細は分かりかねますが、遠目のきく見張りがそう申しております。
念のため望遠鏡でも確認しましたが、恐らく遥か遠方の狼煙台の煙かと……」
「順番が違うであろう! 本来なら南や西から順次中継されるはず……。北北西からなど、あり得ない!」
確かにアストレイ伯爵の言葉は正しい。
狼煙台が機能していれば侵攻軍の情報は南や西から中継されてくるはずだ。
北北西に配置されている狼煙台は、それらを受けて最後に中継して然るべきであった。
大前提として、狼煙台さえ機能していればの話だが……
それとも……
「総参謀長、今から各狼煙台に早馬を送り、真偽を問いただしましょう!」
「……、くそっ! 間に合わなかったか……」
ジークハルトは悔しげに声を荒げると、次に瞑目してこれまで不安に感じていたことを反芻した。
『可能性の高いことには全て対処してあった。
だが想定した全ての可能性に対し、準備することができないという苛立ちもあった。
最後の最後で切り捨てざるを得なかった北北西の防衛、まさかそこを衝かれたということか?』
「総参謀長!」
「叔父上、僕が最も可能性低いと切り捨てたこと、それがお分かりですか?」
「あの国が参戦するということですか?」
「はい、僕らに対して最も有効な手を打てる位置にありますが、これまでの経緯から判断すると、ウエストライツ魔境公国、フェアラート公国に次いで、最も敵対する可能性の低かった国です」
アストレイ伯爵には甥の苦衷がよくわかった。
限られた兵力を運用するにあたり、ギリギリで判断したことなのだろう。
そもそも帝国領の西、ここからは北北西に位置するエラル騎士王国は、その名の通り騎士の国ではない。むしろ対極にあると言っても過言ではないだろう。
農作業に向かない痩せた土地だけが広がり、過酷な環境にあるこの国には、遊牧以外に目立った産業がない。
あるものを除いて……
今この国の産業は『遊牧と人』、後者はすなわち国全体が傭兵を産業とし、周辺各国に人を派遣することだった。
そのために、これまでどの国とも結ばず中立を堅持し、金によって人(傭兵)を派遣するが、国としてはどの国に対しても肩入れすることはなかった。
当の第三皇子も、傭兵契約という形でずっと以前から友誼を結んでおり、これまでの戦いでもエラル騎士国から傭兵を派遣してもらった実績もある。
まして今回も……、契約に基づき2,000名の傭兵が第三皇子の軍に派遣されている。
「あの国が敵に回る、それは考えにくいでしょう。
先ずは詰問の使者を出してみては如何ですかな?」
「叔父上、カイル王国の西部戦線において、ことの始まりはどうでしたか?」
「そ、それは……」
アストレイも話には聞いていた。
敵軍が援軍と称して国境を越え、対峙すべき辺境伯たちもそれを信じ、敵を導いてしまったことを。
ジークハルトは再び目を閉じた。
そして……
数瞬の沈黙の後、かっと目を開くと叫んだ。
「アストレイ伯爵に下命!
直ちに麾下の戦力として8,000の歩兵を率い、エンデの西側に布陣せよ」
「はっ、ただちに!」
「布陣後はただ、エンデを守ることだけに専念し、別途指示があるまでは専守防衛に徹せよ。
良いな、守りだけに徹し、私かグラート殿下の命令以外は何があっても絶対に動くな!」
「承知っ、これより直ちに出立致します。御免!」
跪いたままそう言うと、アストレイ伯爵は一礼して、足早に出立すべく立ち去った。
彼も既に幾つかの対戦を経験した歴戦の戦士だ。ことは一刻を争うことを承知していた。
その背中を見送ったジークハルトは、周囲に控えた側近たち向き直った。
「エラル騎士国には直ちに使者を走らせろ!
此方にも相応の対価を支払う用意があるとな」
「はっ!」
「残りの者はこれより各所に伝令を走らせよ!
ひとつ、これよりエラル騎士国を敵軍と認めて行動を開始し、この砦は臨戦態勢に移行する!
ひとつ、中央に展開するグラート殿下の本隊に事の次第を伝えよ! 殿下にはそれだけで十分だ。
ひとつ、東部及び南部の方面軍は何があっても動揺せず、ただ己の職責と当初の作戦を遵守せよ!
ひとつ、西部方面軍は状況を考慮して動くよう伝え、戦況に依ってはこの砦への漸次退却を認める!」
「「「「はっ!」」」」
彼の周囲の者たちが慌ただしく動き始めたが、それを命じたジークハルトの表情は精彩を欠いていた。
これまではどんな窮地でさえ、冷たく笑って切り抜けていた彼にしては……
側近たちも一抹の不安を抱えつつ、今やるべきことにだけ、思考を集中させた。
砦からは、各所に向けて伝令が一斉に騎馬を駆って飛び出していった。
「間に合えばいいんだけど……、策士、策に溺れるとはこういうことかな……
これではタクヒール殿に合わせる顔がないな」
ジークハルトは自嘲しながら遥か北の空を見上げていた。
ここにグリフォニア帝国建国以来の窮地、そして、周辺国を巻き込んだかつてない騒乱が、多くの者たちにとって予期せぬ形で始まった。
最後までご覧いただき、誠にありがとうございます。
次回は『神の尖兵』を投稿予定です。
どうぞよろしくお願いいたします。
※※※お礼※※※
ブックマークや評価いただいた方、本当にありがとうございます。
誤字修正や感想、ご指摘などもいつもありがとうございます。