第三百四十三話(カイル歴515年:22歳)南部戦線に異常なし?
カイル歴515年の冬が終わり、柔らかい春の日差しがテイグーン山の頂を覆う雪を溶かし始めたころ、遥か南に位置するグリフォニア帝国の新領土では、本人の希望とは裏腹に日々忙しなく実務をこなす男がいた。
彼はここ数か月、ほぼ休むこともなく勤勉に働き続けていた。
帝国新領土防衛の要として建設されたビックブリッジ砦。
そこに常駐する彼の執務室の前には、大勢の武官、文官たちが立ち並び、矢継ぎ早に報告と決裁を求めて列をなし、彼のデスクの上には報告書と決裁書類が山積みになっていた。
「作戦指揮官殿、通達のあった作戦行動について、各隊より編成の報告が来ております。ご確認を」
「何の確認? 僕の指示した通りになってくれているのなら、其方で確認して構わないよ」
「前衛軍団長殿、各方面軍より定時報告の書簡が届いております。ご確認を」
「何も異常がなければ詳細の報告は不要、『異常なし』それで済ましてほしいって前にも言ったよね」
「兵站統制官殿、各部隊より備蓄食料の追加要求と配備の依頼が来ております。急ぎご決裁を」
「食料の補給は『商人を通じて順次送る』って言ったよね。『到着までは今の備蓄を消費して』とも。それとは違う状況ってことかな」
「主席行政官殿、新たに建設中の狼煙台について、各現場からの報告と要望が来ております」
「予め伝えているスケジュール通りで、かつ必要なものなら、予算内で調達する分はいちいち報告なんていらないから、そう言ったはずだけど」
「新領土総督殿、商人たちに依頼されていた調査について、報告のため面会を求めて来ておりますが」
「あ、今は忙しい……、いや、今こちらを片付けたらすぐ報告を聞くから、ちょっと待ってもらって」
「駐留軍参謀長、最新の各国の動静と、それに対する配備状況について報告を……」
「それを今やるところだから待って……、って何で殿下がここに居るんですか? 勘弁してくださいよ」
「ははは、なかなか勤勉に仕事をしているじゃないか。いいことだな」
そう言って第三皇子は笑った。
彼は今、様々な役職をジークハルトに兼務させ、抱える占領域の作戦行動だけでなく、軍務や政務なども全て丸投げしており、自身は前線視察や兵士たちを慰撫する事に特化していた。
当初はジークハルトが楽をするため、政務の無駄、非効率を廃し、現地に裁量を与えつつも、不正や誤った指示を無くすよう、命令系統を一本化したのだが……
完璧すぎた彼の指揮命令は不備を正し、指示命令の非効率を効率的化させる過程で、小さな弊害も生んだ。
元々が武人に偏った脳筋集団であり、これまでの『緩い』体制に慣れた占領域の中級指揮官たちは、完璧な上司の指揮命令に対し自信を喪失してしまった。
与えられた権限の行使に迷い、いちいち彼に確認しないと不安になっていたのだ。
そのことが今は過渡期にあって、ジークハルトには重圧としてのしかかっていた。
「殿下、笑い事ではないんですけど。僕はここで、一生分の勤勉さを使い果たしそうですよ。
そもそも僕は勤勉とは程遠い人間なんですからね」
「これまでの俺の苦労が、少しでもお前に分かってもらえればありがたいな」
「ってか、これまでが緩過ぎたんですよ!
なので仕事のための仕事が多く、時間と物資を無駄にしてたんですからね」
「いや、それは……」
「殿下の兵が基本的に脳筋集団なのは理解しています。ですが、余りに大雑把過ぎなんです!」
「それは……、とても感謝している。
で、俺の質問はどうだ?」
余りに旗色が悪いので、グラートは強引に話題を変え、当初の質問の答えを求めた。
「依頼していた調査と、他に不審な点がないか、この後に商人から聞き取りを行い分析します。
それを踏まえた報告なら夜になります。
それ以前の情報からの報告なら、今すぐにできますけど?」
「なら今すぐに頼む。俺またすぐに東部方面の前線に出るのでな」
「ちぇっ、ずるいなぁ殿下ばかり……」
「お前が行って士気が上げてくれるなら、代わってやってもよいが……」
「見た目も残念な僕が行っても、士気が上がる訳がないでしょう!」
グラートは苦笑するしかなかった。
ジークハルト自身は既に兵たちから、不敗の名将、天才軍師、政戦両略の智将などと称され、その人気はすこぶる高く、兵たちは絶対的に信頼している。
彼が前線に出れば、グラートほどではないが、兵たちの士気は確実に上がるだろう。
単に自己評価がすこぶる低いのか、それとも……
『ふん、単に目立つのが嫌なだけだろうが』
グラートにはそうとしか思えなかった。
「各前線の状況、異常なし。予定通り配備は完了しつつあります。
備蓄品、建設作業も当初計画した予定通りです。
各国の動静は今のところ目立った動きがなく、敵の交渉が上手く進んでいない可能性も考えられます。
強いて言えばイストリア皇王国の動きと周辺国の動きが気になりますが、あちらはタクヒール殿にお任せですね。
以上!」
面倒臭そうに矢継ぎ早にそう言うと、ジークハルトは一息ついて真剣な顔を向けた。
「気になるのは、余りにも敵(第一皇子)の動きがまともで緩慢なことですかね。どれも想定通りですから」
「阿呆だからではないのか?」
「阿呆だからこそ、です!
阿保は時に、我々が想像すらできないことをしでかす可能性もあります。まして大狸が、このまま座して状況を見ているとも思えません」
「で、どうする?」
「どうもこうもありません。何も動きがないんですから。ただ僕は、何となく納得がいかなくて……」
「このまま、睨み合っているだけならどうなる?」
「それも困ったものです。滞陣が長くなればそれだけ戦費も掛かります。我らの方は数が数ですので……」
「戦費もばかにならんが、兵たちも倦んでくる、そう言うことか?」
既に前線に軍団を展開して半年近くが経っている。
ある程度交代で後方勤務や、配置転換なども行なってはいるが、それでも長期に渡る不便な前線の生活に兵たちは倦み始めていた。
だからこそ、わざわざグラートが前線を巡回して士気を維持しているのだ。
「はい、最悪なのは兵たちが滞陣に倦み、油断が生まれた頃に奇襲を受けることです。
今は彼らの沈黙こそが不気味でなりません」
「そうだな、一時は戦意旺盛だったスーラ公国ですら、嘘みたいに大人しくなっているからな。
お前が挑発するために用意した隙にも、奴らは目もくれなくなったしな」
そう、想定されていたスーラ公国から侵攻ルートは三か所。
広大な国境線の南側、中央、そして北側の街道だった。
それに対し、ジークハルトは南と北には備えとして国境近くに軍を配置しているが、中央だけは敢えて軍を配置していなかった。
国境中央の街道には立ちはだかる戦力もなく、ここビックブリッジの砦まで真っ直ぐ進軍できてしまう。
だが、スーラ公国は不気味に静観していた。
実はこれには理由があった。
ハーリー公爵との戦後補償に関する交渉で、決着が付いていないだけであったが、彼らはその事情など知る由もない。
『想定できることは全て対処しているはずだ。
なのにこの不安は何だ?
まだ何か、見落としていることはないのか……』
これが最近のジークハルトの思いだった。
1%の可能性、そんなものに軍を配備する余裕などない。
そんなことを言えば、帝国はその広大な領土の全てに侵攻の可能性を考え、対応しなくてはならなくなる。
全てに対応できない以上、必要と思われる箇所にのみ対策を施し、その上で勝てる算段を整えるしかない。
それぞれの国の動向、そして知り得た限りの情勢を分析し、不安要素の高い順に対応は進めている。
だが……
そう思いを巡らし、ジークハルトは顔を上げた。
「差し当たり殿下には予備費を使用する許可をいただきたく」
「予備費……、ああ、あれのことか? 既にお前に一任すると言っておいたはずだが……」
予備費とは、グラートが新領土を開発するためという名目で、新たに得ていた内政予算だった。
これまではジークハルトの内政努力、商取引などの統治能力により捻出した金貨があったため、そちらに手を付けることはなかった。
「もちろん構わんが……、そんなに必要か?」
「必要になるかも、そんなところです。
いざと言う時には、半分ぐらいは使いますからね」
「!!!」
思わずグラートは息を呑んだ。
20万枚にも及ぶ帝国金貨を、こともなげに使うだと?
「まあ……、お前が必要と言うなら、使って構わんよ」
「何のために、とはお尋ねにならないんですね?」
「どうせろくでもないことを考えているんだろう?
今の時点で明確でないなら、この場でそれを聞いても無駄だしな」
ジークハルトの執務室前には、まだ順番を待つ武官や文官が列をなして待っていた。
そんな状況とこの場所で、グラートはいちいち細かい話をする気もなかった。
「ははは、殿下のそういう緩いところが、僕に取っては居心地がいいんですよね」
「さっきはそれを責めていたのではないのか?
では感謝の気持ちは引き続き行動で頼むぞ。聞きたいことも聞けたし、俺は前線に向かうとする」
そう言い残すと、グラートは足早に立ち去った。
「ありがとうございます。感謝を……」
頭を下げて彼を見送り、再び顔を上げたジークハルトは凄みのある笑顔を浮かべていた。
それは、今後はなりふり構わずやる、そう決意した顔つきだった。
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次回は『動乱の始まり』を投稿予定です。
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