特別篇 新たなる世界の序章 舌戦
交渉の席では、第一皇子グロリアスの処遇を巡って、クライン公爵とケンプファー子爵との間で、言葉の応酬が続いた。
それは、当人が聞いたら相当落ち込むぐらい、要らない者を互いに押し付けあうかの如く、お互いに惚けあいを繰り返しながら……
少しでも多くの対価、有利な条件で帝国に火種を送り返したい、カイル王国。
少しでも少ない対価、腹の痛まぬ条件で、いやいやながらも第一皇子を受け取りたいグリフォニア帝国。
第一皇子の身柄を帝国に返還するという点では、思いは同じなのだが、それ以外の思惑のために、互いにその部分は霞んでしまっていた。
クライン公爵は、狸爺の本領を発揮するかの如く、老獪で時には惚けた発言で揺さぶり、ジークハルトは素なのかそれとも意図的なのか、同じ陣営の者さえ判断しかねる返答で、論点をずらし続ける。
そろそろ両陣営で見守る者たちが互いに腹いっぱい、応酬に辟易し始めた頃になって、ジークハルトが切り出した。
「クライン公爵殿のお手並み、感服いたしました。
さすがタクヒール殿が、決して敵わない相手、狸爺と呼ばれているだけのことはありますね。
そして皆さま方、そろそろ議論も出尽くしたと思われますので、結論に移りましょうか?」
これまでと雰囲気が変わった彼を見て、クライン公爵は悟った。
『こ奴、これまでの議論で儂を測っておったな?
魔境伯のいう通り、油断のならぬ奴じゃな。
両陣営とも既に互いの応酬に辟易し、異を挟んでくる気持ちも削れておるわ。まさかこ奴はこれを狙っておったのか?』
そう考えると、寒気を覚えたが、それを微塵も表情には出していない。
「ほっほっほっ、魔境伯も口が軽いの。後であまり本当の事を言わぬよう、叱り付けておかねばならん。
儂もやっと、そなたの本意が見えたようじゃ。では、先に進めるとしようかの」
「それでは、基本的にグロリアス殿下の返還については、合意が取れたものという前提に立ち、戦については双方痛み分け、その理解でよろしいでしょうか?
その為、対価は殿下の返還、この一点に絞らせていただきます。王国側としては、何を望まれますか?」
「ちょっ、ちょっと待て! いや、お持ちくだされ。
先程、戦は双方痛み分け、そう仰られたように聞こえましたが、我らの右翼軍たる魔境伯は、帝国軍左翼に完全勝利し、中央軍は国境まで貴軍らを押し上げ申した。これを我らの勝利と呼ばず何とされるか」
カイル王国側の末席に座っていた者、王国南部を領有する伯爵の一人が、声を荒げて食いついた。
「ふう……、失礼ですが貴殿は、我らとの戦いの場に参陣されておりましたでしょうか?」
「応! 我らは当初より、ブルグを防衛拠点に貴軍らと対峙しておったわ!」
「であれば、我らがカイル王陛下の御前に、ご挨拶に伺ったのもご存じでしょうな」
「挨拶? そんなもの……」
「あの時の戦いは、単にご挨拶に伺っただけです。
なので敢えて手心を加えておりましたが、それがご理解いただけませんでしたか?
全力で戦えば我ら25,000、戦いの経験も浅い30,000名程度の軍勢など、簡単に討ち滅ぼしていましたよ。
あの時の戦いは、この交渉の場を作るための、ご挨拶に過ぎません」
「なっ……」
「正直に申し上げます。我らが警戒し恐れる軍は、貴国のなかで二つの軍のみ。恐れる将は、貴国の中で三名のみ。恐らくそれが、貴殿には分からないでしょうね。
因みにご本人を前にして大変恐縮ですが、それは王都騎士団でも、それを率いる軍団長でもありませんよ」
「くっ……」
その苦悶の声は、件の伯爵ではなく、王都騎士団を率いるゴウラスから漏れたものであった。
彼には、ジークハルトの言っていることが、身に染みて分かっていたからだ。
そして短く、言葉を発した。
「伯爵、控えよ」
「いいえ、騎士団長ご自身が、いえ王国が愚弄されたのですぞ!」
「あ、僕は愚弄したつもりも、軽んじたつもりも全くないですよ。逆に尊敬と畏怖をもって申し上げたつもりです。
一部の方を除き、皆様方の方が優秀な味方を軽んじておられると思い、ちょっと不思議なぐらいですよ。
皆様が想像すらできないであろう将ですら、我々は高く評価しておりますので」
「だ、だ、誰だと言うのだ!」
自尊心を傷付けられ、愚弄されたと思い込んでいる伯爵は、真っ赤になって激昂した。
だが、対するジークハルトは平然と、いや、にこやかに微笑すら浮かべている。
「ふふっ……、先ずは落ち着かれる事をお勧めします。せっかくの、互いに理解を深める場ですし、敢えて私どもの存念を教えて差し上げますよ。
我らが恐れる軍は、魔境騎士団と辺境騎士団、然るべき将に率いられ、実戦経験も豊富なこの軍団です。
恐れる将とは、言わずと知れた魔境伯、ソリス子爵、そして、双頭の鷹傭兵団の団長、ヴァイス男爵です」
「あ、あの、身分卑しき流れ者だと?」
「ご発言を否定も肯定もするつもりは有りませんが、戦は身分でするものではありませんよ。
そして、南方で戦いに明け暮れたわが軍は、数千といえど、歴戦の精兵を恐れ、数万といえど、実戦経験の乏しい、貴方たちの軍を恐れません。
ヴァイス男爵は一見魔境伯のいち配下、そう思われがちですが、魔境伯の考案した恐るべき戦術を理解し、実戦レベルで完璧に遂行できているのは、男爵の力に他なりませんよ。他の将では、魔境伯の智に、到底ついていくことすらできないでしょうね。
そして彼の真価は、数万の軍団を率いた時こそ、誰にでも分かる形で発揮される、そう我らは考えています」
「……」
ジークハルトの言葉に、誰一人として反論することは出来ずにいた。
「彼らの価値を知らぬ軍だから、我らは恐れない。
彼らがおらぬ軍だから、我らは勝ちを確信する。
まぁ、そう言うことですよ」
そう言うとジークハルトは、少しおどけた表情を見せた。
それに対し件の伯爵、そして後ろに居並ぶ随員の者たちは、怒りと驚きで何も言葉を発することができなかった。
「皆さまの感情を害するつもりは有りませんが、彼を見い出し囲い込んだ魔境伯、ソリス家の皆様方、彼を貴族として取り立てた、今は亡きハストブルグ辺境伯、これらのお方以外に、ヴァイス男爵の価値を理解していらっしゃる方が、貴国にはどれぐらいいらっしゃるのでしょうね」
そこにもう一人、舌戦に参加する者がいた。
「ははは、私もこの者の勧めに従い、今の十倍の額での傭兵契約、傭兵団全員の雇用、そして、将たる彼を将軍として、数万の兵を預ける条件で招聘してみたのだがな。
金と契約、それで動く傭兵という職業を生業としながら、なかなか見上げた忠義の男であったぞ。
だか、たかが数千の兵しか率いておらん現状は、真にもったいない話よの」
「んなっ! そこまで……」
誰もが知る剛の者、身分だけでなくその実力も諸外国に知れ渡っている、帝国第三皇子の言葉は、彼らを黙らせるに十分だった。
ヴァイス男爵は第三皇子すら見込んだ男、そして自ら招聘にまで動いた男。
その事実は、彼らにとって衝撃的であった。
それを伯爵が口汚く罵ったので、たまらずグラートも口を挟んだように見えるが、実は、効果的な追撃を加えたといった方が正解かもしれない。
実はタクヒールも以前、この時の話をヴァイスから報告として聞かされ、衝撃で思わず飲みかけていた盃を落とし、蒼白となって慄えた経緯があった。
そう、歴史が前回と同じ道を辿るよう、密かにその触手を伸ばしていたことを知ったために……
「伯爵、控えよ! 少なくとも我らは、現状認識という点で負けておるわ。それを謙虚に受け止めるべきであろう。醜態をお見せして、失礼いたした」
国王自らの叱責を受け、伯爵は蒼白となって黙り込んだ。
この時クライン公爵は、敢えてやり取りには参加せず、じっと黙ってジークハルトを観察していた。
『これまでの呆けた態度と異なりこの辛辣さ、これが奴の本質ということじゃな。やはり恐ろしい男じゃ。
他国にありながら、要所を見抜いた上で事前に、魔境伯の翼をもぎ取る手を打っておったとは……
それに比べて我が国では、彼らへの認識が低過ぎる。
復権派の者たちが表舞台から消え、それでかなり改善はされたが、貴族の間ではまだそれが根強い。
それをこの段階で、武器として出して来るとは……』
そう思い、嘆息せずにはいられなかった。
だが彼も只者ではない。
狸爺と呼ばれた男の本領は、こういった場面にこそ、発揮される。
『ふむ……、我々はこの一連のやり取りで、心理的に圧されてしまったわい。この先の交渉を進めるにあたり、その影響は計り知れないじゃろうな。
ここは一旦、楔を打つ必要がありそうじゃな』
そう考えると、クライン公爵は再び舌戦に参加を始めた。
「さて、見苦しい所をお見せして失礼いたしました。
我らに貴重な教えをいただいた代わりに、第一皇子の返還については、まず全面的に同意させていただく旨をお伝えする」
彼がそう伝えると、ジークハルトは無言で頷いた。
だがその眼差しはまだ、鋭いままだった。
「先ずは、詳しい条件を議論する前に、儂としてはこの際、恥のかきついでに是非教えていただきたいな。
返還の件じゃが、逆に立場を変え、もし仮に帝国軍が王国の世継ぎを虜囚としていたなら、どのような要求を科されるかの?」
クライン公爵は、切り返しのために、敢えて冒頭にあった質問を質問で返した。
こんなことで帝国から言質を取れるとは思わない。
ただ、議論を戻し、これからの交渉に一端の綻びを探りだすため、敢えて無駄な一石を打ったに過ぎなかった。
「そうですね……、少なくとも王国領の三分の一、そして、帝国金貨で100万枚、そんな所でしょうかね。まぁ、とても友好的な条件だと思いますよ」
「なっ!」
驚きの声を上げた、自身の後ろに控えていた者たちを一瞥し、ため息を吐いてからクライン公爵は続けた。
実はクライン公爵自身、こんなにも簡単に言質が取れるとは、思ってもみなかったからだ。
「では、大国である帝国の、第一皇子の身柄ともなれば、それ以上の条件かの?
子爵ご自身がそう仰ったことでもあるしな」
そう言われたジークハルトはにこやかに微笑んだ。
「それは到底無理なお話ですね。
第一に、帝国はさておき、我らの陣営は基本的にグロリアス殿下の身柄を欲していません。
第二に、領土の割譲と仰るが、対象となる土地は、戦いに勝った我らグラート殿下の陣営が領する地です。
第三に、そんな条件を我らが飲めば、売国奴の誹りを受け、自身の身すら危うくなります。
最後に、その条件を受けた場合、帝国は恥辱を雪ぐため、総力を挙げて復讐戦を挑むことになりますよ。
大国たる帝国の体面と面子、どうかそれをご理解ください」
暗に、帝国と王国では格が違う。
対等の前提など無意味である、そう言い切っているかにも取れる発言だった。
「ほっほっほっ、それは困ったものじゃの。
第一に、帝国第一皇子は次期皇帝候補、即ち帝国の皇帝に近しい。その身代が軽いはずもなかろうて。
第二に、彼のお方も近頃は衣食住に満足されてか、精力的に独自の交渉を始められておってな。
第三に、貴国が割れれば、貴軍が得た新領土は周辺国の草刈り場となろう。それはもったいない話じゃて。
最後に、我が国は今回、周辺四国から侵攻を受けた。
これを機に、専守防衛である国の方針も改めるべし、そんな声が今や大勢を占めておってな。
これも滅亡の窮地に陥り、方針転換も止む無しとなった我が国の現状、ご理解いただけると助かるの」
敢えて同じ論調で言葉を返し、老獪に笑顔で笑ってみせた。
これ見よがしに、第一皇子の指印で封印された封書を、懐から取り出しながら。
虜囚の第一皇子からの親書、これがタクヒールがカイル王に託した、交渉のための切り札であった。
捕虜となった第一皇子の元を何度も訪れ、予め言い含めた身近な者を世話役に置き、第一皇子にはこの先の交渉の余地を匂わせながら……
結果的に第一皇子が【自発的に】交渉を始めるよう誘導していた。
これは、戦後交渉を見越し、万が一自分が参加せねばジークハルトは全力で交渉に臨む、そう言っていたことに対する保険として。
「ふふふ、もはや地に落ちたグロリアス殿下の密約など、なんの実効力もないと思われますが?」
「ほっほっほっ、我らにとって、そんなものはどうでも良いことよ。
貴国が割れ、周辺国が蠢動すれば、密約で約された土地など、簡単に手に入れることができるでの」
「へー、それはなかなか、強気の仰りようですね」
「虚言ではないぞ、帝国軍がいかに精強であろうと、我らにも誇るものがある。
魔境伯の元には、フェアラート公国が誇る300名もの魔法兵団を葬った秘策と、彼らの集団魔法攻撃に対抗し、それを打ち破った魔法騎士団がおるからの。
公国の集団魔法攻撃の恐ろしさは、貴軍も十分にご存じであろう?
そして其方が恐れると言った三名の将が、軍を率いて現れれば、結果は目に見えておるのではないか?」
『ちぇっ、タクヒール殿も人が悪いなぁ。この場に居ないからと安心しきっていたのに。
ちゃんと僕が嫌がる事を見越して手を打って来ているし……まぁ、好意的に取れば、あれは僕らに対する警告かな?
彼が居なければ全力で交渉に当たる、そんなこと言わなきゃ良かったかなぁ』
このジークハルトの呟きは、隣に座る者たちにも聞こえないほど、ごく小さなものだった。
だが、その顔には微塵の動揺すらない。
『ならこちらも大きく妥協するしかないかな?
あまり使いたくはなかったけど、殿下たちには事前に同意いただいている案に、ちょっと悪戯も加えてあるし、最悪のなかの最良想定、これで一気に行くか?』
そう考えると、ジークハルトは笑った。
日頃の彼を良く知る者たちが時折、ぞっとして驚かされる、凄みのある笑顔で……
二国間交渉はこれより第二幕に入る。
それぞれの国の威信を背負った駆け引きは、これより山場を迎えることになる。
いつもご覧いただきありがとうございます。
皆さまの応援のお力で、一昨日、書籍版第一巻が発売されました。
多大なる感謝と共に、深く御礼申し上げます。
5日間に渡る特別編は、次回を残すのみとなります。
幾つかの不透明な部分は、本編の論功行賞などで随時明らかになっていく予定です。
楽しみにしていただけると嬉しいです。
なお、最後になりましたが、書籍版をご購入くださった皆さまには、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
よろしければ、活動報告などで、ご感想、ご意見をいただけると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。