第二百七十五話 北部戦線⑤ エージンクール挟撃戦
西部国境でタクヒールらが、フェアラート公国の関門を撃破し、西部戦線から敵軍を駆逐して完全勝利を収めていたころ、ダレクたちは未だ戦端を開いていなかった。
彼の率いる部隊は、辺境騎士団4,000騎、ハストブルグ辺境伯騎馬隊1,000騎、王都騎士団5,000騎と、全て騎兵で編成されており、その進軍速度は速いにも関わらず……
彼らには途中で、クリストフとアウラ、そして彼らに率いられ全員が騎乗したロングボウ兵1,000名も合流していた。
そのため戦力は、当初より更に増していた。
ダレクが戦端を開かなかったのには、若干の事情があった。
敵味方が対峙する、エージンクールの地を大きく迂回する進路を取ったダレクは、クリストフらが合流したのを機に、進軍を進める途上で軍議を開いていた。
「クリストフ、俺たちはカイル王国でも最精鋭の1万騎、それでも敢えて正面攻撃を行わず、まどろっこしい戦法を採る必要があるということか?」
「はい、ダレクさまが敢えてご本心とは反対のことを仰っている通り、皇王国のダブリン戦術は守勢こそ本領を発揮し、例え1万騎といえど、まともに攻めればこちらの負けでしょうね。
まぁ、大きく敵陣を迂回し、彼らの後方に出ようとされているダレクさまには、今更……、というお話ですが」
以前と変わらず、気真面目なクリストフ言葉に、ダレクは思わず苦笑してしまった。
彼が率いる兵の中には、いち早くモーデル伯爵に合流し、圧倒的多数を以て皇王国軍を撃退すべき、そのように思う諸将が多いこと、王都騎士団との混成軍という事情もあって、この先意思統一された行動を図るために、敢えてこのようなやり取りが生まれていたのだから……
「ご存じない方もいらっしゃるかも知れませんが、ダブリン戦術を取る敵軍に対し、正面から攻めるのは徒に損害を増やすだけです。縦深陣に誘いこまれた騎兵の運命は、ブルグの森での殲滅戦を再現するだけです。もちろん、殲滅されるのは我らです。
その為我らは、弱点である後方から退路を断ち、包囲殲滅戦を行うか、側面からの攻撃が最も適切と考えます」
「ということだ。諸将には迂遠な戦術と思う所もあるやも知れんが、この基本方針に従ってもらう。
彼らはイストリア皇王国との戦いを経験している。
その戦術の恐ろしさもな」
このような経緯を踏まえ、彼らは王都から北に向かう主要街道を避け、戦場を大きく迂回していたのだ。
そして、公にはしていないが、クリストフを通じて、弟のタクヒールより頼まれていた願いもあった。
ダレクたちは戦場を迂回して、コキュートス侯爵領近くまで北進し、そこから密かに転進、エイジンクールに向けて南進して距離を詰めていた。
※
この頃になると、モーデル軍務卿率いる軍勢と対峙していたカストロ大司教は、なかなか動きを見せない戦況に焦れ始めていた。
可能な限り、四方に物見を放ってはいるが、その報告は芳しくない。
「セルペンスよ、其方の話では……、そろそろ西と南に動きがあってもおかしくないのではないか?」
「はい、仰せの通りです。西側にはアザル殿が、南は御前自らが攻略の段取りを整えていらっしゃいます。まもなく西と南は戦線崩壊し、各地より算を乱した王国兵共が、王都目掛けて潰走してくるでしょう。
そうなれば、今我らが対峙している軍勢も、王都方面に撤退します。我らは東国境を攻略した一万に……」
「申し上げます! カストロ大司教に本国より火急の報告が!」
セルペンスの言葉は、急使の来訪を告げる声に中断された。
「何事だ? 我らの会議を中断するほどの報告か?」
この時点ではカストロも鷹揚に答える余裕があった。
だが……
「ウロス王国を経由して、本国からの急報です!
我らの西国境での戦いで、お味方は敗戦し全滅に近い被害を受けたとのことです。
教皇さまは、直ちに遠征軍を返し、皇王国の防衛に当れ! そう仰って……」
「な、な、なんだと! あれほど優位に進めていた戦いに負けたというのか?
陽動部隊は一体何をやっていたんだ!」
カストロは真っ赤になって怒鳴り散らした。
彼らは開戦早々の攻撃で、ハミッシュ辺境伯率いる軍勢を散々打ちのめし、負けない算段をつけてから、魔法士たちとともに北へ移動したはずだった。
だが、凶報はそれだけではなかった。
そこに、配下の将のひとりが、血相を変えて飛び込んで来た。
「も、申し上げます!
商人たちを通じて入った情報なのですが、帝国軍も南部戦線で大きく敗退したとのことです。第一皇子率いる左翼軍が魔境伯率いる軍勢に敗退し、壊滅したと。魔境伯領から商人を通じ、王国内に発信されている模様です!」
「なっ……」
カストロは短い、うめき声に近い言葉を発する以外、何も言葉に出せなかった。
それほどまでに、この衝撃は大きい。
あの、憎んでも余る魔境伯が、帝国軍を打ち破っただと?
先年の戦いで、最も我が軍に損害を与えた、忌々しい小僧が……
あ奴の首を刎ね溜飲を下げること、これは今回の遠征で最も叶えたいことのひとつであったというのに……
「あの小僧……、神をも恐れぬ悪魔の傀儡め!」
思わず天を仰ぎ、怒りを込めで罵るのが精一杯だった。
そう、今回の3か国侵攻、その中で個人的に大きく敵愾心が向けられていたのは、タクヒールだった。
グリフォニア帝国の第一皇子然り、
フェアラート公国反乱軍の先遣隊首脳部然り、
そして、イストリア皇王国のカストロ大司教然り。
歴史を改変し、カイル王国を矢面に立ち守ってきた彼は、同時に、他国から最も憎しみを受ける存在にもなっていた。
「大司教猊下、こうなっては致し方ありません。
我らも国境まで一端後退し、状況を見据えるべきかも知れません。ひとまず敵軍を西部戦線に任せ、我らはその成り行きを見守る形で……」
そう進言した、セルペンス自身、俄かには信じ難い内容であった。
だが彼らはまだ、西部戦線も共闘していたフェアラート公国軍が敗退したことを知らない。
「そ、そうだな。では気取られぬよう、敵軍を誘いながら後退する。幸い我らには前進する際に順次築いた防塞もある。最後まで後退したのちは、ウロス王国兵、そしてあの裏切り者を殿軍として残し、後退するとしよう」
こうして、ずっと膠着していた北部戦線は、俄かに動き出し始めていた。
※
エージンクールに築かれた防御線で、イストリア皇王国軍のこの動きを、注意深く眺めていた者たちがいた。
「奴らめ、やっと情報が届いたと見えますな。軍務卿が商人を使い意図的に流された情報にも、中々動きが遅いので、やきもきしておりましたが」
「クレイ伯爵、無理もなかろう。近年は皇王国側も、この国の商人を通じた取引はない。故に、彼らの歓心を買おうとする商人もおらんじゃろう。ウロス王国も同様じゃな」
そう、ソリス子爵が援軍として来訪し、彼らの後方を扼すべく動いていることを知った軍務卿は、敢えて情報を流すことで戦場に一石を投じていた。
「では、我らは誘いに乗った振りをして、警戒しつつ前進、それでよろしいでしょうか?」
「そうじゃな。決して敵軍のロングボウの射程に入らないよう留意しつつな。殿下や其方のご息女らが西で武勲を挙げられたというのに、我らが何もできんかったでは、立つ瀬もないゆえな」
モーデル伯爵とクレイ伯爵は、互いに苦笑した後、追撃態勢を整えつつ、後退する皇王国に合わせつつ、軍を進め始めた。ダレクが奇襲してきた際、いつでも挟撃できるよう体制を維持しながら。
※
そして彼らだけでなく、皇王国軍の動きを待ち兼ねていた者たちが、ここにもうひとりいた。
「報告します。皇王国軍が動き出した模様です!
順次後退しつつ、北国境に向けて撤退する模様!」
「そうか、ご苦労! やっと我らが活躍する機会が来たということか。俺たちは撤退してくる敵軍の出鼻を挫き、戦意を喪失させたうえで包囲殲滅戦に入るが、お前たちは弟から依頼されたことがあるのだろう?
戦機を見て独自に実行すること、許可する。諸将たちには言い含めておくゆえ」
「ダレクさま、ありがとうございます」
平伏して深く頭を下げるクリストフの後ろで、同様に平伏しつつ涙を流すアウラの姿があった。
「では全軍、物見の放つ合図と共に、我が国を侵した敵国軍を殲滅する! 良いかっ!」
「応っ!」
こうして、エイジンクール挟撃戦と呼ばれた戦いの火蓋は切られた。
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