第二百六十七話 南部戦線㉑ 帝国軍……撤退す
タクヒールらが、第一皇子の軍勢を破り情報が解禁された翌日、いち早く帝国軍左翼部隊の敗戦を知る者がいた。
囲い込んでいた商人から急報を得たジークハルトは、冷めた表情でその知らせを受けると、思わず苦笑して呟いた。
「ここまで完璧に勝利されるとは、思ってもみなかったな。彼方ももう少し善戦すると思ったんだけど。
やっぱり彼は怖い相手だなぁ。
これでは……、予想した中でも最も譲歩をしなくちゃならない状態になっちゃったな……」
彼の予想を遥かに超えた魔境伯の圧勝に、今後の作戦に幾つか修正を加えた上、早速、第三皇子グラートに面会し、彼が知りえた戦況を伝えた。
「ななな、何だと! 奴が負けたのは分かるが、ほぼ全滅しただと?
そんな事が有り得るのか? 一体どうやってあの寡兵で……」
「僕は最初に申し上げたはずです。皇族であるグロリアス殿下を阿呆とまで申し上げて。
多分、それが原因だと思いますよ。まぁ、他にも理由はあるでしょうけど……」
そう言ってジークハルトは不敵に笑った。
対照的に、第三皇子グラートの表情は蒼白だった。
「で、どうする? このまま戦わずして引くのか?」
「うーん、ただ引くのは相手に舐められるだけだと思いますよ。こちらが十分に余力のあること、それを見せつけてからでも、遅くないと……、いや、今はそれが必要になったと思います。
あと、戦後の交渉は事前にお話ししていた通り、我々に取っては、一番選びたくない譲歩も視野に入れる必要があると思います。まぁそこは、これからの動きで、まだ交渉の余地があるかも知れませんが」
「勿体つけるな、で、どうするのだ?」
「このサザンゲート砦は、ひとまず返却しましょう。借りたものは、元あった状態以上にして返す、これが礼儀でしょう。
そして殿下には、2万騎を率いていただき、敵軍の本営、ブルグの街近くまで進出していただきます」
「そこで一戦して、我らの力を見せるのか?」
「いえいえ、情報に拠ると、あちらにはカイル王自らが軍を率いて来ているとか。
ちょっと挨拶しに行くだけですよ。
あと叔父上、アストレイ伯爵には7,000名を率いて、サザンゲート要塞に展開してもらいましょう。
そして今あそこに残している、5,000名の元スーラ公国兵を前線に伴います」
そう言って笑うジークハルトの意図を、グラートは掴みかねていた。
※
その2日後、サザンゲート砦を抑え、周辺地域を制圧していた帝国軍第三皇子の軍勢が、その機動力をいかして大挙して北進し、ブルグの街の手前まで押し寄せてきた。
そしてカイル王国の陣営では、敵軍が急遽動き出したこと、その報告と並行して、南部戦線右翼陣営、魔境伯が大勝利した報告がもたらされていた。
「帝国軍の奴らめ、自軍左翼の大敗北をまだ知らんようです。この機に乗じ一気に叩くべき、そう思われます。陛下! 出陣のご下知を。そして願わくば、我らに先陣の栄誉を賜りますよう」
今回援軍として参加していた、伯爵の一人がそう豪語して国王の前に進み出た。
「陛下、お待ちを! 敵軍は我ら3万に対し、数で劣るとはいえ全てが歴戦の騎兵部隊です。
ここは防御陣を厚くし、防御を主体に動くべきかと思われます」
「ななな、なんと! 数で優っているというのに、我らでは敵に敵わぬ。ゴウラス殿はそう仰るのか!
戦う前からその言葉、名誉ある王都騎士団長の言葉とは思えない、臆病なものではないか?」
「戦いは数だけではない。兵たちの士気、練度然り、そして編成もそうだ。
我らの騎兵は、我が騎士団を含んでも、僅か14,000騎程度ではないか。しかも、各貴族の寄り合いであり統一した動きも訓練されておらん。故に、数ほどの力が発揮できないのは当然のこと。
何も伯爵を見下して言っておるのではない」
『戦を知らぬ愚か者め! 敵軍を甘く見すぎだ。
大方、魔境伯の勝利に伴い、この南部戦線で武勲を立てる機会の大半は失われたため、焦っているのだろうが……、この期に及んで足を引っ張られてはたまらんわ!』
この本音を、ゴウラス騎士団長はなんとか抑えた。
「皆の者、王国を思う気持ちと、王国を支える一柱たらんとする気概、余は確かに受け取った。
先ずはゴウラスの指示通り防衛優先の布陣とするが、機会があれば突出して攻勢に出るものとする。
その時は其方らの手腕、期待しておるぞ」
「応っ!」
カイル王の言葉で、なんとか軍議はまとまり、王国軍はブルグの街を背に30,000の軍勢が展開し、防御の陣形を整えた。
※
ブルグ近くまで進出し、カイル王国軍が陣形を展開する様子を、悠々と見ていたジークハルトは、第三皇子に新たな進言を行った。
「どうやらご挨拶の準備は整ったようです。
幸い、元スーラ公国兵5,000名も到着したことですし、彼らに対して、先だっての約束を履行するための機会を与えてやることが必要でしょうね。
僕がこの部隊を率いて突出します。その後は敵軍の動き次第で、殿下の騎馬隊は戦線参加してください。
万が一、王都騎士団が出てきたら、殿下のご采配を期待していますね」
そう伝えると、ジークハルトは5,000名の歩兵とともに前線に出て、敵軍の挑発を始めた。
それは、驚くべきものだった。
「わっはっはっ! なんとも愉快な、挑発ではないか? あれが帝国風であるのか?」
両陣営が対峙する中間点に進出した帝国軍歩兵の一団が、おどけるような仕草で挑発を始めていた。
暢気に上半身をはだけて踊りだしたり、中には王国軍に向かって尻を振り、はしゃぎたてる者たちもいた。
豪快に笑うカイル王に、苦虫を嚙み潰したような騎士団長が応じた。
「恐らくは、帝国兵ではないでしょう。浅黒い肌の色、噂に聞くスーラ公国の兵士かと」
そう言いつつ騎士団長は心の中で呟いた。
『余計なことをしてくれる。このままでは奴らが激発するではないか』
「へ、へっ、陛下の御前で! 何たる振る舞い。もはや我慢がならぬ!
我ら先陣を願うもの5,000名にて、野蛮人どもを躾けて参りたく思います。どうか、出陣のご許可を!」
カイル王が騎士団長を横目で見ると、渋々と言った表情で、騎士団長も頷いた。
国王から許可をもらった彼らは、勇躍して軍を進め、敵軍の突出した部隊に襲い掛かった。
「ゴウラス、これで奴らの顔は立った。後は全軍崩壊に至らぬよう、後ろから援護してやってくれ」
そう言われていた、ゴウラス騎士団長も、麾下の一万騎に出撃準備を命じ、突撃体制で待機した。
そうしている間に戦場は、驚くべき様相を呈していた。
ほぼ同数同士がぶつかった戦いだったが、王国軍はまるで猫にいたぶられる鼠のように、いいように遊ばれ、そして翻弄され続けた。
彼らが戦線崩壊しないよう、適度に攻撃の手を緩めながら、まるで軍略の教本を実演するするかのごとく、ジークハルトは軍勢を操り、巧みに陣形を変えつつ王国軍の攻勢を受け流し、強かな逆激を加え続けた。
「まるで遊んでおるわ」
二人の男がそれを見て、同時に言葉を発した。
そして、双方ともが似たような対応を取り始めた。
「そろそろ味方の戦線が崩壊し、一気に崩れるだろう。その前に突撃し、味方の撤退を援護する」
「そろそろまともな敵軍も出てくるだろう。騎馬隊、出撃用意! こちらも援軍を叩く」
前者はゴウラス騎士団長から、後者は第三皇子から出た言葉であった。
それぞれ1万騎の部隊が前進し、お互いに一歩も譲らぬ、騎兵同士の戦いとなった。
勝負は互角から、帝国軍の方がやや優勢となり、徐々にその傾いた天秤は大きく差をつけようとしていた。
「くっ! 実力、練度、士気は互角でも、公国との激戦を戦い抜けた帝国兵は、経験で勝るか……」
個々の能力であれば、王都騎士団第一軍は王国の中でも最精鋭である。だが、同等以上の相手との交戦経験がない彼らは、実戦では帝国兵に及ばない。
中級指揮官たちの指揮能力の差、これによりゴウラス騎士団長は、思うように采配を振るえずにいた。
将来を担うべき優秀な中級指揮官たち、ゴウラスはその多くを辺境騎士団や魔境騎士団に出向させ、経験を積ませようとしていた。そして現在、彼らの抜けた穴を埋めるほどの人材を、まだ育成できていなかった。
ゴウラス程の男だからこそ、この僅かな差を理解し、それを補うべく努力し、采配を振るっていたが、並みの者なら一気に均衡は崩れていただろう。
そして、ゴウラス騎士団長が人知れず苦闘しつつ、懸命に前線を支えていた時、帝国軍は突如として後退した。まるで風船がはじけ飛ぶがの如くの勢いで。
その時点で、最初に戦っていた帝国軍の歩兵たちは、とっくに軍を引き、いずこかへ後退していた。
もちろん、それに相対していた王国軍は、追撃するなどの気の利いたことは、一切行われていなかった。
「ちっ! 勝ちを譲られたか?
それとも元々本気で戦う気がなかったのか?
我らはまだ彼らに及ばぬこと、ただそれを思い知らされただけということか……」
帝国軍を撃退し、勝利に沸く王国軍のなかで、ゴウラス騎士団長だけが蒼白な顔をして自嘲していた。
その後は、予想外の追撃戦となったが、帝国軍は騎兵を10,000ずつ、交代で後衛に当たらせ、鉄壁の守りを維持し続けながら、粛々と後退していった。
結果として、カイル王国軍はサザンゲート砦周辺まで陣を進めると、帝国軍が遺棄していった砦の奪還に成功した。
この場合、奪還という言葉は語弊が有るかもしれない。彼らは、空き家となったザザンゲート砦に入場したに過ぎないのだから。
「何だ! この目録はっ!」
勝利を譲られた形で、砦に入城したゴウラス騎士団長は、帝国軍が残していった目録を思わず叩きつけそうになって、何とか堪えた。
「奴ら、我らから奪った物は全て、手を付けず返還するというのか? 一体何を考えている!
しかもこの、賃貸料とは何だ? 遊びにも程があるわ!」
そう言葉を吐き捨ててみたものの、ゴウラスには帝国軍の思惑が全く理解できなかった。
賃貸料と書かれていた内容に従い、食糧庫にはそれなりの量の穀物が山積みされていたからだ。
実はそれらは元々、サザンゲート要塞に備蓄されていた物を、ジークハルトが密かに接収した食糧の一部であった。
「奴らめ、必要になれば何時でも簡単に、この砦を借りることができる、そうとでも言いたいのか……」
ゴウラスは、帝国軍のこの非常識な対応に困惑し、改めてその恐ろしさを嚙み締めた。
さらに翌日、未だ敵軍の手中にある、サザンゲート要塞の手前まで進出したカイル王国軍は、再び驚愕することになった。
「よ、四万だとっ! そんな事が……、あり得るのか?」
カイル王国軍の諸将は、誰もが驚きの声を上げ、追撃を停止し、まるで意気消沈したかのように進軍が止まった。
これまで、敵左翼陣営の壊滅により、王国軍は帝国軍に数で勝る、そう思っていたが、その帝国軍が要塞前に展開している軍勢は、総数で37,000を超えていたからだ。
「要塞前面にこれだけの兵力を展開できるとなると、帝国軍の残存兵力の総数は4万を軽く超えると思われます。この数では、要塞攻略どころか、我らに勝ち目はございません!」
国王に同道し、血気盛んだった者たちも、ここに至って遂にその意思は折れ、意気消沈した。
4万が守る拠点を攻略するとなると、通常言われるのはその3倍、実に10万以上の軍勢が必要にる。
彼らにもその程度の常識はあったからだ。
そんな数の軍勢を、今のカイル王国が整えることは、絶対に不可能だった。
しかも、ここまでの追撃戦の過程で、帝国軍の強さは身に染みて理解していた。
「ははは、王国軍の奴ら、再び狐に化かされたようだな。追撃の足が止まり、狼狽えておるわ」
第三皇子はここに至り、ジークハルトの意図を全て理解した。
それは、勝利に沸く王国軍に冷や水をかけ、帝国軍の優勢を誇示したまま引くことだった。
実際には第三皇子の軍勢は総数でも32,000名でしかない。
今回の場合、ジークハルトの提案で、左翼軍で敗戦から無事撤退をできた5,000名強を吸収し、非常識にも要塞内をほぼ空にして、軍を展開していたに過ぎない。
その事をカイル王国の陣営は、誰も知る由がなかった。
そしてここに至り、帝国軍より初めて軍使が王国軍の陣屋を訪問し、それ以降、頻繁に行き交うことになった。
その結果後日、カイル国王と、将来のグリフォニア帝国皇帝であるグラート、この二人の対談も実現することにも結びつく。
そこで両者によって、互いの国のこと、今回の戦役の落としどころが語られた。
紆余曲折あったのち、お互いが合意し休戦協定がその場で結ばれた。
この時の会談の様子を知るものは少なく、その内容は当分の秘匿秘事項として、カイル王国内では口外されることはなかった。
これらにより、双方ともある程度の成果を確認できた時点で、帝国軍は要塞を無償で明け渡し、帝国領へと戻っていった。
こうして、南部戦線の戦いは終結した。
ジークハルトの予言通り、戦術的にはタクヒールと第三皇子の双方が勝利し、戦略的には第三皇子陣営が第一皇子に勝利するという目的を果たして。
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次回は『転戦』を投稿予定です。
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