第二百四十話 西部戦線② クラリスの戦略
クランティフ辺境伯旗下の兵士や、彼らと行動を共にした西部辺境域貴族軍の運命は過酷だった。
退路となる橋は一本しかなく、3,500名もの兵力が通過するには時間がかかる。
前面には河が流れており、武装した彼らが進めば、鎧の重みで溺死するのは確実だった。
鎧を脱いでしまうと、雨のように降り注ぐ矢の攻撃に、無防備に身体を晒すことになる。
「ははは、リュグナー殿のご采配は見事じゃな。
敵軍は逃げ場を無くして大混乱し、しかも集中しておる。撃てば当たるぞ! 攻撃の手を緩めるな」
「レッサー伯爵、あの橋はこちらが進撃する際も、ちょっと面倒なことになりかねませんぞ。
ここは用心して……」
「なーに、この機に乗じて左右の敵兵を殲滅し、中央は逃げる敵兵の背後に食らいつき、並行追撃いたしましょう。橋の向こう側に我らの橋頭保を築き、その後全軍で渡河するのはいかがでしょうか?
どうやら彼方には大物がいるようです。捕らえれば、我らの飾り物と交換することも叶いましょう」
伯爵に同行していた男爵のひとりが、圧倒的優位に進む戦況に、血気盛んとなってリュグナーの言葉に割って入った。
「……」
「そうじゃな。これなら魔法兵団の力を借りずとも、我らで十分な戦果を上げることができよう。
中央の射撃を緩め、並行追撃を開始せよ!」
リュグナーは沈黙していたが、彼らの心には既に、抑えの利かない炎が灯っていた。
敵陣に敵国の王女がいることは、俄かに信じ難い話ではあったが、これはフェアラート公国側にとって、最大のチャンスであると思えたからだ。
王女であれば、捕らえて人質交換の具にするもよし、カイル王国軍に降伏を迫ることもできる。
これによって得られる戦果は計り知れない。
彼らは一気に色めき立ち、狂喜しながら前線を押し上げ、突進していった。
※
対岸のカイル王国側の陣営でも、味方の惨状は十分に見てとれた。
このままでは、程なくして敵側に属していた味方の軍勢は壊滅し、公国側はほとんど損害なく勝利することは目に見えていた。
「殿下、色々と申し上げたいことはございますが、先ずは反撃のご下知をお願いします!
中央の弓箭兵は並行追撃してくる敵軍を狙い、橋の中央部に狙点を固定させて待機!
左右はそれぞれの対岸に狙いを定め、待機せよっ!」
「カイル王国軍、西部戦線防衛隊はこれより攻撃に移る!
全軍、戦闘準備を! 鐘の音に従い、戦闘を開始します。準備の鐘を鳴らして!
以後、攻撃の指揮をシュルツ軍団長に預けます」
シュルツ軍団長の言葉に、総司令官たるクラリスは透き通る声で、命令を出した。
戦場には攻撃準備を告げる鐘の音が響き渡った。
既にこの時、橋の対岸部分はフェアラート公国軍に占拠されつつあり、大多数のカイル王国兵は逃げ場を失いつつあった。
「クラリス殿下、恐れながら申し上げます。
沈下橋への対応は準備が整っております。対岸の味方への退路、如何いたしますか?」
進言のため進み出たエランを前に、クラリスは一瞬だけ迷った。
この河には、タクヒールの指示で渇水期に作られた強固な石造りの沈下橋が、水深の深い部分の何か所かに設けられており、そのルートを通れば、橋を通過せずとも渡河できるようになっていた。
追撃の際に、一気に味方を向こう岸へと送り出すためのものだったが、それは諸刃の剣ともなりえる。
敵側にその所在を知られれば、攻撃に利用される可能性もあったからだ。
「今は一人でも多くの王国兵を助けることが先決ね。
エランさん、沈下橋だけでなく氷魔法士も使いましょう。貴方に水魔法士32名、氷魔法士20名の指揮権を与えます。彼らの救出を頼みます。
シュルツ軍団長は橋の守りと攻撃をお願いするわね。お預けしている20名の風魔法士でいけるかしら?
ユーカさんは、救出部隊の護衛に風魔法士20名を率いて、風壁の展開をお願いできる?
残りの10名は、私たちが用意した退路を攻めて来る敵がいれば、その迎撃の準備を。
クリシアさん、聖魔法士10名を率いて、負傷者の対応をお願いしますわ」
クラリスの決断は直ちに実行に移された。
エランの指示で、川の中に進出した水魔法士たちによって、それぞれの沈下橋の両端には、一定間隔で旗が立てられ、河の水流が河の脇にある放水路へと導かれ、流れが穏やかになった。
更に、河の各所に設けられていた杭を目指し、土手の中に設けられた氷室から膨大な数の、とても分厚い氷の板が、予め丸太を並べた斜面を河まで一気に滑り落ち、河の中に浮橋を作っていった。
どれだけ優秀な氷魔法士でも、流れている河を瞬時に凍らせるなど、到底無理な話だ。
だが、既に固まっている氷塊を連結させ氷の浮橋とすること、それなら可能だった。
ただそれでも、準備を含め、その作業をには10名を超える氷魔法士が必要だったが……
そして、風魔法士たちが作った傘の下、対岸の兵士たちには退路が用意された。
「た、退路だぁ!」
「助かるぞ!」
「クラリス殿下、万歳っ!」
河岸に追い詰められ、進退窮まっていた彼らは、幾つかの退路に導かれ、撤退を開始した。
それと同時に中央の橋では、カイル王国兵を追った公国兵たちが殺到し、橋の中央部分に差し掛かろうとしていた。
「中央部の鐘、3打に変更せよ! 目標、橋中央部から対岸一帯の敵軍。
射撃用意……、撃てっ!」
シュルツ軍団長の指示で、橋の正面に展開していた王都騎士団第三軍のうち、1,000名の兵士たちが一気にクロスボウの矢を放った。
それらの矢は風魔法士たちに導かれ、弧を描いてフェアラート公国兵たちの頭上に降り注いだ。
射撃後すぐさま、最初の1,000名は右へと走り、傍らに控えていた別の1,000名が射撃位置に着いた。
「続けて第2射、連続発射を行う! 射撃要員の交代はできているな?
射撃用意……、撃てっ!」
第2射を放った者たちは、射撃後すぐさま、元居た左の場所へ走った。
そして後方に控えていた1,000名が、前方に進出して射撃準備を行う。
この河沿いの戦場は、弓箭兵たちが広く展開できる広大な平原ではない。展開場所も限られているため、事前にシュルツ軍団長は、3名一組の体制ではなく、3組交代で連続発射を行う体制を整えていた。
絶好の射撃位置である、約50メル四方の空間4箇所にに展開した1,000名が、次々と入れ替わり、間断なく統制射撃を繰り返す。
「第3射、用意……、撃てっ!」
この僅かな時間で行われた3連射で、戦局は一気にカイル王国側有利に傾いた。
※
無抵抗の獲物を狩るがごとく、戦いに狂奔していたフェアラート公国兵は、3連射を浴び立場が入れ替わるようにバタバタと斃れていった。
特に、橋の上に展開していた者たちは、後続に押され逃げ場もない。
「なっ、何をしておるか!
これでは今度は我らが、いい的になってしまうではないか。引けっ! 一旦後退して体制を立て直せ!
引けっ! 引けと言っているだろうが!」
敵国の王女が居ると知り、勇躍して前線に出て兵を指揮していた男爵は、動揺した声を上げていた。
後退しようにも、後続の兵が邪魔で身動きが取れなかった。
まして後退すべき退路が、最も危険な矢の暴風に晒されている場所なのだから、男爵の思うように兵士が動くことはなかった。
二度目の三連射が行われた時、男爵の命運は尽きた。
「お、俺はっ! あの生意気な成り上がりの小僧の首を取るために、ここまでやって来たのだ。
こ、こんな所で……、ぐわっ!」
これが男爵の最後の言葉となった。
時を遡ること二年、フェアリーの晩餐会にて馬鹿にしていたタクヒールの威に圧され、醜態を晒しただけでなく、自虐趣味、躾の悪い犬などと侮辱された彼は、自尊心を傷付けられた事に対し復讐を果たし、溜飲を下げることだけを目的に、今回の戦いに参加していた。
そして、彼の願いは永遠に叶えられることは無くなった。
「ちっ、してやられたか……
奴らの雑兵を討ち漏らしたことは悔やまれるが、男爵の仇は討ってやる!
飛び道具が、お前たちだけのものではないこと、思い知らせてやるわ!
一旦軍を引け! 魔法兵団を後方から前線へ、伝令を走らせよ!」
侵攻軍先遣隊を預かるレッサー伯爵は、舌打ちしながらも次の算段を巡らせていた。
降り注ぐ業火と、雷撃の雨を以て、敵軍を一気に掃討するため、復讐戦の準備に入っていた。
※
一方、カイル王国陣営では、撤退してきた兵を収容し、負傷者は後送されて直ちに治療が行われていた。
幸いにも敵側は、弓箭兵により徹底的に叩いたあと、退路のない河岸から王国兵たちを追い落とす戦術を取っていた。
そのため、橋の周りに展開していた味方を除き、左右の河川敷に展開していた西部辺境貴族たちの損害は、思ったよりも少なかった。
これは、フェアラート公国軍が余裕を持った距離から、逃げ場のない彼らを、じりじりと追い詰めるように弓箭兵による射撃を行っていたこと、それも要因のひとつだった。
「報告します!
まだ正確な数は分かりませんが、味方の損害は約1,500名、此方に辿り着いた兵2,000も半数以上が負傷しておりますが、聖魔法士により回復に向かっております。
即座に戦力となり得るのはおよそ1,000名前後かと思われます」
「ありがとう。
今はクリシアさんの所が一番大変だと思うので、各部隊はそこへの助力をお願いしますね。
これで、ひと段落かしら?」
「殿下! ひと段落ではありませんぞ!
敵も今度は、本気になって攻めてくることでしょう。先ほどは言葉を控えましたが、殿下はもう少しお慎みくださいますようお願いします!」
「あら、どうして?」
「どうしても、こうしてもございません!
殿下のお言葉で、敵軍は殿下がここにいらっしゃる事を知りました。
それがどういう意味か、お分かりいただけませんか!」
シュルツにしてみれば、頭の痛い話どころではない。
王国の大切な存在、王女の身に危険が及ぶことを避ける、これは万難を排してでも行うべきことだった。
「ふふふっ、必死になって攻めてくるでしょうね?
敢えて聞きます。シュルツ軍団長、ここに陣を構える私たちが、西部方面で最も恐れる事は何ですか?」
「それと何が関係を……
侵攻軍が数の利を生かして、一軍を前面に置きつつ、大きく戦場を迂回し王都を衝くことでしょう。
そうなれば我々は……、まっ、まさか?」
「そうよね、そうなれば私たちは一番困ります。
でも彼らは、思ってもいない美味しい餌が目の前に吊り下げられたのです。必死になってここを攻めてくることに固執するでしょうね。私たちの思惑通りに」
シュルツは目の前で微笑みながら、王族たる自身を餌と言ってのける少女を、末恐ろしく思った。
この胆力、男にさえ生まれていればこの国は、この先もずっと安泰となることだろう。
いや、中身だけなら十分に男と言って申し分ない。
「あら? もしかして今、失礼なことを考えていませんか?
魔境伯のように公然と私を、脳筋女、間違って女に生まれて来た者、そのように仰りたいのでしょうか?」
そう言って笑う姿は、見た目だけは可憐でまだあどけない少女だ。そう、見た目だけは……
それにしても、魔境伯はそんな不敬で恐ろしいことを、事も無げに殿下に言うのか?
それはそれで怖いもの知らずの、恐ろしい男だと思う。
以前に外務卿が『殿下を御すことができるのは魔境伯しかおらんて』、そう言っていたのを思い出した。
これがこの国の新しい時代なのか?
今回の防衛策自体、魔境伯やその配下の案と聞いている。
次世代を担う若手の軍団長、そう持て囃されていた自分自身が、もう既に時代に取り残された古いもの、そう感じずにはいられなかった。
「それに、私が身分を明かしたことで、少なくとも2,000名の兵士たちを助けることができました。
亡くなったクランティフ辺境伯の真意は分かり兼ねます。でも、彼の言葉に対するには、それ相応の立場が必要であったと考えています。
私は、誤解したまま王国の兵同士が、相打つ姿など見たくありませんでした」
そう言った彼女は、先程とはうって変わった憐憫と慈愛に満ちた表情をしていた。
「御意」
この方はそこまでお考えで……、自身とは器が違う。
戦慄に似た感覚に襲われたシュルツは、ただ一言だけ発するのが精いっぱいだった。
「さて、予定外の前座はこれでおしまい。
これからが本当の戦いよ。シュルツ軍団長、そして皆さま、引き続きお願いしますね」
西部戦線は新たな局面へと移ることになる。
クラリスの言葉通り、カイル王国軍が経験したことのない戦い、魔法士同士が相打つ戦いが始まろうとしていた。
いつもご覧いただきありがとうございます。
次回は『魔法士相打つ戦い』を投稿予定です。
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