間話6 我が名はエロール
エロールが目を覚ますと、小奇麗な病床に寝かされ、体には手当の跡があった。
「そうか、私は……、助かったのか。
いや、助けられたのだな、あの者の配下に……
それにしても、私があのソリス男爵を頼ることになるとはな」
病床でエロールは自嘲した。
その顔には、忌々しさなど微塵もなく、どこか達観した清々しささえあった。
彼は、自身の過去を、窮地に助けを求めたソリス男爵との、過去にあった経緯に思いを馳せた。
思えば幼少のころより、父と兄には、王国貴族としての誇り、果たすべき勤めを叩き込まれ、将来は子爵家の跡を継ぐ聡明な兄を支え、自身は王国の藩屛たる気概を持っていたものだ。
だが、ある時を境に、父は目下の者に尊大に振る舞うようになり、言動は陰湿かつ、高圧的になった。
まだ10歳を過ぎたばかりの私は、それが正しい貴族のありかたであり、貴族としての矜持だと勘違いした。
その頃の私には、2人の叔父がいた。
彼らは、父の治世を支える柱石として懸命に働き、私自身、叔父たちをとても慕っていた。
叔父たちは、日々兵士たちと剣の修練で汗を流し、領民たちと共に農作業に勤しみ汗を流していた。
『良いか、エロール。俺たちが貴族なんてふんぞり返っていられるのは、領民や兵士がいるお陰だ。
彼らが領地を豊かにし、戦場で命を賭して戦ってくれるからこそ、我らは貴族として存在できる。
このこと、決して忘れてはいかんぞ』
この叔父たちの言葉と、彼らの行いは、ずっと先まで私の中に強く焼き付いていた。
だが、父が変わったのと時を同じくし、叔父たちと父の間で、意見の違いが際立つようになった。
苛烈な治世へと舵を切った父に対し、叔父たちは時には激しく意見をしたが、父は全く受け付けなかった。
そしてある日、魔境へ遠征に出ていた叔父たちが、姿を消し、二度と戻ることはなかった。
私は、唯一親しく接してくれた叔父たちを失い、距離を置かれ始めていた父や兄、ふたりの歓心を買うため努力し、彼らの行いを真似るようになった。
自身には、貴族としての矜持がまだ足りない。
立派な矜持を持ち、貴族として相応しい者になれば、父も昔の様に自分を構ってくれる。そう思い込んで。
「そう言えば、男爵との出会いでも、私は無礼極まりなかったな。そして、これまでがこれまでだ。
信用されないのも当然、自業自得というものだな」
匿われたこの病室の外にも、見張りの兵が行き来し、自分を監視しているのがわかる。
それが分かっても、男爵の配下を責める気にはならなかった。
男爵との出会いは、私が13歳になった時だった。
その年、ヒヨリミ領を未曾有の洪水が襲った。
被災地では多くの領民が亡くなり、家や畑を失い、食うにも困る者たちで溢れかえっている、そう聞いた。
その時私は、かつて叔父たちが言った言葉を思い出し、勇気を出して父に申し出た。
『父上、領民たちの救援に兵を派遣しませんか?
民たちは困っているはずです。どうか、支援の手を差し伸べていただくよう、お願いします。
一人でも多くの民を助けたく思いますので、私も、救援のため派遣する部隊の一員にお加えください』
そう進言したが父は無反応だった。
こうして、ヒヨリミ子爵家から、救援のため兵が派遣されることもなく、時が過ぎた。
私は、ヒヨリミ子爵家の一員として、それ以前に貴族として、まだ父に信頼されていない、そう思った。
ところがある日、急に父から呼び出しを受けた。
『エロール、隣の蕪男爵めが洪水被害の支援として、救援部隊派遣を申し出てきた。
なお、救援部隊には奴の次男も付いてくるそうだ。
ヒヨリミ家の一員、子爵家として相応の対応を行い、奴らの作業を監督せよ。
良いか、我々は子爵家であり彼らより上位の立場だ。共に働くことはまかりならん。決して侮られるなよ』
そう言われて、被災現場に行く許可がもらえた。
父の物言いは、なんとなく腑に落ちなかったが、何より救援部隊が派遣されることが嬉しかった。
だが、いざ出発となると、食料など救援物資を持ち出すことが禁じられていた。
それは被災した領民には無くてはならない物資だ。
同行する家宰が、関係各所を回りなんとか、少量だが、最低限の物資をかき集めてくれた。
それが、私たちのできる精いっぱいのことだった。
そして現地に着くと、驚きの余り言葉を失うことが、幾つもあった。
災害の規模とその惨状に。
隣領の救援部隊の規模の大きさに。
それらの、統制された動きと働きぶりに。
隣領が用意した、食料などの救援物資の豊富さに。
僅かな供回りの兵と、僅かな救援物資しか持ち合わせていなかった自分自身が、とても恥ずかしくなった。
そして、この部隊を率いているのが、自分よりも3歳も年下の子供と知った時は、驚きと称賛の気持ち以上に、彼に対して激しい嫉妬心が、私の中で沸き起こった。
私がいくら望んでも得られなかったものを、彼は持っていたからだ。
そんな感情もあって、現地では自分から彼に対し、挨拶に出向くことはなかった。
こちらは子爵の息子、向こうは男爵の息子。
序列として、先方が挨拶に来るのは当然だ、当時はそう思っていた。
今考えると、助けてもらっている側であることも理解できない、馬鹿な子供だと恥ずかしい限りだが。
だが、暫らく経つと、なかなか挨拶に来ない小僧に、私は痺れを切らした。
奴に一言、貴族としての道理を、弁えるべき序列を教えてやらなくてはいけない、そう思うようになった。
そしてある日、自ら彼に会いに行った。
彼が対応を請け負っている救援現場には、驚くべき光景が展開されていた。
本来、私がやりたかった事、彼はかつての叔父たちと同様、民に混じり泥にまみれ汗を流していた。
更に、私よりも年下の小僧を慕い、整然とその統制に従う、救援部隊の大人たち……
『なんだ、蕪男爵の一族は、貴族でありながら幼い子供でも、領民と一緒になって泥にまみれて働くのか?』
それは、羨ましい気持ちとは裏腹に、素直になれない自身から出た、悔しまぎれの言葉だった。
『我らには到底真似のできない偉業というべきだな』
私が出来ないこと、禁じられていることを、平然とやっている彼が羨ましかった。
それは、私にとって賞賛すべき偉業だった。
だが、気持ちとは裏腹に、彼の行いは貴族としてあるまじき、見苦しきこと。
そう言い放ってしまった。
小さな私は、悔し気に見返す小僧を、馬上から見下ろすことで、少しだけ気分が晴れた思いだった。
だが……、すぐに私は自身の言動を後悔することになった。
小僧の後ろにいた者たちが、凄まじい殺気で私を睨む気配を感じた。
特に赤毛のメイドの、冷たい、そして汚物を見るように見下す強い視線には、背筋が凍る思いがした。
このまま此処にいたら殺される!
そんな無言の圧力を感じ、私はその場を逃げ出すように立ち去った。
「今更ではあるが、正式に男爵には詫びねばなるまい。
あの時の事だけではない、過去の私の非礼全てを。本当に私は、愚かで小さな小僧であったわ。
だが、あの災害が、私が父や兄と想いを異にする、確執の始まりだったとも言えるな」
あまりにも恥ずかしい出来事を思い出し、私は再び自嘲し、ひとり呟かずにはいられなかった。
その後、被災地から戻った私は、直ちに父に面会し願い出た。
『父上! 災害の状況は想像を超えております。
更なる救援部隊の派遣と、物資の提供を民は待ちかねています。隣領に我らも負ける訳にはいきません』
あの小僧に負けたくない、そんな思いもあってか、当時の私は必死に父に訴えた。
だが父は、それを受け流し、何をするでも無かったが、その後も私は諦めなかった。
ヒンデルから聞いた、隣領の施策、財政面の優遇や、新規入植地の開発に加え、領民を救済する提案など、思いつく限り、そして父と顔を合わす度に提案した。
それら全てが、無反応で無視され続けたが……
こうして私は、隣領への嫉妬と自身の不甲斐なさを募らせ、鬱々(うつうつ)とした日々を送ることとなった。
貴族の一員として、私の未熟さ故に、父から認められていないのだろう。そう思って自分を責めた。
そう、私はずっと羨ましかった。
自身がしたいと思っている領民への支援策を行う、隣領の子弟たちが。
民を救う支援策をいくら提案しても、結局父親の了解を得る事はできず、その資金もなかった自身に比べ、隣領の格下である男爵家が、領民に対して様々な施策を行い、民がどんどん豊かになっていることが。
そのため私は、ソリス家の兄弟を妬み、嫌い、悪態をつき、不遜な態度を取るようになっていった。
そんな私にも、唯一、救いがあった。
被災時に同行し親しく接するようになった、家宰の計らいにより、私は領内で、こっそり叔父たちの真似ができるようになったことだ。
私は日々館を抜け出しては、領民たちと共に汗を流し、領民を守るため、兵たちと共に汗を流した。
私にとって、これらの時間が何より幸せだった。
だがある日、兄を通じて私の行動が父に露見し、呼び出しを受けた。
『エロールよ、貴様はまだ貴族として学ぶべきことが多いな。王都の学園でそれを学んで来い。
なお、卒業まで、帰領することまかりならん』
私は嬉しかった。父から叱責されると思っていた私に、王都で学ぶ機会を与えられらことが。
今思えば、単に厄介払い、そんなことでしかなかったのだろうが……
そんな私を心配したのか、ずっと疎遠になっていた兄も、王都に同行してくれた。
私は、兄を差し置いて自分ひとり学園に通うことが、とても申し訳なく思っていた。
だが兄は、そんな事を気にするでもなく、暫らく王都に滞在しつつ、学園内の様子や、通う生徒の身分や立場、彼らの動向など、詳しい情報に興味を示し、毎日私にその報告を求めてきた。
私はこっそり兄を連れ、何度か学園も出入りした。
そうして暫らく後、兄は黙って領地に帰って行った。
所がある日、突然王都にやって来た兄から、領内の野盗の出没情報と、父が私に、その征討の命を下したことを聞かされた。
父が私に! 凄く嬉しかった。
兄が仲介してくれたお陰で、やっと私も父から認められるようになったのだろう。
その時の私は、そう思い兄に感謝した。
その後、入れ替わりに兄を王都に残し、大急ぎで領地に向かった。
領地に到着後、預けられた兵を伴い領境へ向けて出発し、事前に兄から受けた指示に従って、隣領のテイグーンを目指した。
当時の私は、以前に増してソリス兄弟を憎んでいた。
既に武勲をあげ、准男爵の地位にある同い年の兄を。
3歳年下ながら、辺境伯に取り入り、莫大な投資を受け、独自の鉱山を得ていた、あの弟もそうだ。
その時の私の心は、2つの気持ちで揺れていた。
気持ちの半分は本気で、野盗に襲われるであろう無辜の民を救わなければならないという思い。
残った気持ちの半分は、ソリスの弟を見返し、彼が持つ膨大な資金の一部を手に入れる機会だという思い。
助けたことを恩に着せ、派兵と討伐、駐留にかかる経費を徴収し、我が領内の内政に手を入れるための資金とすること。
彼の領地の内政にも関与し、私が父からは決して与えられることのない資金、それを得るべく動いていたのも事実だ。
だが彼は、そんな私の邪な思いを知っていたのか、手酷く、介入を断られてしまった……
後日になって、不思議に思ったのは、兄が襲撃の場所、日時まで正確に読み当てていたことだった。
王都に戻り翌年、王国の危機に対し、子弟騎士団が結成されると聞き、私自身も迷わず手を上げた。
不思議なことに、私は後から参加した、身分の低い子爵家次男にも関わらず、発案者の一人として、貴族たちの中では比較的優遇された立場にいた。
あの戦い……
今振り返れば、嫌というほど分かる。
私を含め、当時の彼らが、どれだけ愚かだったか。
自尊心を肥大化するよう焚き付けられ、過信と慢心を吹き込まれた、無知で無謀な若者たちに過ぎなかった事が。
彼らの行動は、まるで熱病に冒されたように常軌を逸し、結果、味方や仲間を巻き込んで壮大に自滅した。
だがその時、私は父や兄から、第一子弟騎士団に参加した身勝手な行動の叱責を受け、砦内に軟禁されていたため、難を逃れた。
兄に軟禁されていたお陰で、命を永らえた私は、軟禁から解放された日、戦場から戻ったソリス家の兄弟が、戦死した兵士の亡骸に縋り付き、取り乱して泣きすがる姿を見た。
見ていて、胸が締め付けられる光景だった。
これまで父や兄が、戦いで亡くなった兵士を悼む姿を、私は見たことがない。
それは、私の中で何かが切り替わった瞬間だった。
その後、第一子弟騎士団の不名誉な失態と噂で、私は王都の学園でも居場所を失ってしまった。
こうして私は、失意のまま退学し、密かに帰領した。
領地に戻った私に対し、父と兄は相変わらず冷淡だった。
だが、領内での飼い殺し同然の暮らしも、彼らの不興を買う事も、もうどうでも良いことに思えた。
私は密かに家宰のヒンデルと組み、父や兄の圧政に苦しむ領民を、少しでも支えるために動くと決意していたからだ。
魔物が領内に出没した時は、少ない手勢を率いて幾度となく辺境に遠征した。
一人でも多くの領民を魔物から救うため、必死になって町や村を脅かす奴らの討伐を行った。
ちょっとした災害でも、僅かな兵と共に現地に駆け付け、復旧のため泥にまみれて汗を流した。
こうした遠征時に持参した食料などの物資は、現地でこっそり困窮した領民たちに分け与えた。
このあたりは、家宰のヒンデルの手腕で必要経費として、うまく処理されていた。
そうした日々を送る内、私はやっと、隣領に対する自身の不明を、兄弟に対する自身の醜い嫉妬を、認め、乗り越えることができるようになった。
隣領を羨み、兄弟を逆恨みする愚かさが身に染みた。
領民のために何かを、そう望む自己満足を捨てた。
自身は主役でなく、助けを求めている領民が主役だ。
そう思えば、今の立場でもできることは沢山あるように思え、不思議と私の中から焦りは消えた。
「ふん、自分でもいささか遠回りをしたものだ。
だが、遠回りしたからこそ、得られたものも多かった。
なのに、これからだという時に……
私の不甲斐なさで、領民たちを苦しめることになってしまった」
エロールは、悔しさのあまり唇を噛み締めた。
口元から一筋の血が流れていることも気付かずに。
※
エロールはこの2年間、領民達を支えるため、家宰とともに懸命に、それこそ寸暇を惜しんで領内各地を奔走していた。
その努力の結果、領主の酷薄な悪政にも関わらず、領地はなんとか持ちこたえようとしていた。
父親や兄に比べ、元々領民からの評判が良かったエロールを、領民や兵士たちは『若様』と呼び、その噂は広がり、これまで以上に彼は慕われていった。
だが、このことが、常々領民や兵士に人気のある弟を妬み、闇魔法で彼になりすましては陰謀を企て、扇動していた兄、リュグナーの心証を、一層悪くしていたとは気付いていなかった。
タクヒールによって改変された歴史は、少年時代からエロールに大きな影響をもたらしていた。
本来、いや前回の歴史であれば、彼は、隣領のことなど全く気にせず、歪んだまま成長し、今回の疫病で亡くなる筈だった、父と兄の後を継ぐことになっていた。
もちろん、その過程で老人から闇の洗礼を受けて。
然るのち、同じく両親を疫病で失い、領主となったソリス男爵と初めて出会い、二人は確執を深めることになる予定だった。
だが、エロールを取り巻く運命の歯車は、タクヒールの行う改編で、大きく変わってしまっていた。
サザンゲート殲滅戦で受けた被害、洪水や魔物の氾濫による被害、その中で起きた様々な応酬、そして、異なる経路で発生した疫病と、対処法を知った父と兄の生存など。
それ以外にも小さな変化は多々あった。
それは、この先の彼の生き方を更に大きく、いや、全く違うものへと変えていくことになる。
※
これまでの経緯を振り返り、エロールは改めて決意した。
領民を道具とし、反逆を企てた父と兄に対し、自ら誅罰の刀を振るうことを。
反逆者の眷属として、処罰されるその日まで、一人でも多くの領民を守っていくことを。
反逆に巻き込まれた兵たちを説き、一人でも多くの兵を不毛な戦いから救ってやることを。
私はヒヨリミの名を、たった今捨てる。
民たちが逃げ込んだ、この地を彼らと共に守らなくてはならない。
兵たちが攻め入る、この地にいてこそ、兵らに真実を伝え、その過ちを正し導かなくてはならない。
「そう、我が名はエロール!
ただそれのみ。
王国に忠義を尽くし、苦しんでいる民を守り、くらきに陥った兵を助くため、この命を永らえた者。
この使命の他には、何もいらん!」
決意を新たにした彼の叫びは、彼が匿われた一室の外まで響き渡った。
少し前から、エロールってあんな性格だっけ?
そう思われた方も多いと思っています。
今回、何故エロールが変わったか。
二回目との違いや本当の彼の本質などを書いてみました。
ご覧いただきありがとうございます。
次回は【叛旗は翻る】を投稿予定です。
どうぞよろしくお願いいたします。