第97話:憤怒
「立ちあがる」
「大丈夫なの?」
「ああ、怪我や病気ではないから」
そう言うとレクシーは車椅子から立ち上がります。わたくしは彼の右腕を支えて共に歩き、ゆっくりと数歩進んだところで彼は膝を折ります。
「アレクシ・ペルトラ、仰せにより罷り越しました」
「うむ、掛けるが良い」
レクシーの手をとって立ち上がるのを補助しますが……軽い。不安になる軽さです。
「随分と窶れられたな」
陛下が尋ねます。
「枢機卿の屋敷に監禁されている間、毒を警戒して出された食事に手をつけなかっただけです。お構いなく」
「……そうか」
「アレクシ氏。お久しぶりですな」
教皇猊下が声をかけられます。レクシーは座ったまま会釈をしました。
「ええ、お久しぶりです」
「毒を警戒するとは教会に不審が?」
レクシーは少々動きを止めて考えます。いえ、彼の視線の動きからして言うことを考えているのではない。躊躇、いや覚悟をしているのでしょう
「教会全体に対する不審ではありません。ですがパトリカイネン王家並びに王都大聖堂教会を信用するなど到底できかねますな」
「不敬であるぞ!」
「あなたたちが私たちに敬意を払われるような振る舞いをしてきたとでも言うつもりか?」
「王の権威に民が従い畏敬するのは当然である」
レクシーは態とらしく椅子に浅く座り直して脚を組みました。
「権威があれば平民に祝福されぬ結婚を命じ、成果を略奪しようとし、無実の罪に問うことも許されると。そしてその当事者であっても敬わねばならないと」
レクシーは鼻で笑います。
「クソ喰らえだ」
「何だと?」
王が聞き返し、イーナ嬢が顔を青褪めさせます。
わたくしは少し身を乗り出し、レクシーの袖をそっと引きました。
「旦那様、平民のお言葉では伝わってませんわよ」
「あなたの仰る要求を呑むのは排泄物を食べるよりも苦しいのですが、まずはご自分の出した排泄物を召し上がられては如何でしょうか陛下?」
「あの者を引っ捕えよ!」
陛下が立ち上がって叫び、控えていた護衛たちが武器を構えつつ駆け寄り、わたくしはネックレスをむしるように千切り取って構えます。
「喝!」
教皇猊下が叫びました。
それは音というよりも魔力を伴った波動。大気ごと固まったかのように誰もの動きが止まります。
「……ペルトラ夫人、恐ろしい女性よ。皆、動くでないぞ。この場の全員の生殺与奪を握っているのは彼女ゆえな」
わたくしの手の中で輝く魔石。それを見て仰います。
「王よ、矛を収めてはくれぬか。愚禿も充分生きはしたが、死にたいわけではないぞ」
「なにを……?」
「分からぬか。あの首飾りについてる大粒の石は全て魔力の満ちた魔石よ。それも暴発寸前のな。この逃げ場のない会議室で爆発したらどうなると思うかね」
わたくしは言います。
「兵を引かせれば止めます」
陛下は腰が砕けたかのように椅子に身を落とし、手の一振りで兵を引かせます。わたくしも首飾りを膝の上に置きました。
「ペルトラ夫人は判断が早い。覚悟が決まっていると言うべきか」
「当然ですわ」
「なぜかね?」
「温厚な夫にこんなにも怒りを抱かせ、こんなにも窶れる目に遭わせているのですわ。わたくし、神の信徒ではありますが、経典の聖人たちのように敵を許すような気性ではありませんもの」
ヨハンネス猊下が言います。
「まて、彼が食事をほとんど摂らなかったのは彼自身の判断であり、それを強要はしていない!」
「ええ、それは先ほど夫の言っていた通りなのでしょう。枢機卿猊下の監禁の是非については夫に語ってもらうとして、わたくしから言えることは一つ。これが問題ないと言うなら、枢機卿猊下も体重を半分以下にすべきですわね」
ふっと、ナマドリウスⅣ世猊下が笑われました。
「まあ聖職者にしては肥えすぎているだろうね」
「節制の徳目を守っているとは思えませんわ」
「ヴィルヘルミーナ・ペルトラよ。貴女の憤怒の悪徳を許そう。代わりにこの場ではヨハンネスの暴食の悪徳を許しても構わぬだろうか」
わたくしは頷き、教皇猊下は二度祈りの所作をなさいます。
「これにて罪は許された」
陛下から咳払いが一つ。
「教皇猊下、その、我が国での犯罪をそちらで許されては困りますな。彼女は王を弑そうとした大逆者ですぞ」
「ふむ、内政に干渉する気はない。それは教皇としての役目ではない故にな」
「え、ええ!」
陛下は勢い込んで肯定し、枢機卿は俯いたままです。枢機卿の罪を裁くのは教皇の役目ですからね。
「彼女の処遇については愚禿のここでの話が終わった後であればそちらの自由にして構わんよ」
わたくしも頷きます。
「さて、アレクシ・ペルトラよ。汝の怒りを許すにはただ愚禿が祈るだけでは難しそうだ」
レクシーは答えず、身じろぎします。
「汝がなぜその怒りを感じたのか、告解してもらわねばな」
教皇猊下がにやりと笑みを浮かべました。
「ええと、なんだ。平民に祝福されぬ結婚を命じ、成果を略奪しようとし、無実の罪に問うことも許されるであったか?」






