第73話:王太子の困惑
王城における余の住まう棟、その門の前に止まったペリクネン公の馬車よりイーナが姿を見せる。
ペリクネン公に与えられたのであろう黄色を基調としたドレスは、彼の地の特産である魔石により煌びやかに飾られていた。
かつてのように馬車に取り付けられた小階段を駆けるように降りて、余に飛びついてくるかとも思ったが、そのようなこともない。
公の実子ユルレミにエスコートされて馬車を降りると、落ち着いた声で言った。
「王国の尊き暁たるエリアス殿下に、イーナ・ロイネ・ペリクネンよりご挨拶申し上げます」
そしてイーナは余の前で淑女の礼を取った。
ユルレミもまた紳士の礼を取る。
「……うむ、よくぞ参った。ユルレミ殿もご苦労であった」
イーナの挨拶の作法は間違っていない。確かに彼女は無邪気な振る舞いもしていたが、昨秋でも礼儀作法はある程度身についていたしちゃんとした礼ができることに不思議はない。
だがなぜか余はそれに心を乱される気持ちであった。
イーナがいなかった半年、父である王陛下からはあまりとやかく言われないようになっている。
それは余が王太子としての務めを果たしていたということなのか、王太子として期待されなくなったのか。
彼女が城に戻ってすぐ、イーナの評判が女官たちの間で上向いているという報告を受けた。
しばらく王城から離していたのは、抱かれていた悪感情を一旦打ち切らせるという意図もあったので、これは想定通りだ。
……だが。余の思うよりも随分と早くあるように思う。
余はペリクネン公領にも帯同させたイーナの女家庭教師を呼び出してその旨を尋ねた。
「それはイーナ嬢の所作や言葉に魂が宿ったからにございます」
「魂。……抽象的な表現だな」
「王太子妃、ゆくゆくは王妃となられる覚悟ができたのでございましょう。礼ひとつとってみても、そこに意味も考えず言われた通り、形通りに頭を下げているのと、それを理解しようと努めているのでは、単に所作が洗練される以上の違いがございますれば」
「なるほど……。ペリクネン大公家で何か心情の変化が?」
そう言うと女家庭教師は困ったように眉を顰めた。
「そうではないと思うのです。王都に戻ってから登城するまでの一月にも満たない期間のことかと。おそらくはお茶会などに参加して、良い影響を受けられたのかと思いますわ」
ふむ、なるほど。それを聞き、余は彼女を下がらせた。
そしてその日の彼女との個人的な茶会において、イーナにそのことを褒めようとした矢先、彼女から突然話を切り出された。
「ヴィルヘルミーナさんを王城に呼びつけたと伺いました」
カップを持つ俺の手が震え、クロスに小さい染みを作った。
バカな! なぜイーナがそれを知っている?
俺は慎重にカップをソーサーに戻して彼女に問う。
「……誰から聞いた?」
「人の上に立つものはより遠くが見え、逆に遠くからも見られるものです。そう教わりました」
その通りだ。確かにその通りであり、誰から聞いたかと言うのは些事に過ぎない。だがらしくない、イーナらしからぬ言い方だ。
いや、余が彼女に疑心を抱かせてしまったゆえか。彼女は続ける。
「エリアス殿下。わたしは理解したのです。イーナは王妃にはなれないと」
「違う! ヴィルヘルミーナを呼びつけたのは、あの女を余の婚約者に戻すためではない! イーナを王妃にせんがためだ!」
「存じております。ヴィルヘルミーナさんもそれを望んでいないと。あの方は死を覚悟して殿下の前に立った。そう聞き及んでいます」
「馬鹿な! ……ヴィルヘルミーナがそんな女であるものか。だがお前を不安にさせたことは謝罪しよう。余の妻は、イーナ、お前しかいない」
彼女は笑みを扇の後ろに隠した。
「嬉しゅうございます」
「……イーナ」
脳裏に、『嬉しいっ!』と満面の笑みで抱きついてくる彼女の姿が浮かんで消えた。
これが彼女の成長だとは分かっている。かつて言われたようにこの個人的な茶会とて壁際の女官たちが採点しているため、これが正しいということも。
喉の奥を苦いものが滑り落ちていく気がする。
「わたしが王妃として立つためには、あるいは王妃となれなくともそうであろうとする限り、殿下の愛してくださったイーナではいられないと」
彼女の愛らしいチョコレートブラウンの瞳が、一瞬、余の嫌ったペリドットに見えた。
「愛しています、エリアス殿下。これまでも、これからも。あなたが王子でなく薔薇の妖精様であったなら……いえ、それは不敬でした」
そう言って寂しそうに微笑んだ。その笑みは透徹としてとても美しかった。
だが、余は……お前をそのように笑わせたかったのでは……ない。