第70話:運命
イーナ嬢が微笑を浮かべました。
「申し訳ありません。かつてヴィルヘルミーナさんに愚かなるイーナ・マデトヤと呼ばれていたことを思い出しました」
わたくしは頷きます。
「そうですわね。王太子殿下に近づく貴女をそう呼び、警告を与えていました」
彼女の微笑はかつての溌剌としたものではなく、寂しさを湛えるようなものです。
「イーナは……、わたしはこの一年エリアス様の横に立てるよう頑張ってきました。でもその努力がヴィルヘルミーナさんに追いつくには到底足りないものだと、かつて警告していただいた意味がやっと分かったように思います」
王宮の中心から遠かった男爵令嬢にそれを悟れと言うのは難しいのでしょうけどね。特に殿下から求められていたのであれば。
とは言え、最大限良く言えば純真ということなのでしょうが、愚かという評価は当然でしょう。
「では一年で意味が分かったという上で尋ねます。貴女はこの先どうするのですか。いや……、どうしたいのですか」
どうする、と尋ねても自らの意志の通りに動ける訳ではありませんからね。
イーナ嬢の瞳が閉じられ、涙が睫毛の先から一滴零れ落ちました。
「それでも……、それでもイーナはエリアス様の隣にいたいと思います」
「なぜです」
「エリアス様を……愛しているからです」
これはかつて幾度か繰り返した問答。頑是ない子供のように変わらない言葉。
わたくしはかつてそれを愚者が愚者たる所以と断じていました。それは真でしょう。左手のファイアオパールに目をやります。しかし今のわたくしにはそれが物事の一側面であり、覚悟とも言えると感じてしまうのです。
わたくしが口を噤んでいると、彼女が問いかけてきました。
「ヴィルヘルミーナさんはエリアス殿下をまだ愛してい……」
「欠片もありませんわ」
ミルカ嬢が吹き出しました。少々食い気味に否定したためでしょう。
「我が愛は全て、夫たるアレクシに向けられています。かつての婚約者如きが介入する隙間はありませんの」
ミルカ嬢が続けます。
「ヴィルヘルミーナ様は、昨秋に殿下から呼び出され、妾になるよう命じられた時、自分が死んでも殿下を弑そうとする覚悟を持たれていましたから」
「妾……?」
イーナ嬢が驚愕に目を見開きます。
「ああ、やはりご存じではなかったのですね。別に愛ゆえではありませんわ。わたくしを城に入れようとなさっただけで」
わたくしはその件について簡単に話をしておきました。そして現在の殿下やイーナ嬢の状況についても。そしてこう宣言します。
「エリアス王太子殿下が王位に就くことはありません」
びくり、とイーナ嬢の肩が揺れました。わたくしは続けます。
「ペリクネン家も没落させますわ。申し訳ありませんけど」
わたくしも彼女も運命に翻弄されているのでしょうね。もちろんわたくしとて、目的地へと漕ぎ着けられる保証などないのですが。
「なぜ、と伺ってもよいものでしょうか」
「わたくしがそれを許さぬからです」
「それは……ヴィルヘルミーナ様が彼らを恨んでいるからですか?」
パチリ、と手の中の扇が鳴りました。
「恨んでいた……のでしょうね。ですが、もはや恨みはありません。ただ、わたくしと夫はこれから幸せになります。その幸せには富も名誉も付随しますが、彼らがそれを許さないのが分かっているからです」
「もし、イーナが仲を取り持つことができれば……」
否定の意を込めて扇を返しました。
「およしなさい。一つの山に二頭の竜は住まぬとの諺を知らぬ訳では無いでしょう」
わたくしと彼らが手を取り、共に栄える。そんな未来はないのです。
「わたくしが山を追われる竜なら、イーナ嬢が特に考えることはありません。愚鈍であっても王妃になれましょう。ですがわたくしが主となり、エリアス殿下が山を追われるとなったなら」
沈黙が部屋を支配します。そう、これをイーナ嬢に伝えておかねば。
「彼は毒杯を仰ぐことになるやも」
「それならばイーナも賜ります」
即座の答えが返りました。
「断頭台の露と消えるやも」
彼女は青褪めた表情で、それでもチョコレートブラウンの瞳をわたくしに真っ直ぐ向けて頷いてみせました。
わたくしはため息を一つ。彼女が王妃の地位や栄光を求めている普通の女であれば、そう思いもしたのですが。
「愚かなるイーナ・ペリクネン」
「はい」
「ですがあなたは愚かにして愛に殉じるイーナ・ペリクネンです。エリアス王太子殿下の運命がどうなるかは分かりませんが、貴女には同じ末路を辿らせましょう」
彼女は立ち上がると膝を折り、深く頭を下げました。その淑女の礼は、なぜかとても眩しく感じられました。
わたくしは天を仰ぐと、もはや交わす言葉も浮かばず、ただミルカ嬢に頷いて屋敷を後にしたのです。