第32話:姉弟
「ヴィルヘルミーナ」
そう声をかけてきたのは真新しいモーニングコート姿の初々しい少年。髪は白金、瞳は翡翠。わたくしと良く似た色合いです。それもそのはず、彼はわたくしの弟なのですから。
かつては姉さんと呼んでいましたが、家族としての縁は切れてしまいましたからね。
わたくしは淑女の礼をとります。
「お久しぶりです。ペリクネン公子ユルレミ様、それともラトゥマ伯爵となられましたでしょうか?」
わたくしは今季の貴族年鑑は見ておりませんけど、彼は15歳。成人を機にペリクネン公爵家が保有する爵位の一つであり、継嗣に与えられるラトゥマ伯の名を得ているはずです。
「ああ、ラトゥマだ。だがユルレミで良い」
「ではユルレミ様と」
彼は一瞬だけ不満げな顔を覗かせます。敬称をつけたのが気に入らないが仕方ないと思っているというところでしょうか。
「随分と危うい発言をする」
あら、聞かれていましたか。
「殿下たちを褒め称えただけですわ。ちょっとした失礼があっても、平民の言動として誤っていたという程度の話」
「姉さんが平民……ねぇ」
胡乱げなものを見るような目を向けられます。
ふふ、彼はまだわたくしのことを姉と呼んでくれるのですね。
ユルレミはおもむろに口を開きます。
「太陽を射落とした者は家僕に殺された」
その声はまるで詩を吟じるが如く。
「陽が沈むのは矢によるものにあらず。……陽は自らを焼き沈む」
わたくしも言葉を返します。
「太陽が地平線に沈む時、平原の住人たちもその身を焼かれん」
「祈り、首を垂れる者の頭上を嵐は通り過ぎる」
「しかして彼らはその身を金で飾り、月を抱き天に昇ろうとする者なり」
「月を手放せ、そは張り子の月なれば輝かぬ」
「彼らは張り子の月に金箔を施そう。最も敬虔なる者は平原を去ったがため」
「敬虔なる者は彼方の地で安寧を祈る」
ユルレミは笑いました。
「否、彼の者は矢を研ぐ」
わたくしも微笑みます。まあその通りですわね。
ユルレミはちらりとわたくしの斜め上に視点をやりました。
「紹介しますわ。夫のアレクシです。こちらはユルレミ・ラトゥマ様。次代のペリクネン公ですの」
アレクシ様が礼をとります。
「初めまして。ラトゥマ卿」
「ああ、ペルトラ氏ですね。あなたがヴィルヘルミーナの矢、それで良いのですか?」
ユルレミから手を差し出して二人は握手し、アレクシ様はユルレミの言葉に首を傾げながら言いました。
「俺にはあなたたちの言葉の半分も分かりませんが。それでも妻の求めに応じてやれればと思っています」
「彼女の復讐に手を貸すと?」
アレクシ様は茶色い瞳でこちらをちらりと見て頷きます。
「彼女のためだけという訳ではありませんから」
ユルレミは呆れたように呟きます。
「随分と都合の良い夫を見つけましたね」
「必然ですわ。王太子殿下がわたくしをああいった形で貶めようと画策したからです」
「違いない。アレクシ氏、ヴィルヘルミーナ、かつて僕の姉だった人をよろしくお願いします」
「はい」
「ヴィルヘルミーナ、お幸せに」
「ええ」
ユルレミは去り際に呟きます。
「最も敬虔なる者の飼っていた羊は、屠殺される前に平原の住民の若者が買い上げた」
まあ! わたくしが内心で感激していると、彼は続けます。
「その分だけ矢に手心を加えてください。それでは」
ユルレミに向かって深く頭を下げました。
そうしてわたくしたちは会場を後にします。
「結局どういう意味だったんだ?」
帰りの馬車の中でアレクシ様が尋ねました。
「わたくしが殿下とマデトヤ嬢に挑発的な言動をしたのです」
「へえ」
わたくしは殿下たちに伝えた言葉の意味を教えました。
アレクシ様は眉を顰めます。
「それは言っても大丈夫なものだったのか?」
「彼らはわたくしの言葉の裏の意味など読みませんわ。それに今日は格の低い園遊会ですし、平民がちょっと失言した程度でどうこうなることはありません。
ただ、弟は心配してくれたようですが」
「ラトゥマ卿との話はなんと?」
「太陽は王家の暗喩、矢はアレクシ様。わたくしがアレクシ様を使って王家を攻撃しようとしていると」
「家僕に殺されたとは?」
「そういう神話があるのですわ。それをもとにわたくしに警告したということでしょう。それに対して、わたくしは自らが動く、つまり暗殺や革命など考えていない、ただ殿下は自滅すると告げました」
「その身を自ら焼く、か。平原の住民は?」
「平原の住民とはペリクネン公爵家です。
ああ、単語はなんだって良いのですよ。ペリクネンのPと公爵のDが平原のPと住民のDにかけているだけです」
「なるほど、王家が失墜すると公爵家も失墜すると?」
「そうですね、以前銀行でお伝えした通り、ペリクネン公爵家が支出を抑えればそれは避けられると伝えたのですが、彼は無理と言ったわけですね。
月はマデトヤ嬢。彼女を養子に迎え、さらにそれを飾るのに金をかけると」
「敬虔なる者とはあなたか」
「そうですわ。羊はわたくし付きの使用人たち。解雇されそうになった分は、ユルレミが伯爵となるに応じて増える用人として再雇用する形で収めてくれたのでしょう」
「なるほどね……複雑怪奇だ」
アレクシ様は馬車の椅子にずり落ちるように深く座りました。
わたくしは笑って手を差し出します。
「ほら、ジャケットが皺になってしまいますわ」