第104話:それから
教皇猊下が王都にいらした日から、王都は大きく変わりゆくことになります。
あれから一月ほど経ちました。教皇猊下がパトリカイネンの王都に滞在することと、ヨハンネス枢機卿の失脚、来年に陛下の退位とエリアス殿下の継承権放棄が布告され、パーヴァリー第二王子が王位継承権一位となり、王太子となりました。
やはりその前日の二度の雷は天罰であったとまことしやかに噂されたのです。
世の中は好景気に湧いています。大聖堂と王城の改築という大規模な公共事業があるのもそうですが、結局のところ魔石の流通量と価格が産業のボトルネックになっていましたからね。もちろん、わたくしたちの事業も順調です。
レクシーも大分体重と健康を取り戻してきました。
「レクシー」
「何だい?」
机を並べての仕事の時です。
「結婚式を挙げませんか?」
彼は羽根ペンを取り落としました。
「ほら、わたくしたち結婚の祝福がアレだったではないですか」
わたくしたちを祝福したヨハンネス枢機卿は横領などの罪で囚われている犯罪者であり、教皇猊下が改めて祝福しようと言ってくださっているのです。そのような事を説明するとレクシーは言いました。
「なるほど、ただ式と言っても俺は孤児だし、ミーナも親を呼ばないだろう? そう派手にならないようなものなら良いのではないか?」
などと話していたのですが、翌日、レクシーは行方を眩ましたのです。
ご丁寧に家出するというような置き手紙を残して。
「なんでレクシーは逃げたのでしょうか」
わたくしの呟きにヒルッカがしたり顔で答えます。
「ああ、マリッジブルーというやつです」
「ほう」
なるほど、結婚前の不安感。ふむふむ。
「それとあれですね。結婚式をしようという話を奥様から切り出されて気まずいのですよ、きっと。何と言うか、男の甲斐性を見せられなかったって言うか」
なるほど。殿方の心とは難しいものですわね。ヒルッカが問います。
「どうなさいますか?」
「彼が真に逃げる気なら追いませんし追えないでしょう」
彼は真の天才ですからね。
「そうでないなら……」
数日後の夕刻のことです。場所は王都でも有数のホテル、オウナスバーラ。ここのシングルルームにレクシーが泊まっているのを突き止めています。
彼の価値観ならもっと安宿に泊まっているかもと思いましたが、ここの一番安い部屋であれば一般の平民でもちょっと奮発すれば泊まることのできる料金です。今の彼にとってはどうということはないもの。
そしてわたくしが控えているのはオウナスバーラ・ホテルのスイートルーム。一泊で平民の年収が飛ぶような部屋にいます。
遠くの入り口で声が聞こえてきました。
「申し訳ありません、ペルトラ氏。風呂場への配管の故障、御迷惑をお掛けしました」
「とんでもない。それで代わりにこんな良い部屋を用意してくれるだなんて」
ホテルのポーターの声、それに答えるレクシーの声。
「いえいえ、こちらこそ。今後ともオウナスバーラをよろしくお願いいたします。それでは失礼いたします」
まあ、風呂場を故障させたのはわたくしなんですけどね!
「ああ、ありがとう」
広い寝室に入ってきたレクシーと視線が合います。彼は手にしていた鞄を取り落としました。
「どうしてここが!」
わたくしは笑みを浮かべます。
「わたくしがレクシーの居場所を掴めぬとお思いですか?」
「探知術式で捉えられぬよう、魔石は外したのに!」
「ふふ、レクシーにつけた魔石が一つだけと思ったのが敗因ですわ」
逃げるならせめて服も靴も財布も全て変えた上でなくては。それにいまだに王都にいるのですもの。追ってほしいと言っているようなものでしょう?
わたくしはその場でくるりと一回転して見せます。
「それより、ご感想は?」
今日のわたくしが着ているのは純白のドレス。そう、結婚式のためにこっそり用意したものです。
「……とても、きれいだ。ミーナ」
「ふふ、ありがとうございます」
わたくしはきゅっと彼に抱きつきます。
「……どうして逃げたのですか?」
少しの沈黙。頭上からゆっくりと声が落ちてきます。
「俺はミーナを愛している。ミーナが俺を愛してくれているのも分かっているんだ」
「ええ、勿論ですわ」
「ただ、いざ俺が君の隣に立てるかと思ったら、自信が無くなった」
わたくしは両腕でレクシーの首に手を回し、唇を奪います。
「ではレクシーに自信をつけてもらうしかありませんわね」
「な、何を」
「決まっているでしょう」
わたくしはレクシーの足を引っ掛けながら引き倒し、二人重なるようにベッドの上に転がりました。
わたくしは彼の上に跨がります。
「いや待て、順番が出鱈目だ。まだ式の前だぞ」
「いいえ、もう結婚してからずっとずっと経っていますわ」
わたくしは再び彼の唇を奪い、純白のドレスに手を掛けました。
………………
翌朝。
レクシーが宿の朝食を前に祈りを捧げます。
「主よ、あなたの慈しみに感謝いたします。ここに用意されたる今日の糧を祝福し、私たちの命を支える糧として下さいますように。今日の糧を用意してくれた者に幸ありますように。そうあれかし」
「そうあれかし」
わたくしも唱和し、朝食を口にしました。
食後のコーヒーを喫している時、彼に尋ねます。
「どうですか? 男としての自信がつきましたか?」
わたくしの言葉に彼はげほごほと咽せます。口元をナプキンで拭い、ちょっと恨めしそうな顔をこちらに向けた後で頷くとボーイを呼びます。
真紅の薔薇の花束が用意されました。
「本当は今日これを持って帰るつもりだったんだが」
彼は立ち上がってわたくしの横に跪き、花束を差し出しました。
まあっ……。茶色の瞳が真っ直ぐに力強くこちらを見つめています。
「一生、あなたを、ヴィルヘルミーナを愛し、共にいることを誓います」
「わたくしもですわ。アレクシを愛し、共に在ることを誓います」
二人で声を合わせました。
「死が二人を分かつまで」






