5話
突然現れたお姫様への教師役を依頼された。この間、司書としての仕事の時間が減るが、陛下直々の依頼とあっては断れない。
実際に会ってみたシェリ様は、それはそれは儚げで、言葉も介さなかった。殿下曰く、シェリ様は言葉を話せないらしい。全てではないが、こちらの言葉を理解する様子は見せるとのこと。ならばと、シェリ様の最初の授業はこの国の文字を教えることから始まった。
「基本的な文字と致しましては、46文字と小音を表す9文字で成り立ちます。これを組み合わせることで単語というものが出来上がります。例えば、シェリ様のお名前はこうです」
文字が書かれた紙を眺めながら、シェリ様はそれを見よう見まねで書き出した。少し歪ではあるが初めてにしては上出来だ。
「今日はこれらの音と書き方をお教えします。明日までにできる限り覚えてみてくださいね」
話せないということであるから、発音は難しいだろうが、話を理解する上では重要な事だ。音がわからなければ聞き取れるわけが無い。1文字1文字、声に出しながら、口の形を見せながら丁寧に教えていく。音は出ないが、私の口の動きを真似する様子から、学ぶ意欲がある人なのだと伝わる。この調子ならスムーズに学習が進むはずだ。
少し休憩を挟んでから、授業を再開させる。私が気を外している間に、シェリ様は自身で字の練習をしていたようだ。書かれているのはアトレ、メア、ロア……シェリ様の身近におられる方たちだ。授業を進めるうちに、シェリ様は無知である訳では無いとわかった。文字を入れ替え、教えていない単語を書き出している。おそらく、故郷の言語で元の言葉を認識しているのだろう。そしてそれをこの国の言葉で書き直す。シェリ様の黒髪黒目という容姿は、この国、また周辺諸国では見られない。明らかに異国の人間であると分かる。このぐらいの子供にしては、まだまだ語彙力は足りていない様子だが、本人のやる気でそこはどうとでもなる。
「お疲れ様でした。本日はこれまでにしましょう。明日からは他の科目を取り入れてまいりましょうね」
ルッツが部屋を去り、ドア付近まで見送ったシェリはメアの休憩の提案にはのらず、再び椅子へと腰を下ろした。文字を書き、先程のルッツの発音を思い出す。口の動きを何となく真似てみる。その行動は、アトレが帰城するまで続けられていた。
数度扉を叩くと、メアが静かに扉を開けてくれた。部屋は明かりがつけられ、奥の椅子に座るシェリもよく見えた。
「ずっと勉強を?」
「はい、休憩にとミルクとお菓子をご用意したのですが、興味を持たれなかったようで」
申し訳なさそうに頭を下げ、1歩後ろへ下がる。シェリはまだ集中しているようで、僕が入ってきたことに気がついていない。真横に行き、シェリっと優しく声をかければ、弾かれたようにこちらを見た。
「ずっと頑張っていたんだね。シェリは偉いな。でも、休むのも大事だよ」
何度か取り換えたのだろう。そばにあるミルクは微かに湯気を踊らせている。
机上の紙をのぞき込むと、そこには歪な文字とだいぶ形が整った文字が並んでいた。
「一日でこんなに上達したんだね。シェリは賢いな」
よしよしと頭を撫でる間も、シェリは僕を見つめている。普段と違うのは、口を微かに動かしていることだろう。何か言いたいのだろうか。ん?っと首を傾げると、シェリは僕の胸元の服を掴み、小さな口を懸命に動かした。
「あ……お、れ」
「え?」
「あと、え」
「シェリ、もしかして……」
「あ、あ、あとれ!」
舌っ足らずで見た目よりも幼く感じる話し方だ。しかし、シェリははっきりと、僕の名を呼んでいる。
「シェリっ!」
「あと、れ」
思わず腕をシェリに回した。華奢な体はあっという間に僕の腕の中に収まってしまう。その間も、シェリは僕の名前を繰り返し呼んでいる。だんだんと上達していく呼び名に口元が緩んでいくのがわかった。
「シェリ、僕の名前を練習してくれたんだね。とても嬉しいよ」
シェリの前に膝をつき、小さな2つの手を自分の手で包み込む。呼べたことに満足したのか、いつもより瞳が爛々と輝いて見えた。
「初めて、シェリの声を聞けた。しかも僕の名を呼びながら……こんなに嬉しいことはない。シェリのおかげで、今日はとてもいい日になったよ。このことを父上たちにも教えてあげなければね、一緒に食事に行こうか」
シェリの声を聞いて驚いていたメアも、シェリの服装を整えるためにスっと動き出した。シェリの準備が整う前に、緩みきった頬を何とかしなければ。
午後まで読んでくださりありがとうございます