ぐるぐるの夜
夏の夜。
仕事から帰って玄関の扉を開けるとふわりと蚊取り線香の匂いがした。
おや?
匂いをたどっていけば、縁側へとたどり着く。
「おかえり」
こちらを見ながら微笑む縁側に座った夫。
「ただいま」
言葉を返して少し待つがこちらに来る様子がない。
「?」
不思議に思い、通勤カバンを置いて近寄り理解する。
そこには夫の膝枕ですやすや眠る3才の娘の姿があった。
「寝ちゃったんだ。膝、辛くない?」
「しあわせな重さだから大丈夫」
にこにこ笑う夫にくすりと笑い返して娘を挟んで座る。
「蚊取り線香、焚いたんだね」
傍らの蚊遣り豚を見る。
「うん、この匂いをかぐと夏が来たって感じがするよね」
「そうだね。私はこの匂いをかぐとぐるぐるの夜を思い出すんだけどね」
「ぐるぐるの夜?」
「聞きたい?」
夫の顔を覗きこめば興味深そうに目を輝かせる。
「聞きたい」
「なんでもない話なんだけどね。あれは私が小学4年生の時の話なんだけど──」
夏休み。
父方の祖父母の家に里帰りした時のお話だ。
みんなが寝てしまった真夜中。私は目を覚ました。
やけに目がさえてしまってねむれない。仕方ないのでトイレにでも行こうとぺたりぺたりと裸足で廊下を歩いているとふわりと蚊取り線香の匂いがした。
不思議に思って匂いをたどるとそこには縁側があった。紺色の甚兵衛を来た祖父がこちらに背を向けて座っていた。
「おじいちゃん?」
話し掛けると祖父は振り返った。
「なにしてるの?」
問い掛けながら近寄ると祖父は無言で徳利を持ち上げた。
晩酌中ということだった。
祖父は無口な人で必要最低限の言葉しか口にしない人だった。
そんなところが少し苦手ではあったのだが、すっかり目が覚めてしまった私は起きている人のそばにいたかった。
「ねむれないの。ここにいてもいい?」
横に座って許可を求めると祖父は意外そうな顔をした。それから少し考えて立ち上がった。
ひとりぼっちにされて私はしょんぼりした。
やっぱりだめか。私がいたらジャマになっちゃうよね。
あきらめて布団に帰ろうかと思っていると耳元でカランと氷が鳴る音がした。
見ると祖父が氷が入った麦茶のコップを持って立っていた。
晩酌にお付き合いする許可が出た。
「ありがとう」
にこにこ笑って受け取ると祖父はぺこりと軽く頭を下げて私の横に座った。徳利でおちょこに注いでちょびちょびとお酒を飲み始めた。私はその横で麦茶をちょびちょび飲んだ。
月の綺麗な夜だった。空には満月が浮かんでいて、庭からは夏の虫の鳴き声がしていた。
私の傍らには蚊遣り豚が置かれていた。さっき廊下で香っていたものだ。
お線香の匂いは嫌いだけど、蚊取り線香の匂いは好きだった。
私と祖父はただただ黙って隣り合わせでそこに座っていた。
自分が発するものではなく、周りの音に空気に匂いに包まれていた。
それがひどく心地良かった。
永遠に続くように思える夜の中、少しづつ少しづつ短くなっていく蚊取り線香が時間の経過を知らせていた。
この夜が終わって欲しくなくて、私はじっと蚊取り線香を見つめていた。
ぐるぐる。ぐるぐる。
蚊取り線香を見つめているうちに瞼が閉じてきた。そのまま私は眠ってしまい、朝、目覚めると布団の中にいた。
目をこすりながら台所に行くと祖母が朝食のお味噌汁を温めていて、食卓では新聞を広げた祖父が座っていた。
昨日のことなんて何もなかったような朝だった。
でも、私はちゃんと覚えていた。
布団までのお姫様抱っこ。頭を撫でながら「おやすみ」と言ってくれたこと。
ちゃんと私は覚えていた。
「昨日はありがとう、おじいちゃん」
そう言うと祖父は新聞から顔を上げ、照れくさそうにひとつただ頷いた。
匂いは思い出を記憶する。
それから、私は蚊取り線香の匂いをかぐと、あのぐるぐるの夜を思い出す。
あの「しあわせ」を具現化したような夜を。
「素敵な思い出だね」
にこにこしながら夫はそう言った。
私は微笑む。
祖父はこの人と出会う前にこの世界から去ってしまった。
それでもこんな風に思い出という形で伝えることは出来る。それが嬉しい。
ふと下から視線を感じて見ると娘が夫の膝の上でこちらを見上げていた。
いつから起きていたのだろう。
「ごめんね、起こしちゃった?」
そう言うと娘はにぱっと笑って言った。
「なっちゃんね、いま、しあわせよ」
私は驚いたように目をぱちくりさせた。夫と顔を見合わせて笑う。
蚊取り線香の匂いがする。
匂いは思い出を記憶する。
この夜があなたにとってのぐるぐるの夜になればいい。
娘を見つめながらそんなことを思った。