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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

『無能』は無能だから『無能』なんですよ

作者: 彗鈴

 歓声が上がる。

 今から行われる試合に対して、人々は早く始まれと声を大きくする。

 会場に用意されている観客席は満員御礼。

 それも当然のことだろう。

 今から始まるのは皇帝の前にて行われる御前試合。

 国内最強の剣士を決める試合。

 この試合の勝者が皇帝直々に次の『剣帝』として認められる。

 試合の舞台となるコロシアムの中央、石で出来た円盤状の舞台の上で対峙するは二人の剣士。

 片や現『剣帝』グレイス・フォン・オルフィード。

 筋骨隆々の完成された肉体は全剣士の憧れ。

 燃える炎のような赤い髪と瞳を持ち、『剣帝』と別に存在する通り名は『火剣』。

 その名と見た目に恥じぬ灼熱の炎を纏う剣は彼の魔法によって生み出される。

 剣士であり、魔法士でもある彼はその二足の草鞋を履きながらも、その両方において一流であり、そんな彼が最強と呼ばれるのは当然と言えるだろう。

 それに対するは今年、アダルベルト帝国剣闘技会において優勝し、『剣帝』への挑戦権を得た青年。

 姓を持たない何処にでもいそうな平民の青年。

 純粋な剣士であり、師から教わった剣術を磨き上げ、十五という成人したばかりの若さでこの場に立つ天才。

 幼い頃は『無能』と呼ばれ、その汚名に挫けることなく努力を積み重ねた彼がこの場にいることを疑う者は既にいなかった。

 疑う者は全て試合で捩じ伏せ、彼はこの場に堂々と立ち、『剣帝』と対峙する。

 黒い髪が風に揺れ、少し長めの前髪の奥から覗く漆黒の瞳には闘志が溢れんばかりに宿っていた。

 その熱は幾千もの観客に負けることなく、間違いなく彼が、この場において最も試合の開始を待ち望んでいると言えよう。

 そんな対峙する二人の間に一人の男が現れ、観客に向かい周知の事実、彼ら二人の紹介を始める。

 その度に観客は湧き上がり、会場の熱気は最高潮となっていく。

 青年は腰に提げた剣の柄を握り締め、まだかまだかと興奮を抑えきれずにいた。


「そう焦るな」


 観客の声に混じり、青年の目の前から呟くような小さな声が聞こえてきた。

 声の正体は当然『剣帝』グレイス。

 彼はその太く逞しい腕を組み、仁王立ちで試合開始まで待っていた。

 その貫禄は流石のもの。

 伊達や酔狂で六年間『剣帝』の座を守り通すことなど不可能であるとその姿が証明している。

 今年で七年目。

 今回を合わせてもし四回勝ち続ければグレイスは『永世剣帝』の称号を得て『剣帝』の座を降りる。

 過去、初代『剣帝』以来誰も成し遂げられなかった十年間『剣帝』であり続けるという偉業。

 しかし青年にそんなことは関係ない。

 何故なら今日この場で、目の前の男を、最強の剣士を自分が倒すのだから。


「流石『剣帝』は余裕だな……俺なんかじゃ相手にもならないか?」

「冗談を言うな。貴様程の剣士、一目見た時から武者震いが止まらないさ」

「ならその震え、お前をぶっ倒して止めてやるよ」

「やれるものならやってみろ」


 審判の男が後ろに下がり、舞台の上から姿を消す。

 全ての準備が整った。

 後は試合開始の音がな鳴るのを待つだけ。

 湧き上がっていた観客の声が静かになり、会場が完全に静まり返った時、鐘が鳴り──



──勝敗は一瞬で決した。



 男がいた。

 帝都の細い路地裏、人一人が通れる程の狭い路地に、一人の男が壁に背を預けて座り込んでいた。

 雨が降り続ける中、濡れる事も厭わずに男はその場から動く気配がない。

 申し訳程度のボロい外装は水を吸収し過ぎ、既に雨を凌げていなかった。

 頭から全身を覆うようにして被っている男は俯き気味で、怪我をしていて分かりにくいがまだ若い青年であることが伺える。

 青年の名はアルフレッド。

 姓を持たず、珍しい黒い髪に黒い瞳を持つ平民の青年。

 顔立ちは良くも悪くもなく、背丈も年相応といったところ。

 彼は貧しい平民である。

 平民から成り上がる英雄譚は数あれど、彼には英雄になり得る才能も、外見も、技術も持ち合わせてはいない。

 何処にでもいる貧民。

 言ってしまえば彼はそれだけの存在で、物語の主人公としては役不足も甚だしい。

 住所不定無職……とまではいかないが、今日は眠れる気がしなかった。

 だからと言って雨の中路地裏に蹲る必要は無いと思うが、彼はそれで落ち着いた。

 体温は下がり、手足が悴み、歯がガチガチと鳴る中、彼の意識は遠退いていった。

 それでも彼は、生きていた。



「やーい!『無能』は『無能』らしくくたばってろ!」

「よえー!こいつホントに『無能』だな!」

「うぐっ……うえーん!うえーん!」


 蹲る黒髪の少年を囲う同い年くらいの少年達。

 囲う少年達は蹲る少年を軽く蹴り、その痛がる様を見て笑い合っていた。

 少年はそんな事を毎日のようにされていた。

 所謂子供同士でのイジメというやつだ。

 蹲る少年は遂には泣き出してしまい、それを見て少年達は更に楽しげに笑い合う。

 何故こんなことになっているのか。

 それは一重にイジメられている少年の出自と外見によるものだった。

 少年は孤児だった。

 幼い頃に両親を魔物に殺され、路頭に迷っている内に現在世話になっている孤児院の院長に出会った。

 その出会いがなければ少年は既に事切れていたことだろう。

 しかし住む場所が得られても、少年の苦難は終わっていなかった。

 少年は『無能』と呼ばれる存在だった。

 生まれながらにして魔力を持たない存在。

 生物は全てにおいて魔力を有している。

 虫でさえ持っている。

 しかし時折、魔力を一切持たずに生まれてくる者がいる。

 その子らは総じて黒い髪と黒い瞳を持って生まれてくる。

 少年はまさにそれを体現している存在だった。

 少年は両親によって守られていた。

 少年の両親は『無能』だからといって少年を見限ることなどなく、愛情を持って育てていた。

 しかしその後ろ盾が無くなった途端、少年は現実を知ることとなった。

 その一端が今行われているイジメであった。

 だが、この世には対照的な存在が常に存在する。

 それは勇者と魔王のように、善人と悪人のように、敵と味方のように。


「あらあら、貧民風情が私の行く手を阻むとはどういった了見です?」


 子供達の前に現れたのは絵に描いたようなお嬢様。

 キラキラと輝く黄金の髪を靡かせ、空のように透き通った青い瞳でこちらを見つめる少女。

 綺麗な緑のドレスを身に纏い、少しずつこちらに歩み寄る少女。

 その姿を見た子供達は一目散に逃げて行く。


「り、領主様のとこの奴だ!」

「やばいやばい逃げろ!」

「え?え?」


 状況を理解出来ずに蹲ったままの黒髪少年を一人置き去りにして子供達は既に見えないくらい遠くへと走り去った。

 少年には何が何だか分からなかったが、今自分の目の前にいる少女が物語に出てくる天使のように可愛いということだけは理解出来た。


「可愛い……」


 ポツリと勝手に口から出てしまった言葉。

 少年は思わず言ってしまった事に恥ずかしさを感じて顔を真っ赤にしながら両手で口を覆った。

 しかし時既に遅く、少年の声はしっかりと少女に届いていた。


「あら、当然じゃない。もっと褒めて良いわよ?」


 自慢気にすることもなく、少女はただ当たり前のことと認識し、少年の言葉をそのまま素直に受け入れた。

 そして少女は呟く。


「それにしてもくだらない。弱者同士の争いはなんでこう無様なのかしら」

「ぶざ……ま?」


 少年は孤児であり、平民の中でも貧しい貧民であり、孤児院に拾われたばかりで碌に学などない。

 そんな少年にとって少女の語る言葉は難しく、イマイチ理解出来ていなかった。

 その様子を見た少女は分かりやすいように少年を指差して言い放つ。


「今の貴方のとこを言ってるのよ『無能』」


 ほんの少し怒りを含んだ声色で放たれた言葉。

 少年は孤児院に拾われてから、イジメを受けるようになってから臆病になり、そう言った怒りの感情に敏感になっていた。

 故にまた体を縮こませて怯える。

 そしてついついいつもの言葉が口を突いて出てしまった。


「ひっ!?ご、ごめ──」



「──抗いなさい!!!」

「っ!?!?」


 しかし、少年の声は少女の力強い声に遮られ、いきなりの事に少年は驚いた。

 驚き過ぎて開いた口が塞がらず、言葉が出てこなかった。


「私はね、弱いものイジメをする奴らが大嫌いよ。だって弱いものは強いものが守る使命があるとお父様から教わっているから。でもね、そんな奴らよりもっと嫌いな奴がいるわ。それは──」


 少年の前で仁王立ちし、少年を見下ろしながら少女は淡々と語り出す。

 そして最後に少女が言った言葉。

 それは少年にとって、一つの分岐点となるものだった。


「──弱虫よ」



 目が覚める。

 何か夢を見ていたような気がするが、目が覚めてしまえば夢からも覚めてしまうもの。

 よく思い出せない夢のことなどアルフレッドには関係なく、今日も無事朝を迎えられたことだけが重要であった。

 一生目が覚めて欲しくないと願ったことは何度もあるが、一度寝てしまえば次に起きた時、生きていることに安心してしまう弱い自分が憎らしかった。

 しかし目が覚めてしまえば仕方ない。

 今日も彼は一日を消化し始める。

 彼の住居はアダルベルト帝国の帝都の北側、栄えている南側の建物によって日が差し込み難い薄暗い貧民街にある廃墟と見紛う程にボロい宿の一室だ。

 宿代は一泊銅貨一枚、食事も一回銅貨一枚で、味のしないよく分からない具材が浮いているスープが出る。

 アルフレッドはそのスープを飲んだことは一度もない。

 正直銅貨一枚ならば黒パンの一つくらい買えるのだから素直にそれを出して欲しいものだが、それをすれば利益が出ないんだろうと一応察している。

 着の身着のままで寝ていたアルフレッドに身支度などお上品なものは必要ない。

 長めの髪に多少寝癖が付いているだろうが、そんなものはいつの間にか直っているものだし、身嗜みを気にするような奴がこの貧民街に存在しているわけもなく、アルフレッドも気にせずに宿を出る。

 アルフレッドの一日はとても単純だ。

 一日中働いて、夜寝るだけ。

 彼の職場は帝都に存在する冒険者組合所だ。

 冒険者とは世界中に存在する魔物と呼ばれる生物を倒すことで金を稼ぐ者達のこと。

 魔物は基本的に森の奥や山中に多く存在し、放っておけば魔物は数を増やして人の住む領域にまで降りてくる。

 そう言った危険を事前に防いでいるのが冒険者。

 言わば街の人々が今日を平穏に暮らせているのは彼らの存在あってこそと言える。

 ではアルフレッドの職場がその冒険者の集まる組合所であるということは彼も冒険者なのかと聞かれれば、それは否である。

 ではその組合所で働く職員なのかと聞かれても、否。

 では彼は一体そこで何をしているのか。

 それは──



「──『無能』、これ洗っとけ」

「ちゃんと綺麗にしとけよ」

「は、はい、分かりました」



 アルフレッドに向かって無造作に渡される冒険者の装備の数々。

 その全ては血であったり、魔物の体液であったり、泥であったり、色々な要因で汚れている。

 それを冒険者から組合の職員へ、組合の職員からアルフレッドへと渡される。

 そう、アルフレッドの仕事はこれら冒険者が依頼を受け終え、その日に汚れた装備を綺麗に洗う仕事。

 彼は組合所の裏手の水場で、毎日手の皮の色々な場所がヒビ割れながらも冒険者の装備を洗い続けている。

 そんな雑用をする彼は、組合所の小間使いとしてごく僅かな給料で働かせてもらっているだけに過ぎないのだ。

 日当で銅貨三枚。

 宿代を差し引いて銅貨二枚が彼の自由に使える金。

 そんなもの、日々暮らしていくには少な過ぎる。

 アルフレッドの食事は日に一度。

 銅貨一枚を握りしめ、酒場や屋台の店主に頭を下げ、残飯を貰って漸くあり付ける。

 残りの一枚はもしもの時のために貯金している。

 そんな貧しい暮らしでもアルフレッドはマシな方だ。

 彼自身、自らが社会の底辺に位置する存在だという自覚はあるが、それでもまだ底は見えない。

 いや、彼の立っている底と思われる場所の下に、地獄が存在するのだ。

 そこはきっと、苦しくて、ひもじくて、辛くて、寂しくて、ほんのひと時、愉しい所。

 行きたいとは思わない。

 そこに堕ちてしまうくらいであれば、彼は甘んじて底辺であることを受け入れる。

 這い上がろうとも考えない。

 何故なら自分は『無能』であるから。


「中々落ちないな……」


 冒険者は昼夜関係なく魔物を狩っている。

 主に昼間が多いらしいが、夜の間に姿を見せる夜行性の魔物も多いらしく、夜通し狩りに出掛けて翌朝帰ってくる人達もいる。

 先程渡された装備はきっとそういった人たちの物で、夜通し汚れが付着したままだった為か何度水につけて襤褸布で強く擦っても汚れが落ちない。

 洗剤などがあれば話は別だが、そんな高価な物が支給される訳もなく、アルフレッドは懸命に手を動かし続けるしかない。

 これでもまだ今日の装備はマシな方なのだ。

 この装備の汚れ落としは冒険者が組合所に金を払うことで頼むことが出来る。

 その極一部がアルフレッドの給料となっているのだが、冒険者の中にはそれをケチる者たちがいる。

 主に冒険者になりたての新人冒険者に多い。

 新人の内は収入が安定せず、日によってはアルフレッドより少しマシな生活が送れる程だと聞く。

 そんな新人冒険者たちは日頃の稼ぎを少しでも多く残そうと自分たちで装備の手入れをするのだが、新人たちの装備は革製の物が多く、一度汚れると落ちにくい。

 日頃ある程度洗っていたとしてもそこまで念を入れて洗っていない装備は日に日に汚れが目立ち始め、我慢の限界に達すると組合所に汚れ落としを依頼する。

 そうした経緯でアルフレッドに渡される装備は正直お手上げだ。

 何度も何度も洗った所で染み付いた汚れが落ちることはなく、臭いがマシになる程度。

 そうして職員に装備を返せば汚れが落ちていないと突き返される。

 何度かそのやり取りを繰り返した後、職員が折れてくれる。

 その頃にはもうアルフレッドの手は襤褸布のようになっていることが多い。

 故に今洗っている鉄製の装備はアルフレッドにとってマシなのだ。


「ほら、今日分だ」

「ありがとうございます」


 日が暮れて空が赤く染まる頃、アルフレッドは仕事を終えて日当を職員から受け取る。

 銅貨三枚を捨てるように渡されても、アルフレッドにとっては大事な生命線。

 貧民街に住む者で、安定した収入を得られる者は限られる。

 そんな者の中の一人であるアルフレッドは、底辺の中でも幾分かマシなのだ。

 空を見上げるアルフレッドは朝と違って少し雲行きが怪しい事に気付いた。

 早く帰ろう。

 アルフレッドは職員に頭を深く下げてから組合所から立ち去った。


「やっぱり降ってきた……」


 宿の部屋から外を見上げると、そこには夜だというのに月明かりも差し込まない程分厚い雲が空を覆っていた。

 組合所から宿に戻った時に丁度降り始めた雨。

 然程強くはないが、時間が経つにつれて強まって行きそうな気がする。

 アルフレッドは自らのお腹に相談する。

 一日何も食べずに働いたアルフレッドは腹ペコで、先程から腹の虫が煩く鳴っている。

 しかし今から飯を調達しに行くと雨に濡れる。

 申し訳程度のボロい外装はあるが、濡れることは必至。

 でも腹は減っている。


「お腹、空いたな……」


 アルフレッドは空腹に負けた。


「よう『無能』」

「っ!?」


 外装を頭から被り、濡れない内にと走って飯の調達に出かけたアルフレッドに対して声をかけて来る男がいた。

 聞き覚えのある声にアルフレッドは足を止めてしまった。

 急いでいて聞こえなかったと装えば良いものを、アルフレッドはその後に何があるか分からない怖さから立ち止まらざるを得なかった。

 アルフレッドに声をかけたのは大柄な男。

 背が高くも低くもないアルフレッドよりも頭一つ分以上背が高く、全身の筋肉は発達しておりガタイもいい。

 アルフレッドくらいであれば、その太い腕から繰り出されるパンチ一発でノックアウト出来るのではないかと思われる。

 そんな男が一体アルフレッドに何の用があるというのか。

 答えはとても簡単で、アルフレッド自身、その声を聞いた時から既に理解し、覚悟を決めていた。


「なぁ『無能』、賭場で負けちまってよ、金ねぇんだよ俺」

「そ、そう……で、でも僕もお金は──」

「知ってるよっと!」


 ドスッ!


「──ガッ!?」


 アルフレッドが話している途中に、男は突然その自慢の腕力に任せた乱雑な拳をアルフレッドの土手っ腹に打ち込んだ。

 腹への途轍も無い衝撃の後、遅れて体内で鳴り響く嫌な音。

 恐らく肋骨が折れたのだろう。

 アルフレッドの体はくの字に曲がり、肺に溜め込んでいた空気が全て吐き出された。


「ゲホッ!ゴホッゴホッ!」

「ハッハッハッ!!!やっぱ気持ちいいなぁ!『魔力被膜(マナスキン)』で覆われてねぇ直で殴る感触はよぉ!!!」


 アルフレッドが蹲り、咳き込む姿を見て盛大に笑う男。

 何故アルフレッドがこんな目に合う羽目になっているのか、それも全てアルフレッドが『無能』であるが故だった。

 男の言う『魔力被膜』。

 これは魔力を持つ生物が無意識の内に体外へ放出している魔力の事を指す。

 その放出される魔力は全身を覆うように漂い、これがある事で生物は魔力が付与されていない攻撃に対する防御が無意識の内に出来る。

 つまりアルフレッドの場合、もし目の前の男に抵抗して殴りかかったとしても、魔力を持たないアルフレッドの攻撃は男にしてみれば虫よりも弱い攻撃であり、何もせずとも『魔力被膜』によって妨げられる。

 アルフレッドがここまで虐げられるのはそういった理由があり、何より抵抗しようとしても出来ないからだった。


「ほら、立てよ」

「うぐっ!」


 男は蹲るアルフレッドの髪を左手で無造作に掴み上げ、無理矢理立たせる。

 既に先程の一発で足腰に力が入らないアルフレッドを見ると、男は路地裏の壁にアルフレッドを押し付ける。

 硬い壁に頭をぶつけられて視界が揺れる。

 思考がまとまらず、もうアルフレッドは半分意識を失いかけていた。

 そのまま落ちることが出来ればどれ程楽だろう。

 しかし男はそれを許さない。


「寝てんじゃねぇよっ!」

「ヴッ!?」


 頰に強い衝撃が加わる。

 頭が揺れ、再び壁に後頭部を思いっきりぶつける。

 口の中に鉄の味が充満し、もう視界が霞んで何も見えない。

 もうこのままいっそ殺して欲しい。

 そしたらきっと楽になれる。

 もしかしたら、次の人生はもっと普通な生活が送れるかもしれない。

 もう……疲れた。


「まだ落ちんじゃねぇ!」

「オェッ!?ゴフッ!?」


 腹に二発。

 もう痛みも感じなくなってきた。

 衝撃によって腹の中の空気が口から漏れるだけ。

 空っぽの胃の中からは少量の胃液が逆流するのみ。

 血の味と、胃液の酸っぱさが混じり、気持ち悪い。

 あぁ、なんでこんな目に遭わなくちゃならないんだ。

 アルフレッドには逆境を覆すような力は無い。

 もし隠された力なんて物語のようなものがあるのだとしたらもう出ていてもおかしくない。

 それが出ないのだから、やはりアルフレッドには何も無い。

 全てを持たずに生まれてきたからこその『無能』。

 何も成し遂げる事が出来ないからこその『無能』。

 底辺で這い蹲ることを定められているからこその『無能』。

 誰からも手を差し伸べられる事がないからこその『無能』。

 今、ここに存在する『無能』に、何も起こらないことは、自分自身が一番理解していた。



 昨日の雨が嘘のように晴れ、太陽が真上に登った頃、一人の少女と一人の女性が帝都の路地裏に立ち寄った。

 学生らしき制服を着た輝く銀の髪を持つ少女は薄く笑っており、少女の髪と引けを取らぬ程美しい金の髪を持つ女性は使用人らしき服装で、少女の後ろに控えながら顔を引き攣らせていた。


「あらあら、面白い物が転がっているわアイリス」

「これは酷い……」


 二人の視線の先には昨日の雨に打たれたのか、ずぶ濡れの青年が倒れていた。

 青年の顔は腫れ上がっており、周囲には血が飛び散ったような跡があったが、昨日の雨で殆ど分からないくらいに流されていた。

 遠目から見れば貧民が野垂れ死んでいるようにしか見えないが、一応まだ息はしているようだった。


「信じてなかったけれど、こんな物が見れるだなんて、早起きは三文の徳とは本当だったのね」

「ご主人様、もう昼です」

「私にしては早起きね」


 使用人と他愛の無いやり取りを交わしながら少女は青年に歩み寄る。

 よく見れば影になっており分かりにくかったが、青年の髪は黒かった。

 それを確認すると、少女は更に口角を上げた。


「既に遅刻が確定しておりますが?」


 使用人の言葉など聞こえていないかのように、少女はその赤い瞳を使用人に向けた。

 とても楽しげな目をしている事に気付いた使用人はその時点で何もかもを諦めた。

 今日はもう、自分の主人に何も言っても意味が無いと。


「今日は良い休日になりそうね」

「また執事長に怒られる……」


 満面の笑みを浮かべる少女と胃が痛そうに腹に手を当てながらげんなりする使用人。

 その足元で、何も知らない黒髪の青年、アルフレッドは眠り続けていた。



 地平線には幾千もの魔物が蔓延っている。

 それらに対峙する者達の中に一人の少年がいた。

 顔立ちは未だ成人を迎えていないのではないかと思われ、少々幼さが残っている。

 しかしもっと驚くべきはその黒髪だろう。

 ここには数多くの兵士と冒険者、志願兵が集まっている。

 その中でも恐らくこの少年が最年少であることは間違いないだろう。

 兵士も冒険者も成人でなければなることは出来ず、志願兵に至ってはそもそも数は少ない上に子供をわざわざ死地に向かわせる親などいない。

 砦を背にして魔物と真っ向から迎え撃つ総力戦。

 砦での籠城ではこの軍勢は抑えきれぬと判断しての野戦。

 既に砦は放棄され、砦の門は固く閉ざされている。

 つまり、ここに集まる者達は既に死を覚悟しているのだ。


「ガキ、お前は退がれ」


 少年の側にいた冒険者らしき男が声をかけた。

 ここは死地だ。

 この中の誰もが死にたくないと思っていながら、震える足を黙らせてここに立っている。

 何故か。

 理由は人それぞれだろう。

 命令だから、義務だから、戦いたいから、生きたいから、守りたいから、逃げたくないから。

 少年に声をかけた男の理由はただ一つ。

 愛する者を守るため。

 冒険者という職業上、緊急時には今回のように強制的に招集をかけられるが、男はそれがなくても戦うつもりでいた。

 愛する妻と子のために。

 そんな男にとって、未だ成人も迎えていない少年と我が子が重なり、死なせたくないと思ってしまった。

 何より少年は黒髪、つまりは『無能』。

 魔物相手に戦えるわけがない。

 だから退がれと言った。

 しかし少年は退がらず、逆に一歩前へ踏み出した。


「やだね!」

「お、おい──っ!?」


 前に出て、後ろを振り返る少年の顔を見て男は息を飲んだ。

 何故なら、同じだったのだ。

 何ら変わらない。

 少年の表情はこの場の誰とも遜色の無い程の、いや、それ以上の決意に満ちたものだった。


「俺には守りたい人がいる。その人はこの砦の向こうにいる。だったら、戦うしか──」


 魔物が見えてきた。

 少年は前に向き、腰に下げた剣を抜く。

 青白い光を放つそれは魔法剣。

 魔鉱石によって作られし、魔力を帯びた剣。

 『無能』が一端に戦うための、少年自慢の剣。


「──抗うしかないじゃないか!!!」


 少年は駆けた。

 その後、死屍累々となる戦場を一番に駆けて駆けて、駆け続け、最後まで駆け抜けた。



 日常は常にその日その日、特に変わり映えのない日々を過ごすことだ。

 それは恐らく誰もがそう考えているだろうし、少なくともアルフレッドにとって日常とはそういうものだ。

 貧しい暮らしをその日その日、死なないように生きることがアルフレッドにとって変わり映えのない日常。

 故に、今の状況はアルフレッドにとっては非日常に該当する。


「紅茶はお嫌いかしら?」


 汚れ一つない純白のテーブルにて向かい合って座る二人。

 片や肩身が狭く、縮こまってどうすれば良いのか、そもそもこの状況は何なのか分からないアルフレッド。

 もう一方は学生服を着たとても綺麗な女の子。

 成人していない故に幼さが残る顔立ちだが、それでも十分美しいと表現出来る美貌に加え、長い白銀の髪は煌めいているようで、アルフレッドを真っ直ぐに見つめる瞳は話に聞く魔眼特有の赤。

 一目で自分とは住む世界の違う人物であることは理解出来た。

 ちゃんと見たことはないが、恐らく貴族なのだろう。

 もし彼女が平民などと言われたらアルフレッドの価値観は崩壊する。

 少女の問いかけに対し、アルフレッドは目の前に置かれた赤みのある茶色い液体の入ったカップを見つめる。


「飲んだことがないので、分かりません」

「そう、私は嫌いよ」

「え……?」


 一瞬、少女の言っていることが理解出来なかった。

 何故なら少女はその嫌いな紅茶を優雅に飲んでいるのだから。

 その姿だけでも一枚の絵となるような光景に目を奪われながらアルフレッドは戸惑いの声を漏らす。

 それを聞いてか、少女はカップを置いて憂鬱そうな表情で言葉を紡ぐ。


「貴族って面倒なのよ」

「はぁ……」


 アルフレッドには想像も付かない世界の話。

 貴族というのにも色々とあるのだろう。

 ただそう思うくらいしかアルフレッドには出来なかった。


「ご主人様、紅茶のお代わりは如何でしょう?」

「学園を無断で休んだ事は謝るから、そろそろその紅茶攻めを止めてくれないかしら?」


 少女の後ろに控えている使用人の女性が紅茶を嫌いだと言う少女に対して更に紅茶を勧める。

 そんなやり取りを先程から繰り返しているのをアルフレッドはただただ眺めていることしか出来なかった。

 少女に負けない程の美貌を持つ使用人の女性。

 貴族の事などあまり知らないアルフレッドだが、貴族の使用人もまた貴族であることが多いと昔聞いたような気がする。

 だからきっと彼女も貴族なのだろう。

 何より平民でこんなに綺麗な人をアルフレッドは見たことがない。

 黄金に輝く髪は短めに切り揃えられており、左右が青と赤で異なる不思議な瞳。

 学の無いアルフレッドには片目だけ魔眼というのもあるのかとただ思うだけだったが、その異常性を理解出来ないアルフレッドには関係のない話だった。

 少女よりも年上のようで、体のラインは出る所はしっかり出ており、引っ込む所はしっかりと引っ込んでいる。

 あまり女性に対して免疫のないアルフレッドにはその姿を見るだけで目に毒な気がした。


「ご主人様をいじる事が出来る唯一の方法ですから」

「実は紅茶が嫌いという振りをしているという可能性を捨てているあたりやはり馬鹿ね」

「……え?」


 使用人の女性が得意げに言うのを否定するかのような言葉に、使用人の女性が困惑する。

 先程嫌いと言っていたのは嘘なのだろうか?

 成り行きを見守るしか出来ないアルフレッドは少しだけ紅茶に口を付けてみる。

 苦い……。


「まぁ、コーヒー程好きではないけれど」

「うぐっ」

「アイリス、私お茶請けが欲しくなってきたわ」

「……ただ今持って参ります」


 アイリスと呼ばれる使用人の女性は肩を落としながらトボトボと部屋から出て行った。

 これでアルフレッドと貴族の少女のみがこの部屋に残された。

 何故だか急に緊張してきたアルフレッドは気を紛らわすために辺りをキョロキョロと見渡す。

 その姿を見てか少女はクスリと笑い、口を開いた。


「そう言えばまだ自己紹介がまだだったわね」

「え、あ、はい」


 終始少女のペースで進められる会話に、アルフレッドは緊張しながら短く言葉を返すことしか出来ない。

 少女は右手を自分の胸にそっと当て、笑顔で語る。


「私はエレオノーラ・フォン・グライスナー。グライスナー伯爵家の末娘。それだけのつまらない女よ」


 グライスナー伯爵家。

 アルフレッドはそう聞いても特にこれといってピンと来なかった。

 貴族には平民と違い名前が長いことは知っているが、それがどういう意味があってのことかをアルフレッドは理解していないのだ。


「え?いや、えっと……つまらない?」


 少女の言葉の中にあった「つまらない女」という表現が理解し難く、アルフレッドは思わず聞き返してしまった。

 貴族なのにつまらないとはどういうことなのか。

 アルフレッドの貴族に対するイメージで一番先に思い浮かぶのがお金持ちということだろう。

 アルフレッドのような貧民にとってお金はとても大切で、出来ることならいっぱい欲しいと思わずにはいられない。

 そんなアルフレッドを目の前にして貴族の少女が自らのことをつまらないと表現した意味がアルフレッドには理解出来なかった。

 しかし少女はアルフレッドの疑問に答えることなく、小さく笑って誤魔化した。


「貴方はアルフレッドで良いのよね?」

「な、何で僕の名前……」

「貴方の顔に書いてあるわ」

「え?嘘っ!?」


 眠っている間に誰かに落書きでもされたのだろうか。

 アルフレッドは過去の経験からそう推察し、慌てて自分の顔を手で擦ってみるが手にインクのようなものが付くことはなかった。

 その姿を見て少女は再び楽しそうに笑う。


「冗談よ、貴方が眠っている間に調べただけ」

「は、はぁ……」


 少女に弄ばれ続け、どんどん疲労感が増していくアルフレッドに対し、少女の機嫌はどんどん良くなっていく。

 いつまでこんなことが続くのだろう。

 そもそも自分は何故こんな所にいるのだろう。

 目が覚めて初めて目に移ったのは綺麗な白い天井。

 感じたことのない柔らかいベッドの上にいたと知った時は遂に死んで天国にでも来てしまったのかと勘違いしたくらいだ。

 いや、まだ勘違いではなく本当なのではないかと未だ疑っている。

 それくらいアルフレッドにとって今の状況は異常であった。

 見たこともない美少女と面と向かって優雅にお茶を飲むだなんて、物語の中の光景だ。

 しかしその物語の一ページのような場面をぶち壊している要因が一つある。

 それはアルフレッドが来ている服だった。

 昨日と変わらないボロい服。

 わざわざ使用人が洗濯してくれたらしいが、汚れが多少落ちたところでボロはボロ。

 完成された色彩鮮やかな絵に一滴のインクを垂らして台無しにしているような存在。

 それがこの場でのアルフレッドであった。

 アルフレッドのような貧民は、裕福な生活がしたいと願ったことは一度ではない。

 しかし実際に裕福な生活を疑似体験した今、アルフレッドの心情に浮かび上がってくるのは喜びや幸せのような良い感情ではなく、ここにこれ以上居たくない、ここに自分は相応しくないといった自虐のみであった。

 そんな願いが通じたのか、二人だけの空間に使用人が戻ってきた。


「先日頂いたクッキーがありましたのでそれをお持ちしました」

「あぁ、あのバカね。まぁ物は良いものだから頂きましょう」

「あの……僕はそろそろ……」


 この機を逃してはならないとアルフレッドは恐る恐る声を出した。

 これ以上ここにいたくないという一心から何とか絞り出した声はしっかりと目の前の少女と使用人に届き、少女は少し残念そうな、使用人はどこか安心したような表情になる。


「あらそう?もう少しお話ししたかったのだけど」

「いえ、あの……」


 少女に引き止められそうになるのを必死で抵抗しようとするアルフレッドだったが、上手く言葉が出て来ず狼狽えるしかなかった。

 しかしその気持ちは伝わったのか少女は少し笑って言う。


「では最後に聞かせてくださいな」

「なんですか……?」


 最後と言われ、これで漸くこの空間から離れることが出来るとアルフレッドは安堵し、次に来る少女の言葉を待った。

 少女は少し間を置き、そしてゆっくりと、今までの声色とは全く違う低く、恐ろしささえ感じる声で問いかけた。


「貴方、生きてて楽しい?」



 貧民の青年が屋敷から立ち去り、本日の厄介ごともこれで終わりかと安心していると主人であるエレオノーラ様から声がかかる。


「やっぱ、つまんねーなアイリス」


 その姿は先程と変わらず優雅に紅茶を啜る貴族の令嬢然としているが、声色、口調は先程とは全く異なる粗暴なものへと変わっていた。

 身内にのみ、いや、身内でも極一部の人間にしか見せないその姿を知る使用人はその変化に戸惑うことなく主人の言葉に反応を示す。


「そもそも、何故このようなことを?」


 未だ使用人は主人の今日の行動が理解出来ていなかった。

 故に素朴な疑問として問いかけてみたが、主人は少し考える素振りを見せてからまるで独り言を呟くように言う。


「死生命有り、富貴天に在り……俺もお前も、基本的には運命というレールの上を歩く人生を強いられる。だが、その運命とは別の道を歩む奴がたまにいる。それはほんの小さなきっかけ一つで決まる」


 使用人の主人は時に使用人の理解の及ばない話をすることがある。

 使用人自身学はそこそこあるつもりであるし、頭の回転も悪くない方だと自負している。

 しかし主人の話の中には年下とは思えない程に理解に苦しむ内容が出て来る。

 そういった時、使用人は理解することを早々に諦めて素直に聞くことにしている。


「つまりどういうことでしょうか?」

「英雄にも底辺にも、きっかけ一つでどちらにも転ぶって話だ」


 薄く笑ってこちらを見つめる主人の視線が使用人では無い何かを見ているような感覚を覚えた。

 主人の言葉を使用人なりに噛み砕いて理解してみると、あの貧民の青年は正しく底辺といった存在だろう。

 ならあの貧民の青年がきっかけ一つで英雄になり得る存在であるということなのだろうか。

 その真価を見極めるために主人はわざわざあの貧民を屋敷に連れて来て看病した?


「あの貧民がそうだと?」

「さぁ?お前がそれを知る必要はないし、俺にはもはやどうでも良い事だ」


 訳が分からない。

 少し大袈裟に笑いながらそう言った主人は残りの紅茶を一気に飲み干し、使用人が持ってきたクッキーを一口だけ齧ると立ち上がった。


「不味い」


 そう言い残して主人は部屋を後にした。

 使用人は主人の後を追うこと無く、テーブルの上を片付ける。

 その時にふと先程まで貧民の青年が使っていたティーカップが目に入った。

 中にはまだ半分程紅茶が残っている。


「この紅茶一口でいくらの値が付くのか、彼は知らないのでしょうね」


 ティーカップに冷めた視線を向けながら使用人は小さくそう呟いた。



 城内の謁見の間にて、多くの者がただ一人の青年に視線を注いでいた。

 黒髪黒眼の青年は皇帝の前にて跪き、腰に提げた魔法剣を鞘ごと抜いて目の前に置いた。

 玉座に座る皇帝は厳格そうな表情で青年を見つめる。

 その皇帝の傍には皇女がにこやかにその光景を見守っていた。

 静寂が支配する中、唯一口を開くことの出来る皇帝が重い口を開いた。


「『剣帝』よ、汝に『剣神』の称号を与えよう」

「ありがたき幸せ」


 『永世剣帝』の称号を得るまで無いと思われていた異例の昇格。

 過去に伝説上でのみ語られる『剣神』の称号。

 万物を剣のみで切り裂き、他の追随を許さぬ無双の剣士に与えられる最強の称号。

 事前に告知があったとはいえ、その現場を実際に目の当たりにした周囲の人間は騒つく。

 ただの平民が、それもよもや『無能』と今まで下に見て来た下等な存在が、今や手の届かぬ高みにまで登り詰めた事実を素直に受け入れることは難しかった。

 しかし既に皇帝がそれを認めたことにより、貴族たちは無理にでも納得するしか無い。

 何よりあの『無能』に敵う存在など、既に国内には、いや世界には存在しないことも確かなのだから。


「『剣神』の称号と共に男爵である汝に伯爵位を授ける」

「謹んでお受け致します」


 これも既に決まっていたこと。

 貴族たちの反発により何とか伯爵位で止めることが出来た爵位。

 もし貴族の反発がなければ侯爵まで一気に駆け上がっていたことだろう。

 直前になって皇帝の気変わりがあったらと不安に駆られていた貴族たちは胸を撫で下ろし安心した。

 そしてもうこれで渡すべきものは全て渡し終えたと楽観していた貴族たちの耳に皇帝の次なる言葉が入る。


「そして我が娘との婚──」


 その瞬間、全ての貴族達の目の色が驚愕の色に染まった。

 皇帝の娘、それは即ち今皇帝の傍に控えている第一皇女の事を指す。

 その方との婚姻となれば今まで圧力をかけて何とか『無能』の爵位を伯爵に落ち着かせた意味が無い。

 何より今後あの『無能』に従わなければならないなどと考えたくも無い。

 実力は確かに認めてはいるが、やはり今までの貴族の常識からして、元平民の『無能』に媚び諂うなど御免被りたい事であった。

 周囲が緊張の面持ちで皇帝の言葉に聞き入っている時、青年は突然伏せていた顔を上げて皇帝の言葉を遮った。


「──あ、それは良いです」

「……は?」

「ふふっ……」


 青年の予想外の言葉に、周囲の者全てが凍り付いた。

 皇帝は青年の言葉の意味が理解出来ていないのか呆気にとられ、傍に控えていた皇女は可笑しそうに小さく笑った。

 青年は床に置いた剣を腰に差し直し、立ち上がった。


「俺、待たしてる人がいるんで。ずっと、俺を待っててくれてる人がいるんで!」

「ま、待て『剣神』!」

「じゃあまたな皇帝様!またピンチになったら駆けつけてやるよ!」


 皇帝の制止も聞かず、青年は玉座の間から颯爽と走り去っていった。

 その時の顔はとても清々しい表情であった。


「はぁ……彼奴はよく分からん……」


 青年が去ったことにより、今回の授与式は終了となって玉座の間には皇帝と皇女だけが残った。

 そんな中、皇帝がポツリと呟いた。

 やけに響いたその声はしっかりと皇女の耳に入り、反応を示す。


「ふふっ、相変わらず愉快な方ですわ。でも……」

「危ういな……」

「もうあれから五年……ですか」

「そろそろ、現実を受け止めねばならん時期だろう」


 皇帝と皇女は、互いに青年が立ち去ったであろう方向へ視線を向け、静かに語った。



 日常を過ごす日々が続く。

 先日貴族の少女と出会いはしたが、アルフレッドの日常に変化が訪れることはない。

 そもそもアルフレッド自身に変化を求めるほどの欲求が存在していなかった。

 恐らく他の人であればあの場で貴族に取り入ろうと思考を巡らせたりするのだろうが、アルフレッドは何もすることなく日常へと帰って来た。

 故にアルフレッドは今日も手をボロボロにしながら冒険者の装備を洗っていた。

 既に陽は落ちかけ、空が赤く染まり始めている。

 もうそろそろ終わりの時間だと考えながら手を動かしていると背後から声がかかる。


「おい、これも追加だ」

「え……?」


 背後に振り返ると、そこには男性職員が木箱を抱えて立っていた。

 そして重そうにその木箱をアルフレッドの側に置いて立ち去ろうとする。

 その姿を見たアルフレッドは思わず疑問の声を漏らした。

 もうすぐアルフレッドの仕事の時間は終わりで、今日中に終わらなかった分は明日に回される。

 しかしこんな時間にわざわざアルフレッドに声をかけてきたのは、それを今からやれということ。


「なんか文句あんのか?」

「あ、いえ……ありません」


 アルフレッドを睨みつけながら不機嫌そうに言う男性職員に対し、アルフレッドは何も言うことが出来ず反射的に頭を下げてしまう。

 そんなアルフレッドを見下ろし、鼻で笑ってから男性職員は立ち去った。

 その後アルフレッドは木箱の中身を確認すると、中身は全て血に塗れ、赤黒く変色した革鎧だった。

 こういった装備をアルフレッドはたまに見かける。

 大抵の場合返り血のことが多い装備の汚れ。

 しかし一度に多くの、血で染まった装備を渡された場合、それはいつも死の匂いが漂っている。

 アルフレッドはボロボロの手で木箱から革鎧を一つ取り出して確認する。

 するとその革鎧が何らかの魔物の攻撃により、胸の辺りに風穴が開いているのを見つけた。

 革鎧をそっと木箱へと戻し、アルフレッドは木箱を抱えて持ち場に戻る。

 既に殆ど日が落ち、辺りが暗くなってきたのも気にせず、アルフレッドは冷たい水が手に沁みるのも厭わずに革鎧を洗い始めた。

 冒険者とは命を掛け金に金を稼ぐような仕事だ。

 時にどころの話ではなく、日々何処かで誰かが魔物の返り討ちに合い、死んでいる。

 たまたま今日はこの街の冒険者が死んでしまっただけの話。


「お疲れ様でした……」



 世に悪を敷く根源たる魔王が討伐されて十年。

 世に完全な平和がもたらされると信じていた者も多くいただろうが、世の中はそんなに甘いものではなく、人々を襲う魔物自体はそのまま各地に点在していた。

 しかし魔王が討伐されたことにより魔物の軍団は姿を消し、今いる魔物は独自に縄張りを持つだけの逸れものばかり。

 人々の魔物への警戒心は急激に低くなり、それによって次なる戦いがここ数年で起き始めていた。

 人と魔物の戦争が、人と人の戦争へと変化していく。

 英雄と世界各国から呼ばれた者が、今や自国以外から殺人鬼と呼ばれるような時代へと移ろいでいた。


「なぁ、俺……もう疲れたよ」


 帝都に建つ大きな屋敷の一室にて、青年とは既に呼べない年齢となった黒髪の男は、大きな天蓋付きのベッドに静かに横たわる金色の髪を持つ少女の冷たい手を膝を着きながら握り締める。

 かつて、いや、今も尚男がこの世で愛するただ一人の少女。

 自らの人生の分岐点となった大恩人である少女。

 もし共に同じ年月を共に過ごしていれば男と同じ年齢となり、とても美しい女性へと成長していただろう少女。

 少女の言葉に救われた人生であるにも関わらず、少女を救うことの出来なかった人生。

 魔王にかけられた呪いを解くために魔王を討伐したにも関わらず、その心臓は未だ凍り付いたままで、動き出すことはこの十年で一度もなかった。

 男も頭では理解していた。

 もう少女はこの世にはいないのだと。

 体だけが綺麗なまま残っているだけで、その魂は黄泉へと誘われていることを。

 しかし男の心はいつまでもそれを否定し続けた。

 それを認めてしまえば、男は何のために力を手に入れたのか分からなくなってしまう。


──コンコンコン。


 部屋のドアが軽くノックされる。

 恐らく屋敷の使用人によるものであろう。

 そのノックは、男が再び少女に忠誠を誓った魔法剣を人の血で濡らすことを意味していた。


「……行って来る」


 もしここで少女が突然目を覚まし、「行ってらっしゃい」などと声をかけられたらどれ程嬉しいだろう。

 部屋のドアに手をかけ、今一度振り返ってみても何かが変わることはなく、男は部屋から立ち去った。

 男に残された道はただ一つ。

 この国を、少女が生まれ育ち、少女が愛した帝国を護ること。

 その為ならば、男は何度でも敵を迎え撃つ。

 例え、既にこの帝都が各国の同盟軍により包囲されていたとしても。



 貧民が死ぬ原因はいくつか存在するが、その多くは恐らく餓死であろう。

 そんなことをアルフレッドは路地裏に横たわる骨と皮だけとなったガリガリの老人を見て理解する。

 既に事切れており、暫くすれば街を巡回する兵士が見つけて回収するだろう。

 アルフレッドは老人を踏まないように避けて路地裏を通り抜ける。

 勝手知ったる路地裏には様々な人間が壁にもたれかかり、虚な目をしている。

 腹が減りすぎて意識が朦朧としている者、病に倒れて死を待つのみの者、麻薬を服用し過ぎて自我を保てていない者。

 恐らくこの世の底に存在する者達。

 自らもその底に片足を着きかけているアルフレッドであるが、まだ両足を着けないように踠いている。

 いずれは自分もその位置まで堕ちるのだろうと予想はしているが、まだ堕ちたくないという気持ちだけは持っていた。

 故にアルフレッドは路地裏を抜け、大通りに出ると道の端を俯きながら歩き、職場へと向かう。

 今日も無事に生きていくために。

 今日という日常を明日も保つ為に。


「待ちなさい」


 女性の声がハッキリと聞こえた。

 大通りの雑踏の中、何故か他の音に邪魔されず鼓膜に響いたその声に僅かに反応するアルフレッドだが、聞き間違いだろうと判断して構わず歩き続ける。

 昼間の大通りで自分のような貧民に声をかける者など存在せず、その上女性であれば僅かに残る可能性を捨てるには十分過ぎた。

 昼間の大通りを堂々と顔を上げて歩けるような人物に知り合いなどおらず、更にそのような人物はアルフレッドのような貧民を忌み嫌う。

 故にアルフレッドは歩みを止めなかったのだが、流石に肩を掴まれてしまえば止まらざるを得なかった。


「待ちなさいって言ってるでしょ?」


 アルフレッドが恐る恐る背後に振り返ると、そこには怒気を含んだ声色で話しかけてきた女性がアルフレッドの肩を掴んでいた。

 太陽の光を反射し、黄金のように輝く美しい髪を持つ女性。

 左目が青く、右目は黒の眼帯で覆われている女性。

 平民のような装いであるが、その実仕立ての良さを見れば平民が手に出来るような服ではないことが分かるが、アルフレッドにそんなことが分かる筈がなかった。

 しかし目の前の女性が他の追随を許さぬ程の美人であり、平民でないことだけは理解出来た。

 そしてここでアルフレッドは疑問に思う。

 アルフレッド自身にこんな美しい人の知り合いなどおらず、尚且つ話しかけられる道理がない。

 一体何が起こっているのか困惑していると、女性が振り返ったアルフレッドを上から下までしっかりと確認してから口を開く。


「ちょっと付き合いなさい」


 そう言ってアルフレッドに有無を言わせず女性は歩き出した。

 このまま女性について行かないという選択を取ればアルフレッドの日常が崩壊することはない。

 しかしそれは束の間の平穏であり、必ず後々になって厄介事に発展するとアルフレッドの直感が告げていた。

 故にアルフレッドは何も言わずに女性の後を追った。

 女性が足を止めたのは貴族街のとある空き地。かつて貴族の屋敷があったとされる空き地であった。

 そんなことを知る由もないアルフレッドは、そもそも貴族街に足を踏み入れてしまっていることに恐怖を感じていた。

 貧民が貴族街に足を踏み入れれば最後、生きて帰ってくることは出来ないとされている。

 ただの貧民達の間で流れている根も葉もない噂だが、確かめる術を持たない貧民にとってそれが嘘であったとしても関係なかった。

 しかしここに至ってアルフレッドは自らがその状況に置かれていることに脅え、先程から震えが止まらなかった。

 確実に近付いて来る死の足音がこれ程まで恐ろしいなどと誰が想像出来ただろう。

 アルフレッドはこの時漸く、死ぬことがとても恐ろしいことだと理解しつつあった。


「安心しなさい。貴方みたいなクズを殺しても私の立場が悪くなるだけだから」


 振り返ってそう告げる無表情の女性。

 表情がないことによって改めてその均整の取れた顔付きを見せつけられている気分を味わう程の女性。

 完成された美と言えば良いのだろうか。

 アルフレッドの人生において、汚い、気持ち悪い、醜いものといったものは多く目にしてきた。

 そんな穢れた目を持つアルフレッドにとって目の前の女性は美し過ぎて目に毒だった。

 心が恐怖で苛まれ、視界は眩い光で焼かれるような感覚。

 目の前に立つ女性の前に立つことを許されている気がしなかったアルフレッドは、自然とその場に膝を着いて許しを乞う。


「すみません、すみません、すみません……」

「以前とは全く違った対応ね」

「え……?」


 以前とは一体いつのことだろう。

 ここ最近の記憶を探ってもアルフレッドは目の前の女性と会ったことなどない。

 同じくらい綺麗な人であれば一月以上前に助けてもらった貴族の少女と使用人の女性くらい。

 そのどちらにも該当しないこの女性は一体誰なのだろうか。

 女性の言葉の意味が理解出来ずに呆けていると、女性は訝しげな表情を見せる。


「まさか……はぁ……」


 何かに気付いたように左目を見開いた後、女性は大きな溜息を吐くと右目の眼帯を取り外す。

 そしてその下からは左目とは対照的な真っ赤な瞳が現れ、その左右の異なる瞳の色を目にしたことでアルフレッドの中の記憶にある貴族の使用人と合致した。

 服装一つで人の印象がこれ程までに変わるとは思いもしていなかったアルフレッドはその事実に驚愕し、開いた口が塞がらなかった。


「あまりこれを人前に晒すのは嫌なのよ」


 愚痴を漏らしながら外した眼帯を直ぐに着け直す。

 驚きも落ち着いたアルフレッドはその姿を眺めながら何故こんなことになっているのかを考えていた。

 あれ以来アルフレッドの日常に代わり映えはなく、あの出来事がもしかしたら夢の話だったのかもしれないと思える程記憶が薄れていたというのに、何故今になって再び貴族の使用人がアルフレッドの前に現れたのか。

 もしやあの時アルフレッドが知らぬ間に取り返しの付かない事をしでかしており、その事が今になって発覚したのだろうか。

 いや、そのようなことになっていればアルフレッドの命など既にないだろう。

 ならば何故。

 アルフレッドの思考回路では答えを導き出す事が出来ない現状に対し、アルフレッドはただ戸惑うことしか出来なかった。


「ここにはとある貴族の屋敷があったの」


 女性はアルフレッドに背を向け、空き地を眺めながら独り言のように語り出す。

 アルフレッドはそれを黙って聞くしかないことを悟り、その場に呆然と立っていることにした。


「帝都に来た際に使うだけの別邸。本邸は領地にあって、こんな小さな敷地では収まらない程の大きな屋敷だったそうよ」


 まるで自分のことのように誇らしげに語る女性。


「貴方のような貧民は知らないでしょうけど、この帝国は一度滅んでいるのよ。今の帝国は名前だけ残された、ただの王国の植民地でしかないわ」


 寂しげな、しかしその奥に静かに燃え続ける憎しみの炎が宿った青い瞳を向けられ、思わずアルフレッドは身を固くする。


「名前が残ったのは帝国の英雄がいたお陰。英雄は帝国の名を護る為に自らの首を差し出し、戦争を終結に導いた」


 英雄。

 その言葉の意味を知っているが、アルフレッドには無縁の存在であるが故に、女性の話がイマイチ腑に落ちない。

 人一人の首の価値が戦争を終わらせる程の価値があるなどアルフレッドには信じられない。

 何故なら、自分自身の首に価値が全くない事を知っているから。


「英雄には愛した女性がいたの。そしてその女性は帝国を愛していた。だから英雄は帝国の為、延いては愛した女性の為にその命を捧げた」


 愛など、アルフレッドは知らない。

 貧民にそのような事を考える暇などない。

 そんな暇があるならば、今日を生きるための努力が、抵抗が必要なのだ。

 確かに貧民の間にも子は生まれる。

 しかしその全ては愛などと眩しいものの末に生まれてくるものではなく、一時の快楽を求めた結果、偶然生まれてきてしまったものだ。

 そうでないならば、恐らく今も尚アルフレッドの側に親という存在がいたはずなのだ。


「その英雄は過去、『無能』と呼ばれ、人々から蔑まれる存在だったそうよ」

「……」


 女性がそう言いながらアルフレッドに向けた視線を受け、そこに含まれた女性の気持ちを悟った。

 そしてアルフレッドはそれを黙って受け入れた。

 英雄と呼ばれた人物と、アルフレッドには同じ『無能』であったとしても天と地程の差が存在する。

 それは認めざるを得ない事実であろう。

 しかしそれが何だというのだ。

 アルフレッドには全く関係の無い話をこの女性は何故語るのか。


「戦争の後、この屋敷の貴族は生き残った数少ない帝国の貴族という事で植民地化された後の統治を任された。それはもはや貴族と呼べるような立場ではなかったそうよ」


 貴族などと雲の上の存在の話をされたところでアルフレッドに理解出来るわけもなく、それでも一つだけ分かることがあった。

 きっと、貧民よりはマシなのだろうと。


「分かるかしら?その生き残った貴族の末路がこの私。王国貴族のあんな小娘に扱き使われるだけの、それこそあの小娘の言葉を借りるなら『つまらない女』よ!」


 恐らくこれで女性の話は大体終わったのだろう。

 アルフレッドは半分以上理解出来なかった話を既に殆ど忘れており、次に冒険者組合に顔を出した際に受けるであろう制裁のことしか頭になかった。

 顔の形が変わってしまうのではないかと思う程の鉄拳制裁が一体何発来るのか、それで冒険者達の間で賭けが成立してしまうほど恒例化している行事。 

 それもこれも、こんな無駄な時間を費やされたせいだ。

 心の内に腹立たしさを感じつつも、アルフレッドは成り行きを見守ることしかしない。

 何故なら何かをしたところで事態が好転することがないのを理解しているから。


「ねぇ、もしも力があればどうしたい?」


 唐突な質問に対し、アルフレッドは首を傾げる。

 もしも、などと前置きをしている話にアルフレッドは興味がない。

 もしもの話など、意味が無いことをアルフレッドは知っている。

 もしもなんて出来事が、アルフレッドの人生において起きたことなどない。

 もしもなどという薄っぺらい希望を抱くような豊かな心を、アルフレッドはとうの昔に失っている。

 故にアルフレッドは何も言わない。何も口にしない。口を開くことさえしない。

 ただ時間が過ぎ行くのをジッと待ち続けるのみ。


「私が貴方にきっかけをあげる。『無能』でも抗える力をあげる」


 そう言って女性は何処からともなく青白い光を放つ抜身の剣を取り出した。

 とても神秘的で、驚くべきその光景を目にしたとしても、アルフレッドはただ沈黙を貫いた。


「これは魔法剣。これを使えば貴方でも他人を傷付けることが出来る。つまり、今まで貴方を虐げて来た奴らへの仕返しを可能にする剣よ」


 自慢げに話す女性の手に握られた剣をアルフレッドは一瞥し、それ以上何かを行動に移すことはなかった。

 アルフレッドは理解しているのだ。

 それを手にしたとしても、何も変わらないことを。

 もし実際に女性の話に乗っかり、魔法剣を本当に手に出来たと仮定する。

 その結果起こり得るのはアルフレッドの死だ。

 貧民は、貧民に相応しくないものを手にしてはいけない。

 貧民とは常に搾取される側の人間だ。

 貧民が何かを持っていたら、それが奪われるのは世の理だ。

 アルフレッドが恐らく珍しい、恐らく高価な不思議な剣を持っていれば、貧民の癖にとリンチを食らう。

 その時にアルフレッドが抵抗しようとしても、剣の扱いなど碌に知らないアルフルッドにはまともに扱うことも出来ずに奪われてしまい、憂さ晴らしと称して試し切りをアルフレッドにて行うことだろう。

 そんな未来が確定しているというのに、何故剣を求めようなどとするものか。

 沈黙を続けるアルフレッドに対し痺れを切らしたのか、女性は舌打ちをする。


「なんで……なんでよ……きっかけがあれば良いんじゃないの!?『無能』に魔法剣を渡せば、英雄になれるんじゃないの!?」

「それはないですよ」

「えっ……?」


 急に叫び出した女性の言葉に対し、今まで沈黙していたアルフレッドが口を開いた。

 どうせ何も言わないだろうと思っていた女性は突然のことに驚き、呆けた声が出てしまう。

 アルフレッドは女性の話がよく分からない。

 だが、『無能』についてはよく分かる。

 だからこそ、キチンと訂正しておかねばならないだろうと感じた。


「知ってますか?」

「な、何を……?」


 主語のない問いかけをされて、女性は困惑しながら質問で返す。

 アルフレッドは知っている。

 そして恐らく女性も知っている。

 だが、何処まで理解しているかは人それぞれで、その中でもアルフレッドはその事を最も良く理解していると唯一自信を持って言える事をハッキリ告げた。


「『無能』は、無能だから、『無能』なんですよ」



 昨日の雨が嘘のように晴天の今日。

 洗濯日和な爽やかな朝を迎えたこの日、珍しく主人が早起きをした。

 一般的に見ればそれは少し遅い起床ではあったが、学院に遅刻しない程度に早く起きてくれただけでも奇跡に近い出来事だ。

 今日は何か大事な行事でもあっただろうかと思考を巡らせてみるが、そういった話は一切聞いていない。

 故にこれは単なる主人の気紛れということになる。

 だがそうだとしても、使用人の女性にとって今日は良い日になる確信が持てた。

 持てたはずだった。


「嘘……なんで?」


 とある大通りに抜ける事の出来る細い路地。

 そこに見覚えのある黒髪の青年を見つけ、使用人の女性は目を見開いて立ち止まった。

 今まで貧民がそのような状態にあったとしても全く気にしなかった使用人の女性であるが、流石に見覚えがあり、ほんの少しでも関わりのあった人物ともなると反応が変わるのは必然とも言えた。

 そしてそれは自分の主人もそうであると勝手に想像していたが、次の言葉に困惑を隠せなかった。


「アイリス、早く行くわよ」

「え……あの、先日のように助けないのですか?」


 まるで何も無かったかのように平然と歩みを止めず、アイリスに背を向けたまま命令する主人。

 それを見てもしかしたら見えなかったのかもしれないという淡い期待を持って問いかけてみると、主人は立ち止まり、振り返った。

 あぁ、やはり気付いていなかっただけなのだと思った矢先、アイリスは主人の目を見て恐れを抱いた。

 感情の一切を感じさせない、氷のように冷めた視線を真正面から受けてしまったためだ。

 血のように赤い魔眼の瞳。

 熱を持たない死人のような瞳。

 化物と称される冷酷な瞳。

 主人は薄く笑うと、静かに言った。


「助ける?馬鹿を言わないで。貧民を助ける義理など無いし、何より死体をどう助けろと言うのかしら?」

「え……」


 別に主人であればそういった選択を取ることは目を見た時に予測出来た。

 しかし死体という言葉にアイリスは耳を疑い、もう一度黒髪の貧民の姿を見た。

 路地の壁にもたれ掛かるように座り込む、よく見る光景。

 先日と変わらないその光景。

 生きているのか、死んでいるのか、遠目からでは判断が難しい。

 もっと近くで確認したいと思っていると、主人は既にそんなものには興味がないらしく歩き始めていた。


「行くわよ」

「は、はい……」


 主人から声をかけられ、アイリスは後ろ髪を引かれる思いを抱きながらその場から離れた。

 貧民が一人死んだ所でアイリスの日常は変わらない。

 主人に仕え、主人に媚び諂い、主人に感謝するだけの日々。

 帝国を滅ぼした者たちへの憎しみを抱きながら、何も出来ない自分に腹を立てながら、仮面のような作り笑顔を被り続ける日々。

 その時アイリスはふと気付く。


 あぁ、一体何が違うというのだろうか、


 何故彼を『無能』と蔑む事が出来るのだろうか。


 何も出来ない私が、無能以外の何者だというのだろう。

もう少しハートフルな話を書く予定でした。

次はもう少し明るい話が書きたいです。

いや、ホントに。

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