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4―奴隷紋


 ハムスターみたいに頬を膨らませていたロロアは、ゴキュっと喉を鳴らして萎むように普段の小さな顔に変わっていくと、青ざめた顔色で瞳をウルウルとさせながら胸を叩きだした。


「おいおい。大丈夫か?」


 その様子に慌てて水袋を差し出すと、ロロアは喉に詰まらせていたものを水で流し込んだ。


「フー。ちんじゃうかとおもった!」

「頬張るからだ。気をつけろ」


 昼食を終え再び歩み始めると、隣りを歩くロロアは色々な話を聞かせてくれた。


 屋敷で、たまにチーズを分けてくれた奴隷の獣人の話や、移住先の森で出会った子狼(ウルフ)の話。他にも、たまに耳に入ってくる冒険者の冒険談など。ロロアの話は俺の大好きな物語(ファンタジー)みたいで、どれも興味をそそられた。


 異世界に転移したのだと絶望し、冷静になってから天幕を張りバーベキューを楽しみながら「異世界サイコー!」とか言っていた自分が恥ずかしい。


 冒険者がいると言うことは、俺のような異世界転移してしまったプレイヤーがいるのか、それともこの世界の冒険者なのだろうか。魔物がいるぐらいだ、異世界の冒険者がいてもおかしくないか。話を聞いている内に気になることが増えてしまったが、人の居る町へ行けば何かわかるだろう。


 話に夢中になり、気づけば丘の(ふもと)まで辿り着いていた。遠くから見ていた丘は端が見えず、左右はどこまでも伸びていて、たぶん国境という物が物理的に視覚化されるとこんな感じになるんじゃないかと思ってしまうほどだった。

 麓から見た感じは緩い傾斜が頂まで続いているありふれた丘だが、小さいロロアには少し辛いかもしれない。それでも進んでしまえばどうにか日暮れまでには登りきれそうな気はしていた。


「少し休憩にしようか」


 食事を終えてからここまで休憩もせずに歩きっぱなしだった。そんな道中意外にロロアはタフなんだな、と思いもしたが、水袋を手渡すとゴクゴクと勢いよく飲み干していく。やはり子供の体力ではつらいようだ。飲むのをピタリと止め、残りの水を俺に受け取るよう差し出してきた、気を使ってくれたのか。俺も少しは気を配れるように配慮しないといけないな。


「これがあるから気にするな」


 水石を見せながらそういうと、水袋をコポコポと音発てながら残りの水を飲み干していく。

 ロロアは「ふー」と息を整えたあと、水袋を手渡してくれた。空になった水袋を受け取り、俺も水石で水を生成して喉の渇きを潤した。


 休憩も終え、俺たちは丘の頂を目指してまた歩きだした。やはりまだ小さなロロアには傾斜を登るのは辛いのだろう。鼻息をヒューと鳴らして大きく肩で息をしながら、踏み出す一歩いっぽが重そうだ。小動物、魔女と見方によっては色々な一面を見せてくれるが、ここにきて老婆のような姿にまで成り果てるとは……

 丘を登るペースを落としていくロロアに歩調を合わせて歩いたからか、丘を登りきると陽もすっかり傾き大禍時(おおまがとき)を迎え、辺りは昼から夜へと移り変わろうとしていた。


 丘の上からの眺めに期待していたが、どうやら向こう側には荒野が広がっていたようだ。近くに町があるのではと期待していた分、薄暗い大地に灯りひとつ灯っていない事に落胆も大きかった。

 夕陽が地平線へと沈んでいくのを見ながら、今日はここで夜を明かそうかと考えていると、突然ロロアが苦しみだした。


「どうしたロロア!」


 両膝をつき、呼吸が乱れ、苦しそうに胸を押さえている。病か!?

 さすがにポーションでは病気までは治してやることは出来ない。苦しむロロアの両肩を掴むと同時に胸元から黒く禍々(まがまが)しい光がバチバチと音を発てロロアを(むしば)み始めた。


「待っていろ。すぐ治してやる」


 蝕まれる姿から病ではなく状態異常だと察しがつき、俺は鞄から透明の菱型の小瓶を取り出した。こんな本当にゲームみたいな症状が現実で起きるとは。


「これはエリクサーだ。どんな状態異常も完全回復するものだ」


 立っているのも辛そうに一歩後ずさってしまい、苦しんでいるロロアは自分では飲めそうにない状況だ。俺は片ひざをつきロロアを膝の上に抱え、小瓶に入った鮮やかな桃色の液体を無理やり口へ流し込んだ。

 吐き出さないよう空いている掌で口元を覆い、空瓶を放り捨てた手をロロアの額に添えた。


「辛いだろうが飲んでくれ」


 一口ほどの少量の液体であるため、吐き棄ててしまえば何の意味も成さなくなる。どうにか飲んでくれたようで、ほんの一瞬ではあるがロロアを蝕むものは消え去った。

 頸を振って溢さないようにロロアの額を押さえていた手を退けてみると、荒い息遣いだったのが治まり安心したのも束の間、またすぐに黒く禍々しい光は現れバチバチと放電するかのようにロロアを苦しめ蝕み始めた。


「こんな所にいたのか、片角よ」


 誰だこいつは。常時発動パッシブにしていた俺の危険察知スキルに引っかからなかった。

 突如現れた赤茶色の髪をオールバックに固めた碧眼の俺と歳も然程変わらないだろう若い男は、睥睨するかのように俺の腕の中で苦しむロロアを見下ろしていた。

 中世の貴族を彷彿させるような青を基調とし金の刺繍が所狭しと施された衣装を着こなし、この様な状態のロロアを見て(たの)しそうな眼で口角をニヤリと尖らせた。


 この男……見ていて不快だ。


「誰だ、お前は」


 俺の声に反応したのか、ジロリと眼球だけを動かし俺を見た。


「冒険者風情が。私に声を掛けるな」


 俺に敵意を向けるどころか、相手にもしていなかったようだ。どおりで【危険察知】スキルが反応しなかったはずだ。

 この男は俺と話すらする気はないという事か。


 ロロアを知っていて片角と呼ぶこの男、おそらくロロアの言っていたご主人というやつだろう。

 こいつがロロアに傷を負わせた男かッ!


 苦しむロロアに、スキル【範囲持続回復(サークルヒール)】【物理結界】【魔法結界】を施し、その中から出ないよう一言告げて立ち上がった。回復スキルで少しは苦しみも緩和されただろうが、それでも苦しそうに乱れた呼吸で両膝を地面に着けていた。俺の顔を見上げるのも辛そうで、その場で小さくコクリと頷いてみせた。


「お前がロロアのご主人様というやつか」

「主だと? 汚らわしいことを口にするな。それとは主従の(ちぎ)りも何もない。ただの奴隷だ」


 主と呼ばわれることさえも不快なようで、ヤツにとって奴隷は蔑む存在(対象)としか捉えていない事が窺い知れた。


 臓腑(はらわた)が煮えくり返りそうだ。この感情は怒りなんて生ぬるいモノでは無い。人はこの感情を殺意と呼ぶのだろう。俺は初めて抱くこの気持ちを処理しきれないまま、沸々と湧き上がってくる怒りを胸の内に押さえ込み、出来うる限り冷静で居ようと試みた。今は感情に流されるよりも、ロロアを救う手段を知りたい。その心だけでどうにかこの感情を抑制する事ができていた。


「ロロアは苦しんでいる。なにか心当たりはないか」


 ニタリと不気味な笑みを浮かべたその男は話し掛けるなと言っておきながらも、饒舌じょうぜつに話し出した。

 なんだ……話したくて仕方なかったのか。そう思う事で、このニタリ顔に鬱陶しい口調、それに激昂する感情も緩和され冷静で居続けられそうだ。


「心当たりだと? 私よりも、貴様の方が心当たりがあるのではないか? 私は逃げ出したそれを回収しにきたのだ。まだまだ甚振(いたぶ)らないと採算が合わず、頭を抱えていたのだよ。損はしたくない性分でね。奴隷契約の呪いも干渉できないとは、聖域の大草原には畏れ入ったよ。さすがの聖域も呪いの解除ではなく、発動を抑え込むだけで呪いは蓄積させていたようだが」


 奴隷商に支払った金額とを天秤にかけ、元を取れていないと判断し追ってきたのか。強欲な奴だ。


 ロロアを蝕むあれは奴隷契約の呪いだったのか。聖域の大草原は、たぶん迷宮(ダンジョン)でみかける安全地帯みたいなものだろう。

 なるほど、それで草原には魔物もいなかったのか。そこ(安全地帯)から出たいま、今までジワジワとロロアを蝕んでいた呪法か呪術かはわからないが、その効力が蓄積された分だけ威力を増幅し発動してしまったと……


 奴隷の容姿は首輪に鎖をつけたイメージだったが、さすがに異世界だ。まるで呪術の様な隷属魔法までも存在していたとは肝心な事を見落としてしまっていたようだ。

 着替えの時、胸元に見えていた丸い円の中に文字のようなものや逆三角っぽい紋様があったのを覚えている。角が生えているぐらいだから、そういった刻印があっても気に留めなかった。


 くそっ――あれが奴隷紋だったのか!


 ここは魔法が存在する異世界。俺の想像(イメージ)した首輪に繋げられた奴隷では魔法世界と言うより地球(過去)の歴史だ。そんな考えでは想定外(イレギュラー)が在って当然か。


「どうすればロロアを開放してくれるんだ」


 俺の言った言葉に「開放? 可笑しなことを言うのだな」と返答をした若い貴族の男は小さく、クックックッ。と口を押さえて笑っていた。その視線は俺を見据えると「お前も奴隷にしてやろう」と愉快そうに言葉を続けた。

 その若い貴族の男の後ろには二人、黒い外套を纏って闇に紛れている一人と、黒のローブを纏い杖を手にしている杖士の姿が見えた。


「アヤツも奴隷にする。殺さずに生け捕れ!」


 若い貴族の男が指示を飛ばすと、後ろに控えていた杖士が若い貴族の男の前に出て魔法詠唱を始めた。同時に指示に従い外套を脱ぎ捨てた男の腰には剣が携えられている。どうやら剣士だったらしく、腰に帯びた剣の柄を握り締めると、勢いよく俺の元へと駆け出してきた。


 詠唱を始めた杖士は魔法使いか魔術師かのどちらかだろう。それに駆け出した剣士はその魔術師が唱えている詠唱の時間稼ぎ役といったところか。前衛と後衛とに分かれた定石通りの戦術だが悪く無い。ロロアの言っていた冒険者とはこいつらみたいな奴の事を指していたのだろう。


 異世界で初の戦闘が対人とは――剣士に魔術師、ちょうどいい相手だ。




◇◇◇


 ライアンは荒野の街(ウィルダーネス)随一の冒険者であり、名の知れた剣士よ。私の魔法がなくともあんな男、すぐに片がつくでしょうね。

 でも仕方ないわね。命令された以上は魔法を放たないと報酬が頂けなくなってしまうもの。あの奴隷の子といる彼には悪いけど、二人仲良く捕まってもらうわ。


 それにしても、もったいない。あの奴隷の子に使っている魔法は魔法使いの私でも見たことのない魔法よ。きっと隣国のラムランデ帝国からきたんだわ。奴隷として使い壊される前に、是非(ぜひ)持続する回復魔法だけは調べたいところだけど。


「アヤツも奴隷にする。殺さずに生け捕れ!」


 雇い主の前に出て詠唱を始めたと同時に、ライアンは彼に向かって剣を振り翳しながら間合いを詰めていった。甲高い音と共にライアンの剣が彼の持つ黒い剣に受け止められた。


 めずらしい剣ね。あんな黒く細い剣は見たことがない。奴隷の子と一緒にいるぐらいだもの、安物で急場を(しの)いでいると言ったところでしょうね。あんな細い剣では、いずれ折れてしまうはず。

 なのに……彼も以外にしぶとい。

 何度もライアンの剣を捌いているのは彼の剣術がライアンを上回っているからなのかも。ふふっ、それは在りえない話ね。いくらライアン自身には強化魔法が施されていないとは言っても、ライアンの持つ剣、あれは魔法が付与された剣だもの。


 それを知っているからか、二人の迫り合う姿を見ていると、つい笑みが零れてしまった。安物の剣で凌ぎきれるほど、ライアンの剣は甘くはないわ。今回の依頼もちょろかったわね。

 ライアンも手加減してあげているのかしら。奴隷の子を救うために身体を張って守ろうとしているのだもの、少しは同情して手心を加えても仕方のないことだわ。


 ライアンが少し下がり距離をとった。業を煮やしたといったところね。あの一撃で仕留めるつもりだわ。


 せっかく詠唱していたのに、今回は私の出番はなそうね。


纏炎(フレイム)


 あの剣はいつ見ても興味深いわ。


魔法付与(エンチャント)だと……」


 彼も驚いているようね。ライアンの持つ剣は魔法使いが魔法を付与して造られた珍しい剣よ。魔法付与に耐えられる素材を使用して打たれた剣はそれだけで鉄や銅の剣とは比べ物にもならないわ。

 王が所有している国宝級ともなれば、その一振りの剣で小国の軍を相手にできるほどと言われているぐらいだもの。


「はーはっはっ。多額の報酬を契約して連れてきたんだ。報酬に見合う働きを見せてもらうぞ」


 雇い主もあの剣を観て興奮してるのかしら、後ろでうるさいわ。今いいとこなんだから、邪魔しないでほしいわね。魔法が開放され炎が舞い上がり、徐々に剣へと集束していく。メラメラと燃える炎が剣を包み込み、熱気がこちらにまで伝わってくるかのようだわ。


 私の詠唱もそろそろよ。ライアンにもしもの事があっても、魔法学院を主席で卒業した私の魔法を見れば戦意も失せるでしょう。


 フレイムを発動させてからは、互いに相手との間合いを意識しているように見えた。でもやはりライアンが先に踏み込んだ。あの様子だと彼の剣ごと叩き斬る気ね。あんな細い剣じゃ叩き折る前に熔けてしまいそうだけど。


 どうやら彼も馬鹿ではなそうだわ。燃え盛る炎を纏った剣撃を受け止めきれないとわかっているみたいで、姿勢をずらして――えっ! どうして!?

 なぜわざわざライアンの正面に構えなおして、あの剣を受けようとしているの。それじゃあ剣だけでなく、あなたの命まで危険よ。二人を捕らえろと命令されているのは聞こえてたはずでしょ……


 それは一瞬の出来事。瞬きをするほどの刹那の時間の中、ライアンが振り下ろした剣が斬られ宙を舞った。


 纏炎(フレイム)を発動させたライアンの剣は、彼の頭上から一気に振り下ろされたはずだったのに、仁王立ちして構えていた彼は紙一重で半身を後方に回りこませ、眼前で振り下ろされた直後のライアンの剣を、横から振り下ろした剣で真っ二つに斬り裂いてみせた。

 十字(クロス)するように剣が重なり合うと、ライアンの手には柄だけが握られていた。宙を舞った剣刃は勢いよく回転しながら風切り音を発てたあと、地面へと突き刺さった。


「有り得ない……あの剣を斬るだなんて」


 私は冒険者になってから、いえ、魔法学院に通う学院生だった頃から騎士を目指す多くの剣士も見てきた。中には文字通り大剣で魔物を叩き潰す者や、ライアンのように剣術を会得し斬り倒す者もいたわ。


 でも……彼は違った。今まで見てきた剣士とは明らかに異なる存在だった。

 叩き潰す。斬り倒す。そのような剣ではなく言うなれば……そう、あれは斬り殺す為だけに研がれた一本の刃。安物の剣なんかじゃない。あれは魔物じゃなく人を斬る為の物だったんだわ。


「退かないならこのまま斬るぞ」


 ライアンが負けた。

 剣を失い、戦意すら喪失している。



「使えない剣士だったか。街で最強の剣士と聞いていたが、剣から火を出すだけの噛ませ犬とは」


 後ろに隠れてごちゃごちゃと、ほんとうるさいわ。


「魔法使いよ、準備は出来ているのだろ。奴隷もあのつかえん男も殺して構わん。剣士ごと消してしまえ」


 言われなくても準備はできているわよ。でもライアンまで巻き添えにする気はないけど。そう思い私の出番だわと勇み足で片足を一歩前に出した。詠唱もすでに唱え終わり、あとは練り上げた魔力を開放するだけ。私は杖頭を彼に向け魔法を放つ態勢に入った。


 ……突然、彼の纏う空気が変わった――こちらを見ている。


 何よ、あの魔力は。

 先ほどまでの彼とは、まるで別人。体内から溢れ出るほどの魔力なんて聞いたことがないわ。常人離れした魔法使いでも自身の周囲に魔力を纏える程度なのに……あれが本当にヒューマンなの。


「なにか言ったか」


 彼がこちらに話かけてきたけど、全身が震えて声がでない。彼から溢れ出ている魔力が地面を這うように周辺に霧散していく。


 なにこれ、冷や汗? 話しかけられただけなのに、心臓を握られている気分だわ。冷たい眼差しが私という存在を凍てつかせるみたい。


「わ、私はあなたと戦う気はないわ。【魔法解除(リキャスト)】――魔法の詠唱も破棄したわ」


 【魔法解除(リキャスト)】で魔法をキャンセルしたけど、あんな凍りの様に凍てついた眼差しを向ける今の彼に、私の言葉が伝わっているかさえわからない。

 退く準備はしておいたほうがよさそうね。


「何を言っている魔法使い、私は殺せと命じたはずだ!」


 何を言っていると言いたいのはこっちのほうよ。あれがわからないなんて、ほんと無知とは怖ろしいものね。


 彼が小さな声で何かを呟いている。

 まずい、魔法を唱えて……


「あぁ、失念と言うやつか。【魔法解除リキャスト】で思いだすとは。いま解いてやるからな」


 両目を閉ざすように掌で覆った彼は、そう呟いてこちらに背を向けた。そのまま倒れている奴隷の子の元へ歩み寄っていく。

 なにをする気かしら……こちらに魔法を放つようではなさそうだけど。


「【呪術解除(カースブレイク)】」


 光が奴隷の子を包み込むと、包んだ光の膜が隷属魔法(呪い)を吸い上げて黒い結界の様なものに変化した。するとその黒い結界は呪いと共に砕けて消えてしまった。


 まるで浄化されていくみたいだった。

 奴隷紋の解除なんて、主が奴隷契約を破棄するか、あるいは当事者のどちらかが命を落とすまでは解けないはず。彼はいったい何をしたの?

 わかるのは奴隷の子に施されていた奴隷契約が消滅したということだけ。

 隷属魔法という呪いから開放された気を失っている小さな子供を抱きかかえた彼は、私たちに背を向け歩き出した。


 先ほどの恐ろしさも、溢れ出ていた魔力もすでに感じない。


「どいつも役に立たないとは。もうよい、私がこの手で殺してやる。私の玩具(モノ)を勝手に持って行くなど、許されるはずがない!」


 私から強引に杖を取り上げたこの男は詠唱を始めた。

 この詠唱は――まさか上級魔法!?


「その身で私を愚弄した罪を思い知るがいい――【氷塊爆裂(フリージングバースト)】」


 少女を抱く男の頭上高くに現れた魔法陣から生成された鋭く尖った氷柱が、彼を目掛(めが)け無数に放たれた。魔法が放たれたと同時に彼は、少女を抱きかかえたままこちらに振り返った。

 彼と一瞬目が合った気がした。冷えきった感情の無い瞳と。


「【衝撃緩和(インパクトカバー)】【魔法結界】【物理結界】【多重結界】【沈黙領域(サイレンス)】」


 雇い主が放った魔法が彼らに直撃する寸前、私は彼らから目を背けてしまった。地面を(えぐ)るほどのその威力で、轟音が響き渡り、辺りは土煙で視界がはっきりしない。


「はーはっはっ。跡形もなく消し去ってやったわ」


 雇い主の高笑いが収まるころ、土煙も薄れ始め、中から彼の陰が窺えた。


「まさか、あれを受けて無傷だなんて……」


 彼の足元から円を描くように半径二メートルほどの範囲だけは、元の地形を保ったままだった。周囲は抉られ原形を留めていない状況でありながらも、雇い主の放った魔法が彼を貫く事はなかった。


 相手の魔力を感知できない雇い主(凡人)でも、さすがに彼の底知れない力に気づいたでしょう。

 そういえばライアンはどこにいったのかしら、魔法が放たれる前に草原の方へ走っていくのは見えたけど。


「……魔術師」


 魔術師? 聞いた事の無い名称だけど、どうやら私のことのようね。魔法使いの私を彼が呼んでいることはわかったわ。


「な、なにか?」


 彼と言葉を交わしたその刹那、彼から漂う明確な殺意が肌を伝って全身で感じ取ってしまった。

 これはあれだわ――敵対してはならない存在だと私の直感がいっているわ。


「お前も俺たちの敵なのか」


 彼の眼はすでに捕食者の眼をしていた。

 蛇が蛙を見下ろした時の様に――喰われる(殺される)

 まずいマズイまずいマズイまずい――恐怖が私を侵食していく。

 

 気づけば自身を抱く様にして両腕を組んでいた。圧倒的な存在を前に、私の思考は停止しそうになっている。

 それでも彼の問いに応えなければならないと、命を繋ぐ細い糸を手繰り寄せるように震える唇を噛み締め、


「いいえ。私は杖を返してもらうために、戦いの行方を観させてもらっていただけ」


「そうか、なら杖は諦めてここから去ったほうがいい」


 この場を離れる許可が下りた。私は今、安堵している。生きてここを離れられる事に。

 ライアン、あなたはこんな恐ろしい男と剣を交えていたのね。


「この戦いに巻き込まれて命を落としたくないわ。あなとの言う通りにここを離れさせてもらうわ」


 私の心は安心しきっている。彼が私を敵ではないと認め、安全が保障された気分になった。そうなると、これからの二人の行く末(戦い)が気になり始めていく。


 毅然とした態度でいるだけで精一杯だったはずなのに、安心すると好奇心が込み上げてきた。観てみたい。彼の戦う姿を……


 ダメよ。残るという選択は拾い上げた命を手放してしまう行為と同じだわ。

 ここを離れましょう。生者で居たいなら彼の忠告通りにした方がいい。


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