1―カザミ
異世界に転移してしまったのだとようやく理解した俺に、新たな事項が追加されてしまった。
ただでさえ現状を受け入れるのに精一杯だったのに、
「まじか」
これはさすがに見てない振りする事はできそうにないな。突如現れた黒い靄に思考が追いついていない中、それだけは辛うじて把握できていた。
現状では、この黒い靄は俺の腰に定位置を確立しているのか、移動しても腰から一定の距離を保ったまま追尾してくる。まるで俺の腰の位置がペストポジションだと言わんばかりに……
明らかに危険を伴いそうな見た目だが、今のところ直接的な危害を加える事も、及ぼすような事もなく、ただ当たり前のように浮遊している。
突然の出来事で思考が追いついていないからだろうか、両手を広げ太陽の陽射しを一身に浴びる俺は、悟りを啓いた僧侶のように大らかな心に満たされていた。
今なら舞い降りた天使に出会えそうな気がする。
「やばい……脳みそパンクしてるわ」
何が俺をそんな気分にさせたのか、未だ現実と向き合いきれていないようだ。
情けなく首を振った俺は、悟り気分を振り払った。
せめて俺の勝手知ったるVRに転移したのだと思いたいところではあったが、すでにここが見知らぬ地だとだけは理解している。
VRだったらと思っていた俺の考えは少し甘かったようだ。
この世界は俺の知るVRとは全く違う未知なる世界なのだと受け止めるしかないのだろう。
こんな時、ライトノベルの主人公なら女神様から状況説明があったりと、色々な支援を受け取ってからの異世界デビューがお決まりだろう。
神の加護や反則級能力を授かり悠々自適に異世界生活か、使命を託されそこそこ有意義な人生を送るのだろうが、それに比べて俺は……言うなれば事故だろ、これ。
「だだっ広い草原にぼっちで異世界デビュー。なぜこんな所に居るのか皆目検討がつかず、突如現れた黒い靄に<誰か助けてくれ!>と叫びたいのは俺の方だ」
三十近い大人がVRに心躍らせて毎晩プレイしていたら異世界デビューしちゃいましたとか、そんなユーモアあったら自称永遠の十六歳なんか発症してないだろうよ。
「あーッ、くそッ!」
考えていて悲しくなってきた。
ラノベの主人公に嫉妬するよりも、今後の事を考えた方がよさそうだ。
とりあえずは今の自分を知る事が先決だろう。せめて俺の知るVRならどれだけよかった事かと切に思うよ。
「これから調べてみるか」
ずっと宙に浮いたままの黒い靄が何なのか、それを知ろうとしばし観察していた。
素手で触れるには勇気が必要で、どこか掌サイズのブラックホールを連想してしまう。するとどうだろうか、負の感情が一度芽生えてしまうと、一切がネガティブ思考に切り替えられる。
「…はぁ」
自然と溜め息が洩れた。
頭の中は素手で触れたら手が消滅してしまうのでは? などと言う想像しか出来なくなってしまっている。
恐怖は視野を狭めるとはよく言ったものだ。
当然ネガティブ思考全開になった今の俺には勇気の一欠片ほども在るはずがない。視線は当たり前のようにキョロキョロと、素手で触れるよりはと訴えるように、小枝か何か代わりになりそうな物を探し始めた。
視線に釣られ足が一歩、また一歩と生い茂る草を見下ろしながらお目当ての物がないかと進み始める。
そうして少し辺りを散策してみたが、どこをどう見ても草しか生えていない。そんな事歩き回る前からわかっていたはずだった。
だが、どうやら生い茂る草の中にも色々な種類があるらしく、淡い光を放つ珍しそうなのがチラホラと窺えた。
「光る草類か。さすがは異世界だ」
黒い靄のインパクトが強すぎて、明るい陽射しの中、蛍光塗料が塗られたように発光している草を見ても驚く事はなかった。
この草原に小枝は無い。
そう確信した俺は、さすがに見ただけで今日中には着きそうもない森林までは歩こうとは思わず、この草原の中央付近で胡座をかき覚悟を決めた。
「南無さん!」
異様な掛け声と共に指先で黒い靄に触れてみた。
触れた感覚はあるものの、桶に溜めた水を指先で突く感触と言えばいいだろうか。視覚で把握しないと、触れているという感覚が薄い。
温度も感じさせず、冷たさや温もりを感じる事はなかった。
「なるほど」
わかりました。と言った体で口にはしたが、つまりは何も状況はかわっていないと言う事だ。
触れても大丈夫だとわかったところで深い溜め息が漏れ出てしまった。
「はぁー……」
もしかすると指先が消滅するんではないかと色々と気を張ってしまったせいで、押し寄せてくる安堵感がハンパない。
今度は指先ではなく掌全体で、小動物の頭を撫でるように触れてみた。何が起きる事も無く、俺はついにその黒い靄の中心、闇の穴に引きずり込まれてしまいそうな箇所に手を入れてみることにした。
手が靄の中へ入ると同時に、脳内に縦横のマス目が現れ、そのマス目の中に単語が記されている。
表の様に並んだ単語から、黒い靄の中に収納されている物が全て把握できた。まるで俺の頭の中とリンクするような感覚。
どうやらこれはアイテムバッグだったようだ。
不安と驚きがごちゃ混ぜで、搾り出された言葉は、
「まぎらわしいな。せめて鞄にしてくれ」
黒い靄は俺の意を理解したのか、黒い霧となり新たに何かの形へと変わっていく。そうして現れたのはブラウン色の肩掛け鞄だった。
「おおー……」
おもわず声が洩れた。
形態を変えた事に驚いたが、今はその鞄の中身が気になって仕方がない。
この鞄の中身は俺がVRで集めたアイテムが収納されていたからだ。それにこの肩掛け鞄その物も、俺が仮想世界で愛用していた物だ。
コスチュームアイテムとして扱われていた鞄だったから、直接鞄を開き使用するといった事はなかった。
VRでは視界にアイテムアイコンが表示されており、タップすると現れたウィンドウから収納されている中身を閲覧できていた。
どうやらこっちでは鞄を開けると頭の中にアイテム表が現れ、即座に中身を把握する事ができるようだ。これは脳とリンクしている、と言う例えでは語弊があるな。鞄を媒介に収納されている空間にアクセスしている、が正しい表現かもしれない。
仮想が現実になると、ここまで便利になるものか。
「この原理はどうなってんだか」
ゲームっぽい遊び要素なのだろうか。鞄を開いただけで中身を把握できるのは便利なので、気にせず使わせて頂こう。
にしても、まずは自分の顔を確かめたい。なんとなくではあるのだが鏡の取り出し方、すでに鞄の使用方法も把握できている。
脳裏に浮かんだアイテム表から取り出したい物を思い浮かべながら手を入れると、それが手元にやってくるはずだ。
「はい。わかっていました」
取り出した鏡でさっそく自分の姿を確認したが、やはり、と云うべきなのか、若返った肉体もVRで使用していたキャラクターそのままだった。
この鞄がアイテムバッグだった時点でそんな事だろうと思ってはいたが、
「まとめるとこういう事か」
俺の肉体や容姿はVRのキャラクターそのもので、そのキャラクターが所有していたアイテムバッグも利用できると……
「ログインした時の光の中で一線を超えた感覚、あれは自キャラに俺の精神や魂といった物が入ってしまったという事だったのか。超えてはならない境界というものは存在していたんだな」
自キャラだが、ここはゲームで実装されていた仮想世界ではなく、俺の居た日本とも違う正真正銘の異世界。着地点を見失うにもほどがあるぞ。
「異世界にゲームのキャラクターで転移してしまったのか」
わかりづらいが、まぁアイテムバッグが有るだけ頼もしいか。
俺は茂る芝の上に寝転がり空を眺めながら、自分が使用していたキャラの詳細を思い出していた。
__________
・冒険者 カザミ
・種族 ヒューマン
・職業 侍
__________
「……ぐらいか」
この場につっこみ役がいたらハリセン必須だな。
長い間このキャラクターを利用していたが、Lvも上限値していた事もあり、生産系スキルを上げるのに夢中でステータスなんて上限値を迎えて以来確認していなかった。
基本は単独プレイで自由気ままにVRを堪能していたし、むしろ後半は新しいダンジョンや大陸の実装待ちで時間を持て余していたぐらいだ。
その間に生産者となりVRで雑貨屋を営んでいたぐらいだからな。名前と種族に職業、それだけわかれば十分だろう。
「安全確認はしておくか」
草原の真ん中で、ぼっちな俺は立ち上がり、一応周囲を見渡した。
異世界らしく魔物の類にそれなりに聞き耳を立て警戒はしていたが、存外にいないものだ。本当に魔物がいたとしても、気づいたところで遮蔽物も何もないこんな場所では対処できそうにないが、もし遭遇すれば、戦うか全力で逃走するしかないだろうな。
戦うと考えてはみたが、それは単に思考の中のコマンドに在ると言うだけで、決して選択される事はないだろう。
「ガンガン行こうぜ! よりも命大事にが現実的だよな」
とほほな状況に変わりはないのだが、上限値に達した俺の肉体は、この世界ではどの程度の強さなのだろうか。もしかして俺TUEEEE物語りの始まりなのかもしれない。そう考えると、少しはわくわくしてきたな。
異世界の俺、最強説の妄想をしながら不適な笑みを浮かべていると、陽も傾き始め紅く色づく草原が夕暮れを知らせるかの様だった。
この世界の情報が全く無い俺だが、幸いにもアイテムバッグはある。実に嬉しい収穫だったと言えるだろう。
これがあれば野営も可能だ。知らない夜道を歩き回るなど危険極まりない事ぐらい俺にだってわかっている。
そもそも異世界初日で死にたくない!
「ふっ、VR冒険者を舐めちゃイカンよ」
VRでは転移魔法などは使わず、荷馬車と天幕で野営をしながら生産した武具や魔導具、それと生産しすぎた日常雑貨品の売れ残りなどを卸しに城下町に出向いていたこともある。
寝台付きの馬車もあったが、そこは商人らしく荷馬車をチョイスした商人魂。
「そう言えば、俺の開いた雑貨屋には客が滅多に来なかったな。やはり立地が悪かったのだろうか」
VRでの自分の店を思い出しながら、俺は天幕とBBQセットを鞄から取り出して野営の準備を始めた。
足下は生い茂る草原という事もあり、火事にならないようバケツとレンガブロックをいくつか取り出し、芝生にレンガの床を設置していく。
「異世界にきても周囲に配慮するところは日本人らしいか」
設置した床の隅にはバケツを配置し水石を取り出した。孤独からか、気を紛らわすために、つい独り言を口にしてしまっている。
「魔力が使えなければこのキャンプの光景も、傍から見たら草原に住みついたホームレスだよな」
まさか<異世界でホームレス始めました>って事にはならないよな……
VRでは掌に置いた水石に意識を集中すると、体内の魔力が水石へと流れ、成功すれば水石が淡く光りだす。こちらではどうだろうか?
俺はVRと同じように掌に意識を集中させたが、水石が光ることはなかった。異世界でも自キャラの魔力は使えるのだろうか?
そもそもこの世界に魔法や能力の概念は存在しているのかさえ疑問だ。
「自キャラにアイテムバッグ、それに異世界だ。お膳立ては整っているはず」
脳裏によぎる<ホームレス始めました>が杞憂にさせてくる中、何が足りないのか、何が間違っているのか懸命に模索した。
そういえばVRのチュートリアルのとき、ノンプレイヤーキャラクターのじいさんが<この世界の魔力とは――>と説明していたっけな。
記憶の引き出しから小さな希望を引き当てた俺は、NPCの説明を必死に思いだした。
「確か、大気に漂う魔素を体内に取り入れて肉体の魔力は補充される。肉体に宿る魔力を使用すると魔法が使えるとか言ってたな」
操作方法はやりながら覚えるが俺のスタイルなのだが、こんなところでチュートリアルがこれほど大事だと実感させられるとは思わなかったな。
「魔力の補充はマジックポイントの自然回復って事だよな。肉体に宿る魔力を扱うには、まずは身体の奥、腹の底にある魔力を感じる。だったか」
なかなか難しい。だが腹の底のほうで渦巻く何かを感じる。これを血液が体を巡るのと同じように、意識せず自然体で体中に巡らせる。巡る魔力を感じとり、掌に集めるようにして――スキル発動【魔力操作】
「光った!」
二十八歳で石を光らしてテンション上がるとか誰かに見られたら恥ずかしいが、どうにかホームレス生活は回避できた。これなら誰がどう見ても野営をしているようにしか見えないだろう。
異世界生活初日、俺の自尊心はどうにか保たれた。
危うく心が折れる所だったが、本当に魔力が使えるのは有りがたい。
「火事になったらまずいし、水を用意しておかないとな」
注ぐ魔力量で水石から溢れる水の量が変化するのはVRと変わらないようだ。
「VRの様に大気に漂う魔素があるのか気になるが、全てのアイコンが消失しステータス画面が開けない今、魔力が自然回復しているのかもわからないな」
気がつけば、辺りもすっかり暗くなってしまっていた。レンガブロックで作った床の中央に薪を配置し、その横に炭を入れたBBQコンロを置く。
火石を取り出し水石同様に魔力を注ぐと、静かに赤い光を帯びていく。淡く光る火石を薪の中に放り込むと、小さな火が薪を包み込みながら火の勢いを増していった。
火が薪に燃え移り火石は役目を果たすと、砕けて光る欠片へと変わり、微かな煙と共にキラキラと赤い光を帯びながら空へ舞い上がった。
さようならネガティブ思考、おかえりポジティブ思考。
空に消え行く光を眼に、俺は夜を迎える事になった。