10.ショコラ、新たな夢を見る。
フルミネに教えてもらった通りの道を歩いていけば、だんだんと亡国の王都が一望出来る丘が近付いてきていた。
あの時は二人を連れて何処か遠くに逃げることしか考えていなかったけれど、私達が森を抜けようと辿った道は、振り返ればこうして王都が見える道筋だった。
二人揃って過去に背を向けて、物凄く遠回りをしてから戻ってきた。つらいことも知ってしまったし、思い出さない方が能天気に、残念に生きていけたのかもしれない。だけど、私はこれが誰にとっても一番良い結果になったのだと思う。
不思議だ。何も聞こえていないのに、また誰かに声を掛けられた気がする。
一頻り周囲を見回しても誰もいない。でも気のせいだと放置して進む気にもなれない。どうしたものかと首を傾げていると、一陣の風が草原をなぜる。風圧が一ヶ所に集まった時、空から銀色のドラゴンが降り立った。
「ティエラ……?」
そのドラゴンは大きな翼を畳んで、蒼い光を散らせて、おおよそその大きさには見合わない小さな人型を形成していく。
「ショコラ! 捜したよ! 皆に捕まってたんだと思うけど、にーちゃんが待ちくたびれてそのまま植物になる勢いだよ!」
どういうことなのかさっぱり分からないのに、脳内には到底人型とは思えない程草木に馴染んで、それと同じもののように静かに、全く動かずに佇むエスの姿が浮かんできた。
やっぱり、私が道を間違えたせいで長い時間待たせてしまっているみたいだ。
「まあでも、にーちゃん忍耐力あるからまだまだ待たせても大丈夫そうだけどね」
さっきまでの一大事のような雰囲気は何処へやら、ティエラは悪戯げな笑みをする。
お陰で、すぐに行く、と返事をしようとしたのに喉奥で言葉が止まってしまった。
ティエラに、「よく考えた方がいいよ。本当に向かっちゃって大丈夫?」だとか、「行っちゃったらもう戻れない道だよ」なんて脅しを掛けられても、私は「うん、いいよ」と答えるばかりだ。
だって、何も怖いことがなくて。
ティエラが遠回しな確認をしてくれるのは、私のことを心配してくれているからだ。私が変だということは、今までに何度も皆から驚かれてきたから分かる。
でも、私は今からエスに会いに行ってもこの先絶対に後悔しない自信がある。
そんなことをティエラに伝えれば、試すようだった蒼い瞳が嬉しそうに、泣きそうにひしゃげていくから、私は慌ててティエラの頬を包む。
泣かせてしまったのかと思って。
「私はエスの隣にいられるなら、どんな役目を貰っても成し遂げてみせるよ。大変なのは分かってるから」
「…………ショコラ、それ、なんか違うかも」
泣きそうだったティエラの顔が、残念なものを見るようなそれに変わる。ティエラはそういう時、特にエスに似ている。
ティエラは私の手首を掴んで、そっと柔らかな頬を擦り寄せてくる。ちょっと難しい顔をして、「うん、でも……」「まあ、いいのかな」と考えていたけれど、暫くしてからほどけるように柔らかい笑顔に変わっていった。
「ショコラ、にーちゃんを選んでくれてありがとう」
深い慈愛に満ちた瞳はとても九つの男の子には出せない深みがあって、さすがはエスの弟だと思わせてくれる。
「にーちゃんはすっごく我が儘だよ。きっとショコラのこと、これから先も困らせ続けるし、嫌になる時も来ると思う」
でも、またにーちゃんのこと怒って許してあげてほしい。
付け足して囁かれたその言葉に、いつか私がエスに約束した台詞が重なった。
なら、今度はティエラとも約束をしたい。
そっと小指を差し出せば、ティエラは疑問符を浮かべながらも小さな小指を重ねてくれた。
「約束するね。私は、ティエラの大事なエスが間違えば、ちゃんと怒って必ず許すよ」
約束を交わして小指を切れば、ティエラは小さな白い頭を何度も頷かせてから俯いてしまった。
「じゃあ、エスに会いに行ってくるね」
顔を上げないティエラの頭を撫でて、私はその先を目指す。
エスが植物になってしまう前に見つけないと。
長い間、人の手を入れられていない草原に、エスの姿はあった。
あちこちが崩れて暗い土色をした亡国の王都を眺めている後ろ姿はとても儚くて、風に吹かれて水色の髪が揺れる度に掻き消えてしまいそうに見える。
「エス、遅くなってごめんなさい」
一言も発してはいけないような気になる空間に音を落とせば、その儚さは幻のように空気に溶けて風に浚われていった。
ただ私の方に振り返るだけの仕草も息を飲むほどに綺麗だ。久しぶりに蒼い瞳と視線を交わしただけで胸が高鳴る。
いつもならもう少しエスの表情が読めるのに、今日に至ってはダメだ。全くの無表情にしか見えない。
数日一緒にいなかっただけで分からなくなるなんて、まだまだ観察が足りない。
「いや、待てて良かった。迎えにいく度胸は持ち合わせがなかったから」
エスがまた難解なことを言い出した。
首を傾ぐばかりの私を見て、エスは相変わらず残念なものを見る目をした。ちょっと表情が読めなくなったからって、それだけは再会したての頃から分かる。
待ち合わせなんて珍しいとは思ったけれど、まるで本当は迎えに行きたかったみたいだ。久しぶりとは言え、私と会うのに度胸とかそういうものは要るのだろうか。
そんな私の考えはエスにはお見通しのようで、重ねて嘆息されてしまった。
何か私のことで心配事があるなら、私がエスの申し出を断ったりしないから大丈夫だと拳を作って言い切れば、「……お前は何でそんなに馬鹿なんだよ」と呆れられて、私は更に混乱することとなった。
馬鹿な私に理解させるのを諦めたエスは、本日の目的地を教えてくれた。
エスが真っ直ぐに見つめている視線の先――崩落したお城だ。
ここからはかなり距離があるから、歩いていくなら到着までにそれなりの時間が掛かる。エスは私の足を案じてくれているようだけど、もっと簡単に行ける方法があるのを私は思い付いた。
この数日、よくティエラにお世話になっていたから。
「エスの上に乗せてもらうのはダメなのかな?」
ドラゴンの背に乗ればそんなに時間も掛からないし。私の一つの夢、ドラゴンのエスに乗るのが叶う。
私はエスに触れるし、我ながら名案だと思ったのに、エスは僅かに目を見開いて固まっていた。
「えっと、嫌……? 私、ずっとエスに乗ってみたいと思ってて……」
「いいけど。……もっと言い方なんとかしろ」
率直な意見だったんだけど、何だか怒らせてしまったようだ。
既に疲れた空気を醸し出しているエスは、渋々といった様子で龍体を取ってくれた。
蒼い雪の結晶が輝いて形を成していく様はいつ見ても溜め息が出る程美しい。
陽の光を浴びて生ける宝石の如く輝く蒼い身体に優しく触れると、エスはまだ慣れていないせいか身を震わせて離れていく。
大丈夫だと示す為に何度も撫でてあげて、私が無事だとよく分かってもらってからゆっくりと跨がった。
遠目に見ると人型のエスと同じく細身なのに、こうして全身で触れてみるとそんなに細くない。
ううん、人型のエスも細身と見せかけて案外……ああ、うっかり恥ずかしいことを思い出しそうになった。頭を振って思考を追い出す。
金剛石のように七色に、高貴な光を放つ蒼い鱗に足を掛けて、石英のように聳える角をしっかりと掴んでから声を掛けると、エスは緩慢な動きで空へと舞い上がっていった。
ティエラの大きな身体の安定した乗り心地とは違って、エスの上は羽根に乗っているようだ。
軽すぎる浮遊感に慣れなくて何度かしがみつけば、その度にエスは私を気にして速度を緩めてくれる。
何とか慣れてきた時にはお城は目の前で、漸く目を開けられた先に広がる景色の美麗さに、エスと同じ視点で同じ景色を見られたことに感動した。
崩れて壊れているばかりじゃない。ちゃんとこの土地には水も緑もある。自然に見放されていないならきっと何とかなる。
人型の視界がどれだけ狭いかが分かる。その証拠に、空から見て感じた可能性に何処までも安心してしまう私がいた。
瓦礫の隙間に二人で降り立てば、当時ここに門が構えられていたのが想像出来た。
きっと大きな庭があったのだろう。折れ曲がっている金属の半円を見れば、ところどころにまだ枯れ草が巻き付いている。
壊れている噴水に、上から叩き付けられて剥がれた石畳。それだけでも地龍族の力がどれほどのものかが窺える。
十二歳のエスが、ティエラを救い出しながら作っていた盾が、どれだけの人々に希望を与えたのかも、私には分かった。
荒廃した庭をお互いに何も話さずに歩いている。
それでも、エルフの森を歩いていた時とは違う。私にも、エスの瞳にも、当時を思い出して悔やむ色は見つからない。
扉のない入口から城内に足を踏み入れれば、引き裂かれて色褪せた蒼の絨毯に靴底が沈んだ。
嘗ては柔らかな弾力があったはずのそれは、一度踏み締めるともうそのまま跡が残ってしまう。
階段は辛うじて残っているものの、壁や天井は崩壊していて、長年野晒しになっていた調度品は元の色も分からないくらいに荒れ果てていた。
廃墟となったお城にはもっと物悲しくて暗い空気が流れているんだと思っていたのに、そんなことは全くなかった。
何故なのか、今もまだ元のままであるように、荘厳でいて明るく映るのは。
エスの目にはどう映っているのだろうと半歩前を歩くその姿を見て、私は息を止めた。
荒れた廊下を歩いていたはずなのに、エスが歩く先を見れば、使用人や騎士の方々がエスを見て次々に深く頭を垂れていく。
そんな幻の光景が広がって、見間違いかと何度か瞬きをすれば消えてしまうその人々の笑顔から、今全て満ち足りたのだといった思いを感じた。
このお城は、もうずっとエスの、王の帰還を待っていたのだと。
幻の人々からそう受け取った私は、心の底からここにエスが帰ってこれて良かったと思った。
きっと、どれだけ大変な未来が待っていてもこの選択を誤りだと思う日は来ないだろう。
迷いなく進んでいたエスが、途中、他の部屋よりも比較的大きな部屋のあった場所の前で立ち止まった。
「ここが、アルバと初めて顔を合わせた場所」
お城に着いて初めてエスが口を開いたのに、私はその台詞に返せる言葉を持っていなかった。
王子様だったエスに宛がわれていたらしいこの部屋は、もう何処に扉が付けられていたかも分からない状態だ。歩き慣れた感覚でここだと分かるのか、エスは崩れた壁を撫でて至極優しい表情をした。
私にしてくれた話では、初めて会った日のことをすごく迷惑そうに語っていたのに、小さな頃のエスは今よりも素直じゃない。
その顔を見れば、エスがどれだけアルバさんを大事にしていたのかは一目瞭然なのに。
そんなエスにとって、初めて出来た大事な人に出会った場所に連れてきてもらえたことが嬉しかった。
アルバさん、ティエラに続いて、私なのだと言われているようで。
「お前の一方的な約束を果たしにきた。……俺の大事な人を、ちゃんと連れてきた」
喜びに胸がいっぱいになりそうだった時、ふと視界の端に蒼い騎士服を見た。
淡い光を纏い、景色を透過している蒼い騎士は、エスの斜め後ろに控えて立ち止まる。
最上の礼を取った騎士は、小さな男の子に接するようにエスの顔を覗き込んだ。
蒼の髪に私と同じ焦げ茶色の瞳で、大人になったエスよりも少し幼い顔立ちをしているその騎士は、エスを見て一等嬉しそうに、愛しそうに微笑んでから、蒼い光の粒になって空間に溶け込んでいった。
……ずっと、エスのことを見守っていたのかもしれない。
涙が出そうになって私は空を仰いで、一点の曇りもないその蒼に既視感を覚えながら堪えきった。
「九年も目を背けてきた。その分の遅れは大きいだろうな」
未来に待ち構えている、途方もない苦労をその瞳に映しているのか、エスの顔には早くも疲労の色が見える。
「大丈夫だよ。もうエスは一人じゃないんだから」
何の力にもなれないかもしれないけれど、私だって傍にいる。
少し自信がなくてそこまでは言えなかった。
九年間、立ち止まり続けてきたのはエスだけじゃない。
私も何もかも忘れて逃避していたし、あくまで無関係を貫いていたり、恨み続けることで後ろにばかり目を向けていたり、長い間責任に縛られていた皆もいる。
やっと時が流れ始めたのだから、悪いようにはならないと思う。今日会えた皆は、初めて会った頃よりも良い表情をしていたから。
「また一から全部やり直しになる立場で、未来に何の保証も出来ない俺が、この言葉に意味を込めてもいいのかまだ悩んでる」
いつになく真剣に見つめられて、走る緊張感に心臓が暴れ出す。
そんな顔をするのは反則だ。エスにそんな風に射抜かれて、胸が苦しくならない女の子は一人だって存在しないと思う。
「けど、今言いたい。俺は、お前と違って待たせるのは不得手だから」
そうやって表情を柔らかくしたエスは、蒼い瞳に温かな光を宿して、その形の良い唇を動かした。
「ショコラ、好きだ」
エスの声以外の、全ての音が止まる。
何の違和感もなく、確実に人型と同じ意味の込められた言葉に、情けなくも変な声が出てしまった。
ずっと、ずっとその言葉が聞きたかった。
もう何十年先でも待てると思っていたのに、その意味を私に思ってくれるようになるまで、私がエスを好きで居続けると決意して間もないのに。
エスは、本当に私を待たせてくれない。
「お前が許してくれるなら、俺はお前と命が尽きる時まで一緒に生きていきたい」
それだけで涙は零れていくのに、エスはまだ私にとって嬉しい言葉を紡いでいく。
エスが生きることを選択してくれた。その隣に私を置いてくれると言ってくれた。
まともな返事もままならないくらいに泣いてしまう私の涙を何度も拭って、いつまでも答えを待ってくれようとするエスに、私は今出来る一番の笑顔で、涙で上手く出せない声を必死に絞り出した。
「はい。私をエスの隣に居させてください」
頷いて見上げた先で、私は先程感じた既視感が何なのかを確信する。
あの日と同じだ。蒼穹の下で、エスを見上げて、際限のない希望を胸に抱いたあの日。
あの日と違うのは、エスはただ美しい無表情じゃなくて、困っているような、驚いているような、複雑で忙しい表情をしていること。
それから、微かに頬を染めたエスは、私に向かって嬉しそうに満面の笑みを見せてくれた。
ここからまた新たな夢が始まる。
今度は愛しい人の隣で、大好きな皆と共に。
本編完結致しました。最後までお付き合いいただきありがとうございました!
まだ続章の用意がありますが、ファンタジーとしての一区切りとして、こちらで一旦完結とさせていただきます。




