3.ショコラ、愛されている。
必死で語られる内容は、その世界に異物を繋ぎ止める方法――出産することや、エルフ族が種族の誇りからこの機に全てを無に返したいと、最強である龍族を駆逐して世界を再構築したいと願っていること、と私達が約九年の時を経て漸く得られたものばかりだ。
お母様とお父様は、それだけの過去を秘し隠していた。
話し終えたお母様は、小さく聞き慣れない言葉を口にする。
この世界の言葉とは思えない響きは、そこだけ雑音が紛れ込んでいて不思議な音になっていた。
続けて、「ただもう一度、あなたに会いたい」と切に紡がれた時、その言葉がお父様の名前であることに気付く。
この魔法陣は、すごく古い型のものだとベルクから聞いた。
だから、こうしてお母様が一生懸命に訴えかけようとも、お父様の元に声が届かない可能性が高かったはず。
映像が、魔法陣が床一面に広がっているものに切り替わる。
まだ書き込んでいる途中だったのか、白くて大きな手が世話しなく動いているのを見て、その複雑さに息を飲んだ。
言葉はやはり違うのか分からないけれど、幾重にも術式が重ねられている。私が龍族の皆から貰った指輪の元の状態のように。
菫色の髪が映り込んだ瞬間に息が止まった。
そうでなければ、あの日との辻褄が合わないのに。これが奇跡だと、運命なのだと思ってしまう。
漸く書き終えたのか、大きく伸びをしたお父様がお母様の名前を呟いて、「やっと見つけた」と嬉しそうな声で絞り出したのを聞いてまた目頭が熱くなる。
お母様がお父様の世界と引き剥がされてから九年。まだお母様のことを捜してくれていた事実に、小さな頃に憤っていた気持ちが申し訳なさと共に消えていく。
あれだけのことがあったのに、お父様は昔の映像と同じで朗らかに笑っていた。何というか、本当に強い人だと思う。
またエスが「……似てるな」と呆れた声で言ってきた。残念なものを見るような目でお父様を見ているエスは、幾らか柔らかい表情をしている。
欠け落ちていると思っていたのに、急に、お母様がお父様の話で、お父様はとても術式にたけていて全ての属性に適性があるすごい人だと自慢していたのを思い出した。
お母様の話通り、何だか難しいことを何とか私でも分かる程度に易しく説明してくれるお父様は、私と似た安穏な笑みをしているのに賢くてすごい人なのだと分かる。
『それにしても、僕達の間に産まれたのは女の子だったんだね。可愛いだろうね。……よく頑張ったね。本当にありがとう』
慈愛の象徴のような優しい笑みをするお父様。……お母様は、この映像を観られたのかな。
無理矢理に記憶を手繰り寄せて探ってみれば、惨劇の直前のお母様は死の淵に立たされているのを知っていたとは思えない程穏やかだったのを思い出す。
つまり、転移するにも時差があるのでは、と考えが行き着いた時、お父様もその話を始めた。
出来うる限り早く此方に辿り着きたいと、出来ることならお母様も救いたいと、そうしたら、三人で世界に嫌われずに暮らせる方法をまた一から探そうと、夢のような話を並べていく。
これが叶わなかったのかと思うと胸が苦しくなる。
それでも、私の心には誰かを憎むような感情は沸いてこない。……エルフ族のことも、相変わらず苦手だと思うくらいで、嫌いだとは思わない。
思わずそれを口に出せば、エスに「お前は……」と呆れられてしまった。
親子で大事な人に呆れられてしまうなんて、どこまで似ているのか。
『何より、早く君に会いたい。もう一度、君に触れたい』
魔法陣を撫でながら溢された言葉の甘さは、とても直前まで慈愛を湛えていたとは思えない程で落ち着かない気持ちになる。
私のお父様なのに、お母様だけじゃなくて私も心を奪われそうになってどうするのか。
きっと、お父様と一緒に暮らしていたのなら、女の子が幼い頃に言うと言われている、『お父様と結婚する』を私も言っていたに違いない。
私は相当赤くなっていたらしい。
エスが私を見下ろして目を細めていた。呆れているのとはまた違った意味が込もっているであろう視線から逃れると、強く抱き締め直された。
これは過去の映像だし、そもそもお父様だし、匂いも付いたりしないのにエスは何に突き動かされているのか。
『術式を幾つか考案したから、そっちに持って行くよ。君と娘に会えるのが楽しみだ』
また元の温かな雰囲気を纏ったお父様は、そう言って魔法陣の真ん中に躍り出た。
そこで映像が消えると同時に静謐な洞窟の中に戻される。私は一度深呼吸して、現実の冷たい空気を肺に入れた。
昔の映像は元々はお母様の記憶だけど、こうしてお父様がこの魔法陣を介したことによって、お父様の視点も混ざってしまっただけのようだ。
もう一度確認しに来て良かった。疑問の解消どころか、お母様とお父様のことをもっと好きになれた。
この術式を観たところで過去は変わるわけじゃない。理解すると共に深まった悲しみもある。だけど、悲しいことだけじゃない。
「また、落ち着いたら……ここに遊びに来たいな」
この術式はお母様とお父様が私に遺してくれた大事な記憶だ。
これからは私がずっと覚えていたい。二人が愛し合っていた事実も、私が今も間違いなく愛されている事実も。
「エス、付き合ってくれてありがとう」
やっと緩んだ腕の中でエスを見上げると、頬を撫でられて「また付き合う」と言ってくれた。
これにて本日の目標も達成されたから、後はエルフ族と遭遇してしまわないようにエス達の家に戻るばかりだ。
洞窟を抜けて、森に戻ると早くも日が傾き始めている。
やっぱり、この洞窟内の時間が乱れているのか、あの術式が現実の時間を少し早めてしまうのか。
「親っていう存在が何なのか、よく分かった」
帰路を辿りながら、エスが何処かに思いを馳せて言った言葉が、すごく感慨深そうに聞こえて嬉しくなった。
エスが感情をその心で感じただけ、優しい未来に繋がっていくはず。
もう、氷龍族は戦争を起こさない優しい種族になっていくと、私は信じている。
昨日から、夜になるとエスは私に寝台を引き渡してソファーに行ってしまう。
もしかして、私が言ったことを律儀に守っているのだろうか。……いっぱい、と口を滑らせただけで、少しなら嫌というわけじゃないのに。
二人きりの夜は、今日の次は何時になるのかもまだ分からないのに。
今日も「おやすみ」の後に立ち去ろうとするエスに手を伸ばして、服の裾を掴んだ。
本人は至って普通に、何か不備でもあるのかと聞いてきそうな真顔で首を傾ぐ。
……どうしよう。相手に全くその気がない場合、はしたなくならずに誘うにはどう言うのが最適なんだろう。
「あ、あの、エス……行っちゃうの?」
上手い言葉が何一つ出てこなかった結果、エスに察してもらおうとするみたいな、卑怯な言い回しになってしまった。
遠回し過ぎて意味が分からなかったのか、エスは濃い睫毛を瞬かせて考えているらしい。
「えっと、あのね、二人きりは暫くないし、前に言ったのもうっかりな部分があったりするし、私はその――」
頭の中はぐちゃぐちゃで、それを伝えようとする口はぐだぐだになっているのに、エスはそっと私の唇に指を当ててから、壊れ物にでも触れるように私の手を取って指を絡めてくる。
「一緒に寝る……?」
聞いた瞬間に腰を浮かして何かを逃がそうとしてしまう、肌を撫ぜるような声にたまらず何度も頷く。
それがそのままの意味でも、その、恥ずかしい意味でもいい。
まだ身の回りが静かな内に、エスの優しい体温に甘えていたいだけだから。




