8.ショコラ、思い出す。
灰色の街並みは見る影もなく、辛うじて草木が自生していた場所は萌木で溢れていた。美しい緑に囲まれたこの国は、数ヵ月も経てばきっと元の姿を取り戻すだろう。
城下を一望出来る丘の上で私は一人、覚悟を固めている。
龍族の皆が集まって何やら慌ただしく会議していたのは知っている。
その内容が今朝私にも伝えられて、束の間の時間を貰っているところだ。
右手の薬指に嵌まる銀の指輪を眺める。これも皆から貰ったもの。
転移用魔法陣と十人分の筆跡が刻まれた、小さな銀の板を渡された時は驚いた。
この先、別の世界に飛ばされてしまっても、必ずこの世界に戻って来られるようにと、この世界のものである証として皆が手ずから彫り入れてくれたものらしい。
全く読めない術式から叱咤激励の言葉まで、読んでいく程に勇気が湧いてくる数々。
思わず笑顔になっていたところで、「呪われてはいるが」とベルクが聞き捨てならないことを言うものだから、何か曰くでも付いた金属なのかと不安になって、エスを見上げると何故か目を逸らされた。
これには皆の『心』が宿っているから肌身離さず持っているように、そうベルクから告げられた瞬間、指輪に姿を変えた銀の板は私の手の内に収まった。
皆にはどれだけ感謝を伝えればいいのか分からない。
知らないうちに世界から拒絶されていた私と仲良くしてくれたこと。この世界に居場所を作ってくれたこと。皆のお陰でこの世界を好きになれたこと。
泣き出した時には皆困ったように笑っていた。
そして、もう一つの内容。全ての真相を明るみに出すこと。
この世界を脅かす、不穏な計画を企てている仮面の者達の正体を明らかにする。その為にも私が彼等を誘きだす餌にならなければならないこと。
洞窟内調査の日から、近い内に地龍の二人のどちらかが、そう確定して話を進めてくるだろうとは思っていた。
計画を立案したのはペトラで、「僕は嫌われ慣れてるからね。恨むならそれでもいいよ、妖精さん」と笑っていたけれど、きっと皆から反対されただろう。
皆は本当に優しいから、それが最良の手段だとしても、違う道を考えようとしてくれる。
ペトラはその龍の割合から人の心を濃く有している。だから、そんな役割は彼にはつらいはずなのに、わざわざその役を買って出てくれたペトラの気持ちを大事にしたい。
真実を知るのはやっぱり怖い。九年間、無意識の内に気が付かないようにしていた事実が目の前で本物になってしまう。
もう皆分かっている。私も、本当は知っていたのかもしれない。
時間を一日くれると言った皆に、一時間でいいと返したのは私だ。
覚悟なんてものは早々決まるものでもない。時間を貰えれば貰う程に逃げ出したくなるのなら、解決が早い方がいいのなら、なるべく早く実行した方がいいのは分かっていた。
私のことを心配して迎えに来てしまいそうな人もいるし、日が真上に昇りきるまでに戻らないと。
この国と亡国は地図上では隣接していて、過去の戦争を機に地龍族側が壁を作って隔てたのだとか。
ベルクは今から壁を壊す算段を立てているそうだけど、一朝一夕に取り壊せる規模でもない。
現時点ではその壁に作られた門を通るのが一番の近道になるらしい。それでも国から国へと渡るのだから当然時間は掛かる。
急ぐのなら二人が龍体を取って、私が背中に乗せてもらうのが最速になるはずだと、ティエラが提案する。
あの大きくて美しい銀龍の背に乗せてもらえるなんて! 真実を知る恐怖を押し退けて心も躍ってしまうような魅力を持つ話だけれど、私の体重が軽い方だとは言え、錘を乗せて飛ばせることには他ならない。
到着までにティエラを疲れさせてしまわないか心配でまごついていると、当のティエラは「ショコラの体重なんて羽根と同じでしょ? 僕はショコラが風に煽られて落ちちゃったりしないかだけが心配だよ」と、ごく自然に言って退ける。
この子は将来どれだけの数の女の子に夢を見させていくつもりだろう。
さすがに羽根という言葉を真に受けるわけにはいかない。負担になるのは嫌で決めかねていると、ティエラが私を抱き上げてきた。「ね、僕の怪力忘れたの? こんなの関係なく女の子は皆軽い生き物だと思うけどね」と囁かれて羞恥が限界に達した私は、首を振るだけの人形になったみたいにティエラの提案を飲んでいった。
地龍と雷龍の皆に見送られながら壁の向こう側へと発った私達三人は、まるで何もない、目印の一つも見えない景色に向かって風に乗った。
先導して飛んでいくエスの姿の美しさは筆舌に尽くしがたい。陽の光を受けて尚輝きを増す蒼い宝石は、速度を出しながらもたおやかに身体をしならせている。
それが虹のように七色に光を反射したり、雪の結晶を散らせてオーロラを出現させたりするのだから景色よりもエスばかりを見てしまう。
ティエラの背中は大きくて安定している。角を掴んでいれば落ちることはないだろうに、意識して私に直接風が当たらないように、極力揺れないように飛んでくれている。
その優しさが嬉しくてたまに頬を撫でるとエスと同じで喉が鳴っていたから、全てが終わったらまたドラゴンの二人を撫でてあげようと思う。
計画では辺りが見渡せる夕暮れまでに亡国の王都へと到着し、そこから少し外れたエルフの森に辿り着けば、後はあちらが仕掛けてくるのを待つだけになる。
亡国の王都自体、九年前から一度も見ていないから今はどうなっているのかも分からない。
発つ直前までエスは私の心配ばかりで自分のことは何も悟らせないようにしていたけれど、嘗てはエス達が守ってきた国なのだから気にはなっていると思う。
瞬く間に亡国へと到着したけれど、ある程度は片付いているものの、記憶とは全く重ならない景色がそこには広がっていた。
舗装されていた足下は無惨に抉り取られ、建物はほとんど崩壊していて、とてもすぐには人が住める状態になりそうにない。
統率者を失った土地には人影もなく、私が長年見てきた賊に近い旅人達の姿すら見られない。
遠くに見えるお城だったはずの建物は唯一の高さがあるけれど、それでも天井の一つも残されてはいない凄惨な状態だった。
ここに来て二人は何一つ言葉を発しないから、私も下手なことは言えなくて黙り込んでいる。
幼かったエスが守ろうとした国が、ティエラにとっても故郷になるはずの場所が、こんなことになっているのだから私からは何も言えない。
王都だった場所を横切って歩いていくと、焼け爛れて朽ちた木々が立ち並んでいる場所が見えてきた。
あの日の記憶が脳裏に蘇ってくる。黒い煙を上げて燃えていく故郷が、決して好きではなかったはずなのに悲しかった。
あの中をエルフ族の皆と逃げ惑って…………逃げ惑って? ううん、燃えている場所から離れないはずがない。そんな場所に長居したら死んでしまう。だから逃げて……逃げて……私は、私達は何から逃げていた?
おかしい。ある程度の予想は立ててきたはずなのに、記憶が私が思っていたものと全然違う気がする。
全く、違うような気がする。
頭の中が揺れる。眩暈がする。
過去に森だった場所の入り口に立った時、吐き気を覚えて私は立ち止まった。
思い出せ。思い出してはいけない。絶対に忘れていないといけない。
だって、
お父様とそう約束したんだから。




