6.ショコラ、抱き締める。
暗闇のせいか体感よりも時間が経過していたらしく、洞窟を抜ける頃には日が沈みかけていた。城を発ったのは午前中だったものだから、考えてみるとお腹が空いている。
晩御飯を楽しみに帰ろうとしたところで、墓石の近くに人影があるのに気が付いた。そして、何故かいる人影は、私の姿を確認するなり早足で詰め寄ってきて、その腕の中に閉じ込めてくる。
顔を確認するまでもない。一際安心する匂いで鼻孔をいっぱいにしてから、「寝てなかったの?」と問えば、怒る素振りを見せる間も無く「寝た。起きても帰ってきてないから迎えにきた」と返ってきた。
腕の中でエスの顔を見上げると、いつもの無表情が佇む白皙には血色が戻っていた。ちゃんと寝てから迎えに来てくれたらしい。
「いなくなったら嫌だから」
この場所自体は城からそう遠く離れているわけじゃないのに、エスの心配性がひどくなっている気がする。
呆れ半分で笑えば、一つ瞬きをして長い睫毛で瞳を隠してから、笑みこそ浮かべないものの優しく目を細めて反応を返してくれる。
私の存在が此処にあることを確かめるように触れてくる手の温もりも、よくよく見ていないと見落としてしまいそうな微かな表情も。
嬉しいけれど、あまり見つめ合っているのも恥ずかしい。エスにはやっぱりそういう感覚はないらしく、ひたすら真っ直ぐに私を映すばかりだ。
結局負けた私が目線を下に逸らした時、「ベルク様、何かこの辺り急に暑いですね。雄二頭寂しく帰りますか」「首を突っ込むのも野暮だ。御互い気付くまで精々やっていろ」と、二人が立ち去っていく足音が聞こえてきた。
本格的な羞恥が顔を熱くして、変な汗をかきながら胸を叩くと漸く解放してくれた。
かと言って嫌だったわけじゃないと、どうもエスには伝わりにくいみたいだから、胸に両手を添えて静かに額を預けた。
「二人が調べてくれたんだけど、私にはまだ時間があるみたい」
その時間自体がすごく曖昧なものだけど、少なくとも今はこうしてエスにしっかり触れられる。透過したりはしない。
疑問が残るとしたら、お母様の記憶の術式だとしたら、何故お父様の視点の記憶も混在していたのかというところ。私の記憶の欠如も、そこに繋がっている気がしてならない。
「それに、会えなくなることはないんだって。時間が出来て、どうしたらいいのかやっと分かったよ」
正しくは決心がついたというか、今までの覚悟では足りなかったものを補えた。
地龍の二人のお陰で、欲しかった答えは見つかった。ずっと『会えなくなるわけじゃない』という、気持ちの上では乗り越えられるか分からなかった確定が欲しかった。それがないことが怖かった。
今から考えれば、随分遠回りに辿り着いたように思う。
「なら、俺はお前を尊重する。やりたいようにやれ」
エスの優しいところだ。どれだけ私の我が儘に振り回しても、そうやって私のことばかり考えてくれる。仲間として申し分ない存在だ。
それが、一人の女としては少しばかり不満だったりするのに、まずお兄さんなエスはいつ気づくだろう。
ここからは本気でエスに向き合える。私がどれだけエスを大事に想っているか、伝える方法の一つを今使おうと思う。
「あのね、エスは、ドラゴンの姿だと、どれくらいの炎に耐えられる?」
急な質問にエスは訝しげに首を傾げる。
何を藪から棒に、と言いたくなる気持ちは分かるけれど、今したいことを実行するには大事な質問だ。
「龍族には元々耐火性が備わってるから、並大抵の炎属性だと何ともならない」
つまりは、私程度の魔力が生み出す炎ではエスはどうにもならないということだ。安心した。それだけ分かれば充分だ。
早速、龍体を取ってほしいと言えば、本格的に訳が分からないと、片眉を跳ね上げるエスの顔を見つめる。「お願い」と付け足せば、表情が僅かに困惑したものに傾く。
その優しさから、もう既に折れる気になっているであろうエスに、私はやろうとしていることを真っ向から伝える。
エスなら、絶対に頷かないことだ。
「ドラゴンのエスに触れたいの」
率直に伝えれば、エスは大きく目を見開いてから瞼をぎゅっと固く閉じ、「ダメだ」と首を降った。
勿論、一度のお願いで聞いてもらえるとは思っていなかった。エスは私が傷付くことはしたがらない。牙を刺す痛みから、生死に関わるものまで。何度か言葉を変えても、「無理」「諦めろ」「ならない」と秒速で叩き落とされて全敗に終わる。
さすがはエス、正直に手の内を見せた後ならどう言葉を飾っても無意味らしい。
「エス、私を信じて」
エスがこれだけ頑なに受け入れを拒否するのは、何か考えがあって言っていると分かっていながら、私を信じられないから。
そして、間髪入れずに断り続けていたエスが何も言わなくなった。無言の時間が続く。
「……万が一の時は、俺の寿命の半分をお前に渡す」
歯切れが悪い言い方ながら、エスは渋々折れてくれた。
今日はエスに無理ばかりを言って困らせたから、いっぱい伝えられるように頑張りたい。
御礼を口にしてその顔を見上げれば、エスは早くも淡い蒼の光を纏っていて、辺りに雪の結晶を散らせながらその身をドラゴンの姿へと変えていった。
「すごく綺麗……」
蒼く輝くその姿を前に、初めて見た時と寸分の狂いもない感想が零れ出る。綺麗だと言われた本人は相変わらず居心地が悪そうだ。
宝石の中でも一級品ばかりを集めたような高貴な身体を動かしているのを見ると、本当に生きているのが不思議になる。
あの時も、この身体の感触が知りたかった。純粋な好奇心からだったそれも、今となっては好きな人の全てに触れたいという、何処までも欲に満ちた願いに変わっている。
炎属性魔法と治癒魔法を混合させたもので肌を包み、両手を伸ばすとエスは身体を後退させた。
怖がるエスに「大丈夫。大丈夫だって分かるから」と微笑みかけると、覚悟を決めたのか彫像のように動かなくなるから何だか可笑しくなった。
まずは顔、一色ではとても表し切れない美しい肌にそっと触れて、熱くないかと問い掛けながら一撫でする。
氷とも水とも言えない、不思議な質感の触り心地の良さが掌に伝わってくる。硬さは思っていた通りなのに、こんなにも滑らかでひんやりと気持ちいいものなんだ。
両手で頬を挟んで、石英のように生えている角を掴んでみたりして、特に嫌そうな素振りはされないからと遠慮なく撫でていく。
「気持ちいい……」
堪能するのが掌だけなんて勿体無い。首に腕を回して抱え込んで、額に頬擦りするとさすがにエスは動揺した。
頭で私の身体を押し返そうとするけれど、まだまだ足りない。連なる鱗の美しい身体へと腕を伸ばしてその硬さを確認して、水晶のようにつるりとしたお腹にも手を滑らせる。
触る場所全ての感触が違って、何処もかも癖になりそうだなんて、見た目が何よりも美しいだけじゃないエスそのものだ。
人体だと何処に当たるのかは分からないけれど、ある場所を往復して撫で続けているとエスの喉が鳴る。
喉奥で息を転がす音を最初は気のせいかと思ったけれど、どうも気のせいじゃないと撫で回していると、思いっきり身体を押し返された。
再び蒼白い光と雪の結晶が辺りを包んで、人型を成したエスが真っ赤な顔をして私の両手首を掴んでいる。
今まで、目許を紅くしていることはあっても、ここまで頬を紅潮させているのは見たことがない。
エスの新たな一面を目に焼き付けていると、弱々しい声で「やめろ」と諫められた。
でも喉が鳴っていたと言えば、「俺の意思とは別」と返されてしまった。でも気持ち良かったんだと思う。撫でれば撫でるほどに鳴っていたから。
顔を真っ赤に染め上げたままのエスが可愛くて笑ってしまっていると、恨めしそうに睨まれてしまった。
「もしかして、あの時も知っててそのまま触ったのか」
継続して怒っているらしく、みるみるうちに私を見つめる蒼色が冷えていく。
凄むエスは息を飲むほど美しいけれど、そんなことを思っている場合ではなさそうだ。
「だって、あの時は耐火性のことは知らなかったし、エスが火傷したら嫌だったから」
「……は? 火傷?」
瞠目して訳が分からなさそうに声を出すエスは、続けて「仮に火傷しても、後から治せる」と至極尤もなことを言うんだけど、そうじゃない。そうじゃないよ。
「大事な人を傷付けたくないと思うのはいけないこと?」
「なら、俺はお前が死にかけてるところなんか見たくなかった」
「で、でも! 怪我させたら触れられても意味がないでしょ!」
「どう考えても俺への負荷よりお前の命の方が大事だろ」
今、いつか憧れた喧嘩をしているのだと気付いた。お互いの気持ちが同じ強さだからぶつかり合っているのを感じる。
やっぱり、帰ってくると意気込んでいても保証は何もないから安心出来ない、だから結論を出したくない、なんてずっと胸に抱えていた苦しさが確信へと変わった。あのままだったら、ダメだった。
本当に、今回二人の案内役を引き受けて良かった。
「うん、ごめんね。エス、大好き」
急に殊勝な返しをしたせいか、エスは目を丸くする。まだ言い返せただろう唇が固まり、行き場を失った声を飲み込んでから閉じたように見えた。
背伸びして髪を撫でる。さっきの延長だと思われたのか、不思議と撫でること自体は嫌がられない。
艶々でさらさらな水色髪の上に手のひらを滑らせると、無意識なのか気持ち良さそうに目を細めるのがどうにも愛おしい。
時々人型っぽくないエスも大好き。
最強の力と誰にも触れない身体を持って産まれたエス。隣に並び立てる存在がいないのだとしても、手を伸ばせる場所まで近付いてはいけないのだろうか。
世界はエスの孤独を望んではいない。何度も生まれ変わり君臨するだけの存在なら、きっとティエラは産まれてこなかった。私も、エスを見つけられなかったはず。
こうして私が触れられる場所にいられるのなら、この人はただの男性だ。私にとっては唯一無二の、何の肩書きもない『好きな人』だ。
「好きだよ。エスが、私にとって唯一無二の特別な男の人なの」
今、エスの心臓が大きく跳ねたような気がした。
髪を撫で下ろして、頬を包んで首に触れると、それが気のせいではないのに気が付く。明らかに早く脈打っている。
……エスも、ドキドキしたりするの?
聞きづらいから、口にする代わりにじっと見つめると目を逸らされた。
今までにエスの心音を気にしたことはなかったから、私ばかりが恥ずかしくて、エスはずるいと思っていた。
そうでもないのかもしれない。エスは、ちゃんと私と同じ気持ちになっているのかもしれない。
「唯一無二の特別なら、俺にとってのお前もそうだ」
そこに私が望む言葉はないけれど、あれだけ私の言葉が理解出来ずに苛立っていたエスが、ここまで人型に近い形で返してくれようとしているのが嬉しい。
私には新しい夢が出来ていた。全ての問題が解決してからでも、何年も経った後でもいい。
欲しいとか食べたいとか、そう言った強い気持ちを私に持ってくれているのなら。
エスに私を『好き』になってもらいたい。




