3.ショコラ、打ち明ける。
とある部屋の前に立っていた私は、ゆっくりと深呼吸を繰り返していた。
半狂乱になっていたせいもあり、あの後どうやって洞窟を抜け出し、地龍族の城まで帰ってきたのか覚えていない。エスが私を抱えて奔走していた記憶はある。
私が落ち着くのを見計らっていたのか、一夜明けてから偶然を装った風で出会したユビテルが、私が意識を失っていた時の話をしてくれた。
あの時、私は気絶すると共に全身が透け始めていたらしい。
エスはそんな私を抱きかかえて、何度も名前を呼びかけて、感触を確かめるように頬に触れていたそうだ。
傍で見ているだけでもそれが危険な状態だと分かるようになったのは、エスが私の身体を何度も抱え直し始めた時だったという。
普通であればしっかりと抱えているものが真下にすり抜けるなんてことはありえない。
背景を透過してしまう程に透明化した私は、実態がそこにあるのかも怪しい状態で、そんな私の存在を幾度となく探し続けるエスの姿はとても見ていられなかったと。
ユビテルはその後ろで、私達を見て泣き出してしまうティエラを抱き締めてやることしかできなかったと、私に向かって懺悔した。
自分が好奇心の赴くままに危険な場所に私を連れ出したこと、それから、それに対する対処法を持ち合わせていなかったこと。重ねて謝られたけれど、知りたいとついていくことにしたのは、勝手に魔法陣に触れたのは私だ。ユビテルは何も悪くない。
それでもユビテルは顔を青くしたままで、私の言葉を受け取ろうとはしなかった。
以前にユビテルに話した夢の話を話すべきか悩んで、エスの部屋の前に立っていた。
私の身体がこの先、お母様と同じく透けて消えていくかもしれないという話はユビテルしか知らない。だからこそ、昨日の出来事はエスもティエラも驚愕したと思う。
仲間なのだから、本当はエスに一番に伝えておくのが正解なのを知っていて、言い出す時期を逃し続けて今まで流していた。
私は現時点でこれだけの手札を持ちながら答えに辿りつけていない。『あっち』で私を産めていたら可能性があった、とお母様が言った根拠も分からないまま。
でも、このまま何も告げずにこの世界から消えてしまったらきっと後悔する。それくらい分かっていた。
怒られる気で決心を固めていたら、いつの間にか夜になっていた。誰も歩いていないくらいの時間になると廊下は少し冷える。
意を決してノックをする。こんな時間に来てしまったのは私の臆病さだ。返事がなければ明日にしようと言い訳出来るのだから。
「エス、起きてる……?」
夜だからと音量を最小限に絞ってもそれなりに響く。声を出したのはほんの少しの勇気だった。
しんと静まり返る空間に安堵しそうになっていた直後に扉は開かれた。真上から視線を感じながらもなかなか顔を上げられなかった。「どうした?」と思いの外優しい声が落ちてきて、やっとエスの顔を見上げる。
「こんな時間にごめんなさい。幾つか話したいことがあって」
立ち話で終わらない切り出し方をすれば、エスは蒼の瞳に困惑と迷いを映してから、渋々といった具合で私を中に招き入れてくれた。
ソファーへと促されて腰かけると、エスは私に毛布を羽織らせてから距離を取って隣に腰を下ろした。
さっきから「ありがとう」と「ごめんなさい」ばかり口にしている。どちらも選び間違えるとエスは嫌がる言葉だけど、そう言えば、いつからエスは私にそのことで怒らなくなったんだろう? どこから話すべきかと悩んでいると、別のことばかり考えてしまう。
まずは直近のことからだ。意識を失っている間のことをユビテルから聞いたと切り出せば、エスにしては分かりやすく苦い顔をする。
目を覚ました時のエスは青褪めていたし、あの時は私も半狂乱になっていたから、思い出すと嫌な気持ちになるのだろう。私だって、あんなことは金輪際御免だった。現状では、拒むのは難しいと知っていても。
それから、意識を失っていた時に見ていた誰かの記憶の話は、ここで初めてする。仮定とするには確定に近すぎる、両親の記憶はさすがのエスも眉を顰めながらも静かに聞いてくれていた。
そして、ユビテルにだけ話していた夢の話、欠け落ちていく記憶、既に消えてしまった記憶、ユビテルの見解、続けて告げていけば、エスは考えていたことが繋がった、というように納得しながら頷いていた。
小出しに得ている情報では、私は答えを導き出せずにいる。勢いで話したユビテルですら頭を抱えていたのだから、今全ての情報を一度に渡されてもエスは困るはずだ。
「今まで黙っていて本当にごめんなさい……」
「いや、あいつの言葉といい、何となく察してたから別に良い」
あいつ……ユビテルから何か言われていたの?
何故早く言わなかったのかと諫められてもいいのに、それを覚悟してきたのに。エスは落ち着いた様子で、いつも通りの無機質な声で淡々と返してきた。思わず拍子抜けしてしまう。
話を整理しているのか、考え込んでいる様子のエスの横顔を眺める。状況も考えずにただ、綺麗だな、なんて思ってしまう。
たとえ『あっち』に飛ばされても、何としても戻ってくるつもりでいても、暫く見られなくなってしまうのなら、見られる時に見つめていたい。
瞬きの度に揺れる濃密な長い睫毛が蒼玉を覆い隠すだけの動きまで息を飲むような美しさで、私はこんな綺麗な人に烏滸がましくも恋をしてしまったんだと、今更なことを思う。
僅かな変化も見逃さないくらいにじっと見続けていると、エスは居心地が悪そうに眉を寄せて「さっきから見過ぎ」と切り捨ててきた。
「ここにエスがいるうちに見ていたくて」
言葉選びが悪かっただろうか。部屋に入れてもらってから初めて私を見たエスが、困ったように形の良い眉を下げる。不安が蒼色の中で渦巻いている。
何も言わずに見つめ返していると、不意に頬に手を伸ばされて摘まんで引き伸ばされた。「いひゃい」と情けない声を上げると早々に解放される。
「まだ、ちゃんとここにいるな」
消えるのが怖いのは私だけじゃないみたいだ。
存在を確かめるならもっと優しく触れてくれた方が嬉しいと詰め寄れば、エスは何やら視線を右往左往させるのを見て、今更ながら自分の状態に気が付いた。
怒られる覚悟に時間を取られていたとは言え、夜に寝間着一枚で男性の部屋を訪れている。
私の湯冷めを気にしてくれたのもあるだろうけれど、エスが毛布を掛けてくれた理由が分かった。昨日のことを思い出して顔が熱くなる。
エスから身体を離して、改めてエスの方を向いて座り直す。
「このままこの世界からいなくなったとしても、絶対にエスの元に帰ってくるよ。約束する」
いつかエスが私に約束してくれたように、私も自分の心に誓う。
不思議なことに本人に伝えるだけで勇気が湧いてくる気がする。初めてしたけれど、約束は自分の為にするものなのか。
勝手な約束を取り付けられたエスは、何処か呆れたように私を見下ろしていた。「何で」という私の方が疑問を抱く返事を貰った時、私はあの時にエスに気持ちを返せていなかったことを思い出す。
何であそこで口ごもってしまったのか、今はっきりとした後悔を手に取って、悔やんだところで失敗したものはどうしようもないのだと投げ捨てる。
思えば、いつから口にしていないのだろう。
エスを一人の男性として想っているのに気付いた時からだろうか。夢の中では思う存分ぶつけたこともあるけれど、本人を前にしては本当に久しぶりだ。
「エスが好きだから」
こんなに照れる言葉だったのか。エスが固まったのを見たと同時に恥ずかしくて笑ってしまう。
エスには正しく伝わらないのだとしても、今日は言わずにはいられなかった。
恥ずかしいからもう逃げてもいい? 立ち上がっても何の反応もしないエスを置いて、「おやすみなさい」と声を掛けてから私は部屋を後にした。




