1.ショコラ、切なくなる。
エスの長い睫毛が持ち上げられて、その瞳が厭に妖艶な光を湛えていると思った時には唇に噛み付かれていた。
隙間から滑り込まされた舌にすぐに捕まえられて、逃げられないように追い立てられる。何だか前よりも上手くなっているような気がするのは気のせいだろうか。こういうことって、上手くなることに上限がなかったりするんだろうか。
舌が擦れ合う度に背筋が震えて息が抜ける。
私が何も返さずに黙り込んでしまったから、こんなキスに繋がったのか、何処か不安げで、項を掴んでいる手は縋るようで。
噛み付かれた時はもっと乱暴にされるのかと思っていたけれど、下手なりに一生懸命応えようとしていたらいつの間にか愛でるような形に変わっていた。
激しさこそないのに、その優しさが優しくなくて溺れてしまう。苦しいのにやめてほしくない。もっと欲しい。
私が逃げないことに気が付いたらしいエスが息継ぎをさせてくれる。
「ん、はぁ……えす……」
二回目の深いキスで疲れた舌は全然回っていなくて、子どものように舌足らずに名前を呼んでしまった。間近で濃密な睫毛を瞬かせているエスの喉仏が上下するのが見える。
エスが私を求めてくれるのなら本当は手放しでもこの腕の中に飛び込んでいきたいのに、私の体内を巣食う違和感はあと少し待てと警鐘を鳴らしている。
それが待っても良い結果になるかは分からない。でも、私はエスの側で生きていく未来を諦めない。この違和感が何なのかだけは確かめておかなきゃいけないと思う。
もう、近いからこその違和感だと思うから。
濡れた唇が再び触れ合う。恥ずかしいのもだんだん麻痺していくのか、エスの唇の温かさに安心感すら覚えるようになった。
ぎこちない動きでエスの下唇を食んでみたら、やっぱり恥ずかしかったからやらなかったことにしたい。
「んんうっ!」
調子に乗ったのが悪かったのか、舌を引っ張られたかと思えば浅く牙を突き立てられて驚きに身体を跳ねさせてしまった。微弱な痛みの後に襲い掛かってくる甘さに酔いそうになる。
自分の血が混じっても甘く感じるなんて、私は変態なのだろうか。唇を柔く挟まれたり、歯列をなぞられたり、舌をなぶられたり、もう何をされてもその都度身体を揺らしてしまう。
無意識にエスの脚に太腿を擦りつけていたのに自分で気が付いて、馬鹿みたいに込み上げてくる羞恥に身体を離そうとすると腰を捕まえられた。
口が離されたかと思えば、いつの間にかリボンが解かれていて首元が解放されている。
なんで、そう聞こうとするよりも先にエスの唇は輪郭を滑って首に降りて、鋭い牙でそっと首筋をなぞっていく。
「っ、くすぐったい」
何処に噛み付いてやるか、狙いを定めるその動きに身を捩ると、一度牙を仕舞ったエスの唇が鎖骨を啄んでから滑らかな舌で舐める。
甘い感覚が背筋を駆け上がって、何度も堪え切れずに声を漏らしてしまっていると、エスは唇でブラウスのボタンを外し始めた。
「あ、あの……っ」
一つ、二つと器用にボタンを外していく器用な唇はそんな動きをしても尚綺麗に見えて、何をされているのか分からなくなってくる。その光景をただ見つめていることしかできない。
混乱を極めているせいで大人しくしているしかない私は、自分がそのブラウスの下に薄い下着一枚だけしか身に着けていないのを思い出した。
服の構造上覆い隠せるような肌着は着られないからと、誰にも見られたりしないはずだからと、肌が透けない程度のものしか着ていない。
胸の谷間にエスの鼻先が触れて小さく跳び上がると、次の瞬間には唇が押し当てられる。
何度か胸元に口付けて、ふくらみに向けて唇を移動させようとしているのに気が付いた私は、極度の恥ずかしさに耐えられなくなって思わずエスの艶やかな髪をぎゅっと掴んだ。
ぴたりと動きを止めて、それから見上げてくるエスの顔が何だかぼやけて見える。
いつの間に泣いていたのか。私の顔を見たエスは一度目を見開いてから蒼い瞳を揺らした。
怯え、だろうか。いきなりの流れがちょっと怖かった私より、エスの方がずっと怖がっているようなその目を暫く見つめていると、「ごめん」という一言と共に腰を掴まれて軽々持ち上げられて、隣にゆっくり下された。
「悪かった。泣かせるつもりなんかじゃ、なかった」
エスは膝に肘を付いて頭を抱えて懺悔する。
決して嫌で泣いてしまったというわけじゃなくて、困惑が振り切ってしまって気が付いたらといった感じだった。これをどう説明すればいいのか分からない。ブラウスのボタンを留めながらエスの隣に座り直す。
改めて腰掛ける私の動きにまで肩を揺らすエス。気を遣っているのか、私から少し距離を取る。
やめてもらえた私はもう全然恐怖は感じていないし、何故エスがここまで消沈しているのかは分からない。……物凄く恥ずかしかったのは間違いないけれど。
「あのね、さっき泣いちゃったのだけ誤解してほしくなくて、ちょっとは怖かったけど、それはエスが、じゃなくて」
この何とも言えない感覚をどう説明したらいいのか。私の方を見ているエスは何となくぽかんとしている。何となく止まりなのは真顔の域を出ていないからだ。
私がおかしいからかもしれないけれど、私もこういう時はどういう感じでいたらいいのか分からない。だって、エスに触られるのが嫌というわけじゃないし、心の準備はいると思うけど受け入れてみようという気持ちはある。
とは言え、ついさっきエスを拒否するような反応をしてしまったのは事実だ。
どう誤解を解けばいいのか。
思案している私を、エスはあちらの方を向きながらも静かに待っていてくれた。
「知らないことが怖いだけなの。エスに触れられるとお腹の奥が凄く熱くて、どうにもならなくて、何て言うんだろう、切ない……」
……何だか、物凄く恥ずかしいことを言っている気がしてきてだんだん言葉尻が小さくなっていく。
少しばかり声を抑えたところで、静かな洞窟の中では聞こえてしまうのだけれど。
言い切った時には何故かエスは立ち上がって私から距離を取っていた。
こちらを振り返ってくるエスの表情は何処と無く悩ましげで恨めしそうで、あまり長く見ているとその不思議な色気に飲まれてしまいそうな程熱っぽい瞳をしていた。
やっぱり、私が言ったことは恥ずかしいことだったらしい。
「えっと、その、もう少し待ってて。私は、エスとそういうこと――」
「っ、もういいから!」
私は、エスとそういう、恥ずかしいこともしたい。
そう伝えそうになったのを遮られて我に返る。あ、危なかった。今のは本心だけど、今の段階で伝えてしまうとただ残酷なだけで、いたずらに煽るだけの結果になるのが分かっていた。
それなのに私は、今の瞬間、我慢出来なかった。エスが欲しかった。
見上げた先のエスは目許を赤くして私を睨み付けてから、逃げるように歩いていってしまう。
苦しそうに眇められた蒼の瞳にはまだ熱が燻ぶっていて、あとほんの少しでも揺さぶれば決壊してしまいそうだった。私はもう少し男心とか、ドラゴンのこととかしっかり勉強した方がいいよね。
エスに少しでも多く伝わるようにと、直接的な言葉を選ぶのは時に良くないのかもしれない。
首元のリボンを結び直してエスの元に走る。
ちょっと待って、なんて言いながらエスに手を伸ばした時、気のせいであってほしいけれど、この指先が透けたように見えた。




