10.ショコラ、魔力を移す。
黒く塗りつぶしたような暗闇に目が慣れるまでに時間がかかっていた。
エスはこんな闇の中でも目が見えるのか、的確に私の身体を抱き締めてから、頭や肩を撫でて、大丈夫か、怪我はしてないか、と聞いてくる。
それに何度も頷きながら、気のせいではない事態に私は唇を震わせていた。
エスが、片腕しか使っていない。
寒さで震えているような声になりながらエスの名前を呼び、何とも温度のないいつも通りの返事を受け止めて、おそるおそるエスの左腕に手を伸ばす。
まだ全然見えないから、胸に手を着いて、肩まで撫で上げて、息を飲んで下っていく。確かめるように掴んでみると、ちゃんとそこにあるのだから、安心出来たようで安心出来ない。この嫌な予感は一体何を差しているのか。
「エス、こっちの腕は……?」
震えが大きくなる私を安心させるためか、エスの右手が私の頬を包み込むように柔く撫でてくる。返事はない。
いつもなら特になんとも思わないエスの無言がどうにも恐ろしくてそのまま肘を下り、手を握る。ぴくりとも動かないどころか、人形のようにされるがままの状態に、息が荒くなる。
「エス、さっきの、音、どこの、何の音?」
「……そっちの肩、打った」
やっと見えるようになってきた視界の中で、エスは私を抱え込むようにして固い地面から私を守っていた。
一見何ともなっていないように見える肩に手を翳して、治癒魔法を唱える。やっぱり、私はこの空間でも魔法が使えるらしい。
エスはそんな私に驚きつつも左腕を動かそうとはしなかった。握っていた手も握り返される気配がない。これは、もしかして中がおかしくなっているのだろうか。私の魔力程度ではどうにもできないことになっているのだろうか。
結局のところ、エスは「ここから出たら治す」と、私からはこれ以上の施しを受けようとしなかった。
私達が落とされた場所は、先程までの光る草花が自生している道とは全く違う、真っ暗闇の中だった。
エスは私が落ちる時にわざわざ一緒に落ちようと、……私が頭を打ったりしないようにと、私の頭を抱えて落ちた。本来、落ちるのは私一人のはずだったのに。
こんなことになってしまって申し訳ないのに重ねて、私はこの場所に一人で落ちたら出るまでに気が狂ってしまったと思う。それくらいに道は暗く、手で壁を確認するととても狭い。どうやら天井も低いのかエスは屈んで歩いているようだ。
「もし、ここから出られなかったらどうしよう」
そんなことにはならないように頑張るつもりなのに、口から出た呟きは弱々しい不安に満ちたものだった。
こんなことを聞かれてもエスは困ってしまう。その時はどうしようもないのだから。
「その時はその時だろ」
エスらしい冷静な答えが返ってきて、思わず小さく笑ってしまった。
エスの言う通り、今考えることじゃない。その時になって考えることなのに、弱気になっていられない。
まるで子どもにするように私の頭を軽く叩くように撫でて、梳くように指を滑らせたエスはそのまま私の頭を引き寄せる。
「出られなくても、俺はお前がいるならそれでいい」
言葉の意味を理解する前に顔が熱くなってくる。
エスは、私を励ますにしても何を言い出すのだろう。そんな風に言われたら、最悪私と二人きりになっても生きていけるとでも言われているみたいだ。私の頭の中が飛躍し過ぎなのかな。
最近のエスはおかしい。だって、もっと、うざいとか、気持ち悪いとか、尤もなことを言われていたはずなのに、どうしてこんなに優しいのか。
優しいのが嫌なんじゃない。エスは少し冷たくあしらう程度でちょうどいいのに、あまりにも優しいと本格的に私の心臓が持たない。
「あ、あんまり、優しくされると困る……」
頭から蒸気を出してしまいそうになって、逃げるようにエスの手から逃れた。
今、一本しか使えない大事な腕を私の頭を抱えるのに使い続けてもらうわけにはいかないし、これ以上長く触れられているとどうにかなってしまいそうだったから。
暫く狭い道を進んでいると、少し広い空間に辿り着いた。
上で見たものと同じ光る草花に、湧き出ている泉。ほのかに蒼く光る水の美しさに目を奪われながらも、隣にいるエスの姿を確認すると、どうも力の入っていない片腕が目に入ってきた。
視界が良くなると現実が迫ってくる。私のせいで使えなくなっている腕が痛々しく見えてたまらない。
周辺を隈なく見てみたところ、罠も無さそうだし、何の生物もいない。まだまだ出口は遠いみたいだけど、水があれば少しは休憩できる。
水底から仄明るい光がぼんやりと見えるのは、下に光る草花が生えているからだろう。水の中まで咲ける万能な植物ならば、万能薬にでもなってくれればエスの腕を治せるのに。
不自然にぶら下がる腕を庇う仕草をするエスを見ると、出来るだけ早く治してあげたいと思ってしまう。その為にも早くここから出なくちゃいけない。
冷静にならないと。冷たい水に手を浸して、掬い上げること数回。私は思い付いてしまった。
でも、でも、いくら何でも恥ずかしすぎる……。早く外に出られれば、エスは自分で腕を何とかできる。そんなことは分かっている。それがいつになるかは分からない。
なら、やっぱり、早い方が良い、と思う。
「エス、あの、ちょっと、そこに座ってもらっていい?」
私に思い付いた行動をさせる手助けをさせるかのように、ちょうどいい高さの平らな岩があったりする。
首を傾げながらも、私の言うことに頷いて座るエスは、「で?」と言いたげに私を見上げて次の言葉を待っている。
どうして、ここでエスも素直に私の言うことを聞いてしまうのだろう。
エスが「何で」と不審がってくれることに一縷の望みを掛けたのに、これじゃあもう、やるしかなくなってしまった。勿論、エスの腕が動くようになってくれるならそれが早いに越したことはない。
でも、座らせたはいいとして、……どうすればいいの?
隣に座って……ダメだ、回り込むのに距離が出来すぎている。だからと言って、立ってもらうと背の問題で届かない。
右往左往としている私を、エスはいい加減呆れた目で見てくる。腹を括るしかない。こんなに恥ずかしいことは、生きているうちに何度もないことだよね。そうだと思いたい。
早くも熱くなる頬を冷やしたばかりの手で包んで冷まそうとしたけれど、早くも手は熱を持ってしまっていて、私の行動は無駄に終わった。手がもっと熱くなっただけだった。
「お、お邪魔します……」
エスの前で向かい合った私は、緊張で震える手でエスの肩に両手を置き、片足ずつ岩の上に乗せた。つまり、エスの膝の上に跨っている状態になっている。
普段ならそこまで表情の変化のないエスもさすがに驚いているようで、目を見開いたまま固まっている。
エスの目は綺麗な顔にしては珍しく、瞳孔自体が大きくて、よくよく見れば可愛い寄りの顔ではある。
そんなエスも目を見開けば、白目の部分がよく見える。白目まで青く澄んでいて綺麗なのかと、暴れている心臓のことすら忘れて息を飲んだ。
「あ、あのね、やっぱり早く治してあげたくて、だから、その、目、閉じて欲しいな、なんて」
何を言っているのか、自分でも意味不明だ。エスはここから出られれば治せると確信しているからこそ落ち着いているのに、私はそれを待たないと言っている。
エスの反応が返ってくるまでが一番怖い。だけど、エスは何も言わずにただひたすらに驚き続けていた。私が、こんなことをすると思わなかったのだろう。
いつもなら逃げてばかりいる私が、自分からこんな恥ずかしい真似をするとは思わなかったのだろう。
力の入っていない方の腕を持ち上げて、手を握る。
その手が温かいことに安心しながら、またエスと目を合わせる。暗い洞窟の中ですら美しく光を放つ蒼い瞳は、いつの間にか普段通りの無を湛えて私の行動を見守っていた。
白磁の頬に手を添えると、エスはゆっくりと瞼を下した。長く濃く整列した睫毛が少し震えたのを見た時、予想外のことに緊張しているのは私だけではないのだと安心した。
それから、私からされるのが嫌ではないと知って、嬉しかった。
形の良い唇を親指で撫ぜてから、そっと口付ける。
私は、エスに口移しで魔力を移すことを思い付いていた。今、この場で魔法が使えるのは私だけ。この方法なら、大抵のことは治癒させることが出来るはずだと。
軽く触れるくらいでは引き渡せないようだ。肩を掴んでいる手に力が入る。
今で充分限界だった。もう恥ずかしいという段階は超えてしまっている。何とか決心をつけて、エスの唇を食んで割って、その隙間から流し込む。
動かない腕に回り切るようにと願いながら徐々に入れていった。
もう、私の体温のせいか、唇が熱くて仕方ない。
それに、魔力を移すこと自体は簡単だとしても、継続させるのがつらい。苦しくなって口を離し、エスの腕を見てみるけれどまだどこか不自然なままだ。
ざわめいている魔力と乱れた息を整えて、気を取り直してもう一度、と顔を上げたけれど、やっぱり無理だ。
エスは、なんて熱っぽい目をしているのだろう。蒼はこんなに熱そうな色だっただろうか。ここにもう一度なんて、どれだけの勇気が必要なのか。
あ、だの、う、だのと変な音ばかりを口の端から零している私を、せめて残念なものを見るような目で見てくれたのなら救われただろうに。エスは静かに私からのもう一度を待っているだけだ。
恥ずかしい、の上の感情に当てはまる言葉はないのか。何とか唇を合わせて魔力を送る。
大人しくそれを受け止めているエスは何を思っているのだろう。こんなに恥ずかしいことを自ら提案して、実行に移す私を馬鹿だとでも思ってくれていると少しは楽になれるかもしれない。
また苦しさが込み上げてきたところで、エスの動かなかった方の手が私の手を握り返してくれた。
慌てて口を離してその手を見下ろすと、しっかりと握られているから間違いない。私の魔力の口移しはちゃんと成功した。
エスの腕が動くようになったことが嬉しくて、先程まで感じていた恥ずかしさも忘れてエスに笑いかけようとした時。私の手を離したエスは、動くようになったばかりの手で私の頬を撫でて、髪を一房摘まんだかと思えば、掬い上げるようにして唇を重ねてきた。
「っ……!」
唇を割られて驚きに顔を離す。すぐ下から見上げてくるエスの瞳孔は縦に裂けていて、妖しい光を孕んでいた。
人型でありながらもっとずっと気高い、神に選ばれた美しい存在だということを改めて実感せざるを得ない美貌に息が止まる。形の良い唇から赤い舌を覗かせているせいか、左右対称に生えた牙の先端までも確認できる。
なんて、攻撃的な表情をしているのだろう。
裂けていた瞳孔がスッと円を描くときには仕舞われてしまったけれど、ついさっき、あの舌が私の口の中に入ってこようとしていた。
大分遅れて羞恥に見舞われた私は顔を反らそうとして顎を掴まれる。
「嫌?」
なんて声で、なんて聞き方をするのか。
お腹の底にまで響く低くて甘い問いに、嘘でも頷ける者がいるのか。
「嫌、とかじゃなくて、こういうのは、ダメだよ。人型だと、口に口を付けるのは――」
顎を掴んでいた手が項に回って、髪に差し込まれたかと思えばまた口付けられる。
さっきとは違う。頭を押さえられているから顔を離せない。逃げられない。こんな風に、私の意識がはっきりしている時にするキスはダメだ。
あの時のキスも魔力の口移しじゃなかったら、あの時のキスも酔っていた時の夢じゃなかったら。
だったら、私はどうすればいいの?
ぐるぐると考えているうちにも、角度を変えられたと同時に舌を差し込まれて思考が溶けていく。
嫌じゃないなら受け入れてしまえばいいのに。ちゃんと拒否しなきゃいけない。相反する考えが、脳が正常な判断を下す前に掻き消えてしまう。
柔らかくて滑らかな質感に蹂躙されていた舌が解放されて、濡れた唇同士が離れる。
「ちゃんとわかってやってる。今も、あの時も、そうしたいと思ってこうしてる」
息が止まった。鼻先が触れ合うくらいの距離で、囁かれた言葉の意味が分からない程無知ではないと思う。
至近距離で見つめ合った蒼い瞳が私だけを映して揺れている。
開こうとする唇が固まる。返事をする為に声を出そうとする喉が詰まる。
私も、私もエスじゃなきゃこんなに恥ずかしいことをやろうなんて思わない。好きな人じゃなきゃ、助けてあげたいと思わない。
今ここでエスにそれを伝えたらきっと、エスにも言葉の意味が伝わるのだと分かっているのに、声が出ない。
恥ずかしくて言えないとか、そんな問題じゃない。私の中で、何かがまだダメだと警告している。
重ねて臆病な私には、私も同じだと、エスのことが好きだと言えなかった。
私の返事を待っていたエスの瞳が長い睫毛と共に伏せられる。
開こうとした口を閉ざした私は残酷なことに、エスの寂しそうな表情に気付かない振りをした。




