◎7.エストレア、心の内を吐き出す。
隠しもしていない魔力に気付かれるのは時間の問題だった。
暗くなった空に大きな月が昇っている。淡い光を反射した金糸の美しさは例えがたいものだと、エストレアは暢気なことを考えながら鋭い青の瞳が振り向くのを待っていた。
「これ、殺す気か?」
頭の中はいつもと変わらない。ただ冷静に物事を見て判断するだけだ。それが、心というものは厄介で、無意識に張り巡らせている膨大な魔力はたった一頭を狩る為にしては少々度が過ぎたものだった。静かに魔力を仕舞って男の前に歩み出る。
「お前は何がしたいのかよく分からねーやつだな。怒りすら覚える。何で、欲しがらねーのか。全く理解できねえよ」
何もしないのはエストレアにとって美徳なのかもしれない。しかし、見る者によってはその姿が傲慢に映るのだと。
金糸の髪を掻き上げた男がそう続けながら、剣の柄に手を掛けるのを見た瞬間、エストレアは氷の剣を創り出して重い居合抜きを受け止めた。魔法だというのに刃毀れを起こすのではないかと危惧する程の威力に驚きつつも、弾き返して距離を取る。
王の護衛騎士ならば、剣を抜いたと同時に敵を仕留められなければならない。不測の事態にこそ力を発揮するのが彼らの仕事だと、幼い頃の記憶を引っ張り出しながら、ついでに約二年しか習っていない剣の型を思い出す。
「どれだけ欲しがっても、あいつは俺を望まない。当て馬にすら不足だよな。なのにお前は、手に入れられる立ち位置にいながら欲しがらない」
腹が立つに決まっていると。怒りを携えた剣の重みを受けるだけで精一杯とは、自分のことながらどうしようもない恰好の悪さだ。
エストレアは自分が剣でこの男に勝てるわけがないと分かっていた。握っている年数も、その力で守ってきた者の数も違う。奪うことしかできなかった自分では、正義の剣に勝てるはずがない。
「鬱陶しいことこの上ねーよ! 動物風情がいつまで紳士気取りだ。それともただへたれてんのか? お前はずっと逃げてきただけだもんな。すかした面見てるとイラついて仕方ねえ。要らねーならさっさと寄越せ!」
刃に落雷して辺りが明るく照らされる。熱を帯びた剣がこちらの氷を溶かして折ろうとしてくるのを、更に結晶を纏って振るい飛ばす。
「欲しいに決まってるだろ!」
黙って聞いていれば言いたい放題言ってくれるものだ。ざっくばらんで飾らない言葉選びはこの男の美点だが、同時に単細胞であるのがよく分かる。その言葉に乗ってしまう自分も大概動物らしく単細胞だが。
目を剥く男に構わず二、三度斬り付ける。刃がぶつかる度に結晶が舞い散り、電流を分散する。
護衛騎士という立場は真に美しい。誰かを守る者達はエストレアには眩し過ぎる存在だ。それ故にこの男は、頂点に立つ者の言葉の重さが分からない。どれだけの拘束力を持つか知らない。斜め後ろの護衛騎士ならまだしも、隣に据えられることの意味が分からない。
「一度でも手を出したら、あいつの意思なんて関係ない。繋ぎ止めて二度と離さない。そうしたら、もうあいつに自由なんてない」
少女はずっと一人きりで、長い間檻の中で生かされてきた。成長が止まり、記憶が欠け落ちるような状態でありながら、不幸にも助けられ、共に行動することになったのはあろうことか龍族だった。
それでも少女は不思議なことに心からの笑顔を向けてきた。「エスは優しいね」と、優しいわけがない種族の中でも最悪で危険な自分に何度も笑いかけてきた。
これが意味するのは、少女は元々優しさを知らずに生きてきたということだ。
エルフ族がどんな者達だったのかは勉強不足でよく知らない。だけど、もう少女をどこにも繋いだりはしたくない。
幼い頃から全てを手に入れられる力があるように思われてきたが、実際は何も手に入ってはこなかった。
初めて欲しいと思ったのは、自分の護衛騎士だった。初めて命令という形で自分の元に帰ってくるように言ったが、護衛騎士が二度と自分の前に姿を現すことはなかった。
分かってはいた。一度手放したものはこの手には戻らないと。それがどれだけ欲しいものだったとしても、自分には守る力はなかった。代わりに与えられているのは、奪い縛りつける力だけだった。
そんな自分が唯一手に入れられたのは弟だけ。それも、何百何千の命の犠牲の上で。
「簡単に欲しいなんて言えない。気が狂いそうになるくらい可愛くても、いっそ閉じ込めてもいいかとすら思っても。だから、『約束』した」
青の瞳を揺らしながら話を聞いていた男は呆れるように息を吐き出す。刀身に纏わせていた雷を仕舞い、剣を鞘に納める。
「……それが本性か。すげーな。そこまで真っ黒で、それでも表面上の綺麗事を取るとか。その『約束』とやらも、ちょっと可愛い程度の時にしたんだろうが。どんだけ長い間耐えてんだよ」
男の言う通り、『約束』をしたのはまだ可愛いと思い始めたくらいの時期だった。
未成熟でどこか危なっかしい、独りでに走り出してしまうような少女の子どもっぽさは、兄としての義務を思い出させるように強く庇護欲を掻き立てた。
少女はそれだけ『子ども』でありながら、同時に『女性』でもあった。
分かっていて狙ったのかと疑う程、精密に撃ち込まれる殺し文句の数々。反応しなければいつまでも止められず、だからと言って反応すれば簡単に逃げられてしまう。
徐々に少女の『女性』である部分は増えてきている。年下の少女が自分よりも遥か上にいるような気さえする時もある。それでも、少女の中から子どもらしさは消えない。
あどけなさを残しながらも情欲を煽る。そんな少女の恐ろしさには脳が焼かれそうだと思った程だ。動物的で獰猛な意味での『可愛い』が何度も押し寄せる。何も考えずに食べてしまえたらどれだけ楽か計り知れない。
少女が自分の目が怖いと言った時は思わず喜んでしまった。
怖くて当たり前だ。そういう目で見ているのだから。捕食者を怖がらない獲物はいない。どこまでも初心な少女にも自分は雄に見えているのだと。
自由にしてやりたいと表で思う度に、裏では逃がさないと厳重に繋いでいく。この醜さが人の心だと言うのなら、護衛騎士はどうして手に入れることを勧めたのだろうか。
「……第一王子っつーのは、どいつもこいつも似たもんなのかもな。政治には向いてんだよ。その代わり、自分の幸せってもんはどうやっても見えないんだろ」
男の言葉が差すのは同じ金糸を持つあの王のことだろうか。
あの男と似ているのは癪だが、内側で何を考えているか分からない。笑顔という無表情を貫くあの男にも色々あるのだろう。
「それにしても、キレーな面に似つかわしくねーその性格、おっかなすぎるだろ」
こちらからすれば、表情が乏しいからと勝手に解釈されていく方が迷惑な話だ。
そもそも顔に似合う性格とはなんなのか。どちらにしてもエストレアはれっきとした雄龍なのだから、基本的な部分は男とも大して変わらない。動物らしく欲求には忠実で、欲しいと思うことも食べたいと思うこともある。顔には出ないだけで。
「何があっても、最後の選択肢は預けるつもりだった」
目の前で男が「だった?」と首を傾げているが、間違った言い回しはしていない。事実過去形だ。剣を交えつつも散々葛藤しておきながら、その実もう済んだ考えだった。エストレアにも限界というものはある。
どれだけ自衛しろと言っても聞かなかったのは少女の方だ。自分を助ける為に命まで掛けられて、全部が好きだとまで言われて、さすがに次に誘惑された時には逃がしてやれる自信はない。
無理を強いて泣かせるつもりはないが、何もせずに終われる程優しく聞き分けの言い男でもない。手放してやれる時期はとうに過ぎた。
「この手の届く距離にいてくれないと安心できない。お前にも、あいつを引き戻そうとしてる世界にも、誰にも渡さない」
三度目の『欲しい』は、何の犠牲もなしに手に入れてみせる。
少女が望むなら自由だって与えられる方法を考える。情けないことに少女のいない世界で生きていけるような強さはない。少女を守る為なら、奪う力も、縛る力も、この身に宿る全てを壊す力も改変してみせる。
「あー、なんつーか……そもそもの大前提に凄まじいズレがあんだよな。お前も、あいつも、ついでにユビテルもな」
左右非対称に長い方の横髪を摘みながら、どこまでも呆れ返った顔をして男は溜め息を吐く。
男の主曰く、長きに渡って悪意に晒され続けるとそれに関しては過敏に反応するようになるが、比例して善意は感じ取れなくなるそうだ。それのひどい状態がエストレアと少女だと。
男からすれば面倒臭いことこの上ないらしい。男は自分の現状に不満を抱いたこともなければ、自らこの立ち位置を選んでいるというのに、善意や好意をそのまま受け取れない主は下々の者は自分が繋いでしまっていると勘違いしている。仕方なくここにいると思われれば溜まったものではない。聞きようによっては傲慢なのだと。
こちらは主を守る為なら、腕の一本二本はどうなってもかまわない覚悟で今の位置に立っているというのに、今の立場を追われた方が自由なんてないのだと。
「だから、あいつの選択肢だって最初からあってないようなもんだろ。俺にとってユビテルが自由だとしたら、あいつにとってお前が自由だ。過去にお前の近くにいたやつも、全員」
初めて別の視点での意見を落とし込めたように思う。
外に出なければ、誰も寄せ付けなければいい。そうすれば波風立たず、誰も脅かすこともなく平和が保てると思い込んでいた。当然、何も受け取れるわけがない。
「なんで俺はお前に有利な話ばっかりしてんだか。自分で自分が可哀想になってきた」
「フルミネ、ありがとう」
「は……ああ!? お前、今……!」
名前を呼んで御礼を口にしただけだが、一頻り驚いた男は何故か狼狽えている。
気味が悪そうにしていたかと思えば、突然赤くなって何か言いたげに喘いでいる。プロミネもそうだった。とりあえず素直な気持ちを手短に伝えよう。気持ち悪い。つい先程まで照れていた癖に怒りだすのだから、声も見た目もうるさい。
「選択肢なんて、俺にもなかった」
結局、いくら頭を悩ませても導き出される結果は変わらなかった。寸分の狂いもなく、最初から同じだった。
傍にいる時間が長くなる程に増していくものが怖かった。触れる度に焦がされるような感覚が恐ろしかった。触れ合わせた時にはどこか苦しくなるようだった。理性なんてどこにもなかった。
何より求めていた言葉を与えられた時、泣き出しそうになるくらい嬉しかった。
少女と同じ人の姿があって良かった。
「……ちゃんと出来んじゃねーか。幸せそうな顔。世話が焼けるやつらだな」
嬉しそうな、寂しそうな。とても龍族の雄とは思えない複雑な表情と浮かべた男は、肩を回しながら立ち去って行った。




