6.ショコラ、拒絶する。
私は一体どれだけ眠るつもりなのか。日の高さから見ても完全に昼だ。
幸い、二日酔いというものにはならなかった。朧気な記憶の中で、私に水を飲ませてくれているユビテルの姿が浮かび上がる。一国の王様にあそこまで手を煩わせている不敬な者はきっと私だけだろう。早く謝りに行かなければ。
それにしても、都合の良い夢を見ていた。夢の中でエスが優しくしてくれるものだから、調子に乗って好き放題ぶつけた。酔っ払うと大胆になれるとは知らなかった。日頃胸の内に溜めているからああなるのか、とにかく多方面に迷惑を掛けること必至だから今後は自重していこうと思う。
夢でも感触まではっきり感じ取れるなら、もう一度見てもいい部分はあった。思い返して顔が熱くなる。
「何を百面相している」
熱を覚まそうと両手で頬を包んだその時、声を掛けられて上を向けばベルクと至近距離で目が合った。後退ると小さく笑われてしまう。良い意味ではない。確実に馬鹿にされている。
ベルクは顔を合わせる度に空気が柔らかくなる気がする。少しばかり長い眠りから覚めてからは初めて喋るのかと、さりげなく全快祝いの花を渡されて気が付く。ペトラからもらった花束にも入っていた、小さな白い花が集まった手毬のような紫陽花が多かった。
「アナベルという品種だ。清楚かつ可憐だろう。見掛けに反して丈夫でな、枯れる姿まで美しい花だ」
こんなに小さな花が丈夫だなんて花はすごい。ペトラからの分も合わせて、いくつかドライフラワーにするのもいいかもしれない。今のベルクやペトラなら、手が空いている時にでも作り方を教えてくれそうだ。
花の話をしてくれるベルクも声音が優しくて好きだ。思わずそれを伝えると、ベルクには珍しく狼狽えていた。また軽率に好きなんて言ってしまったけれど、やっぱり長く生きているベルクにも正しく伝わらないみたいだ。
「そう言えば、聞きたいことがあるんです。エスのご両親は、どんな方々でしたか?」
殺したくらいだから、少しくらいは知っているはずだと。思わぬ質問にベルクは目を瞠り、暫くしてから考えるように口を開いた。
「あの者達は、氷龍族にしてはマシだった。と思っていたが、いつもこちらに和解を申し出ていたのはあの若造だな。童の頃から、可愛げはなかったな」
それも、あの環境下に置かれていたからか。とベルクは思いを馳せる。
親に連れられ、何度か会合に顔を出していたエスは十に満たない子どもとは思えない覇気を纏い、はっきりと発言をしていて誰よりも目立つ存在だった。親としてはあれでも息子を大事に可愛がっていたのかもしれないけれど、完全に落第点だとベルクは思ったらしい。
幾ら感情の薄い氷龍族と言っても、あそこまで無を貫いた子どもは初めて見た。あの水色髪に期待して教育していくのは一向に構わないことだけど、あれでは龍でも人でもなく、何か例えようのない恐ろしいものに成長する兆しもあったと。
幼い頃のエスのことはそこまで深くは知らない。でも、今の話を聞くだけでも壮絶なものであることが窺えた。エスのことだから、王族に生まれたらこれが当たり前だとでも思い込んでいそうだ。
「だが、あの若造は確かに希望であったな。殺し損ねた者に、聞かされた戯言だと思っていたが」
疑問符が駆け抜ける。殺し損ねた者とは……。
だから、ベルクは『女神』と思われている私を連れたエスに委ねることにしたのかもしれない。元々の敵国の者の言葉なんて、恨んでいれば耳に届かない可能性もあるはずなのに、この人は私を信じようとしてくれた。
その人に感謝しよう。お陰で皆救うことが出来たのだから。
「私も、エスは希望だと思います」
「そこに貴様も加わるといい」
比較的温和な笑みを見せたベルクは立ち去っていく。エスの両親が、エスを大事に思っていたことは間違いなさそうで良かった。それが、エスにとっては愛じゃなかったのだとしても、嫌われていないだけ、疎まれていないだけ、いつか愛として伝わる日が来るかもしれないから。
嬉しいことのはずなのに、自分のことを重ねてしまうと胸が痛む。私には、愛してくれているように見えた、見ようとしていたまやかしのお母様しかいなかったから。
ユビテルも捜せばなかなか見つからない。このお城も広いし、入れ違いになっていたら大変だ。
廊下に差し込んでくる橙色の光に次第に藍が混ざり始める。この色を見ていると緑の国のお城を思い出す。あの時はフルミネが廊下で暴れたのが原因でモルニィヤが怒って追いかけていて、穏やかなのに賑やかな日々を過ごせていた。今思い返せばどんな時間も大事で、幸せだった。
これが手の届かないものにならなければいいけれど、そう簡単に済むのなら嫌な予感などしない。お母様の話を脳内で反芻する度に身体が冷えるような気がする。体温を取り戻そうと自分を抱き締めた時、目の前に影が落ちた。
「久々に会うってのに、湿気た面とかやめろよ。ショコラ」
「あ……」
見上げた先で視界に飛び込んできたのは予想もしなかった人物で、目を見開いたまま固まってしまう。
兄妹と同じ神々しい程の金糸の髪が、夕陽を反射して色に深みが増していてとても美しい。私が見上げるには高すぎる背丈、いつもと違ってきちんと着ている騎士服。青色をした瞳は相変わらず鋭いけれど、それでも幾らか穏やかなものになったように思う。
時間にすると二月程しか経っていないのにも関わらず、纏う空気がここまで変わるものだろうか。
「フルミネ、大人っぽくなった?」
「第一声がそれかよ。どんだけガキに見られてたんだって」
苦々しい表情をされると、やっぱり元の顔立ちのせいか少しばかり怖いものになるけれど、間違いなく大人っぽくはなっている。前が子どもじみていたわけじゃない。断じて。
どうしてフルミネがここにいるのかと問えば、押し付けられていた仕事が一段落ついたから追いかけてきたのだとか。今までもまともに護衛をしていたわけでもないけれど、ユビテルとモルニィヤの側に誰もつけずに行動する危機感の薄さから、陰から見ていないと危なっかしくてやっていられないと。
まるで保護者のような口振りには笑ってしまう。以前はフルミネの不真面目さの方が目につくものだったのに、こうして真面目なことを言っているのを聞くと嬉しくなる。
笑うと怒るのがフルミネなのに、久しぶりに会ったフルミネは何故か私が笑う姿を見て、少し目許を赤くして頬を掻いたりする。
「……お前のことも、心配してたんだからな。まあ、元気そうで何よりだ」
「心配してくれてありがとう。元気になれて、またフルミネに会えて嬉しい」
ユビテルは私の全快をフルミネに知らせていなかったようだ。こちらに来て忙しかったから仕方ないのかな。長い間心配させてしまって何だか申し訳ない。
目の前にいたはずのフルミネは、「素でやってんのが……」だの「久々に食らうと破壊力が……」だのと、壁際に手を着いて呻いていた。何だか様子がおかしい。
まだユビテルも見つからないし、先にフルミネと話すのもいいかもしれない。二人は忙しいから、なんだかんだ長い時間は話せていないし、フルミネからならまた違う話が聞けるだろう。
何処かでゆっくり話そうと言えば、外が良いと言われてバルコニーに出ることにした。
夕陽の沈みかけた空が不思議な色をしていた。どちらかと言えば寒い気候の国だけど、この時間ならそこまでは寒くはない。
バルコニーと言えば、ざぶとんなる敷物を敷いてお茶を点てていたユビテルを思い出す。またユビテルのお茶が飲めればいいんだけど、解決しなければならない問題が山積みだ。皆に会えば会う程、ここにいたいという気持ちが強くなる。何か、ここに残れる暗示のようなものがあればいいのに。
山で別れてからのフルミネは普段と同じ生活を滞りなく行い、時にはユビテルに恐ろしい笑みを向けられたり、モルニィヤに制裁という名の処刑に遭いかけたりしていたらしい。……大人っぽくなったという言葉は撤回した方がいいかもしれない。私の目は節穴だ。
「お前らのいねー城はちょっとばかし寂しいもんだったぞ」
寂しいと思われるのが嬉しい。フルミネは、どこまでユビテルの話を聞いているのだろう。私のお父様捜しも知っているのだろうか。
「あの山……」
「山?」
「後々調べたら氷龍族には酷だったんだろ。お前が、相手したのか?」
それは、発情期のことを差した言葉?
思い返して赤くなってしまいそうな顔をフルミネから背ける。どうしてそんな寂しそうな顔をしているのか。さすがに分かっているけれど、出来るだけフルミネを傷つけたくないと思うのは身勝手だろうか。
相手をしていないと答えれば、どこのチンピラかと見紛う表情になるから怖い。何故、私が相手をしていなくて怒るのか。男性はよく分からない。
エスは別に私が嫌だったわけじゃなくて、誰も相手にしなかったんだと補足してもその眉間の皺は濃くなるばかりだ。他の誰でもないエスへの怒りが膨らんでいる。
「俺が……どんな気持ちで……」
暴発しそうな怒りを何とかしなければと、フルミネの名前を呼んで手を伸ばした時、その手を引き寄せられて胸に飛び込む形になった。
驚いて身を離そうとすると、抱き込まれて身動きが取れなくなる。いきなりどうしたというのか。どれだけの数の龍族と知り合っても、長く一緒にいても難しい。
どこまでされているのかと、額に口付けられて肩を竦める。何か返事をしなくてはと口を開こうにも、瞼に唇を押し当てられて小さな悲鳴しか上げられなかった。
耳に、鼻に、頬に、次々とキスを落とされて、鼻先をくすぐり合わせた時にフルミネは離れた。危うく唇にキスをされそうになった。どうして離れたのかと視線を落とすと、無意識にしたのか、胸を押し返している手がそこにあった。
「あいつなら、押し返したりしねーだろ」
理解したように呟いたフルミネの顔は明らかに傷ついていた。フルミネが前に言った言葉がただの興味本位でなければ、人型で言うところの私を好きだということになると思っていたけど、本当にそうなのか。
答えづらいけれど、私は静かに頷くことしかできなかった。
「ただ無意味に口付けられてるとでも思ってたか? 俺ら龍族は滅多にこんなことしねえ。ましてや人型にはめんどくせー意味のある口なんて狙うのは、本気で大事にしたい雌だけだ」
息が止まる。囁くような小さな声は弱いようで強い何かを秘めていて、フルミネはそれを教えても自分の為にはならないのに教えてくれる。
もう、エスにはどこにキスをされてないか、それくらいの口付けは受けている。ただの戯れにしても無意味ではないのなら、何故。あのキスがただの口移しではないのなら、あれは……。
希望を持ちかけた心が拒絶する。違う方がいいと。フルミネのことは傷つけておいて、自分はこれ以上恐怖を抱えていたくないと。
「……お前も、ややこしい閉ざし方してるよな。生い立ち考えたら分からなくもねーけど、いっそ、無理強いしてみたら開ける世界は違うかもしれないのにな」
もう行けと、身体を反転させられて背中を押される。もっと楽しい話ができていたらよかったのに、形は恋じゃないとしても、大好きなフルミネを傷つけて自分だけは逃げたいわけじゃなかったのに。
振り返ったら泣いてしまいそうで立ち去ることしかできなかった。泣き顔を見せたら、優しいフルミネは私の為に自分の痛みを我慢してしまうと思ったから。




