◎5.エストレア、口付ける。
エストレアはこの日、起きて早々に大変な仕事を投げられていた。
重要書類等、約十年ぶりに見たものだからどう処理するものだったかと頭を悩ませたが、何とか日没までに片付いて安堵した。
あの量を当然の如く手渡された時はどんな悪夢が始まったのかと、エストレアはもう一度眠りたい気持ちに襲われていた。実際にはすぐに勘を取り戻し、手伝いにきていた弟にやることがないとむくれられた。
夕方頃から少女の魔力を感じなくなった。今日に至っては近付かれると困る癖に、いないと捜してしまう。
少女が目覚めるまでは気が気ではなかったというのに、いざ目を覚ますと困ったことになった。自分で手綱の引けないこの感情は何なのか。こんな厄介なもの、出来れば発情期の時のみにしてもらいたい。とてもではないが傍にはいられない。かといっていつまで離れていればいいのかも分からない。
どうするかと廊下を歩いていた時、向こう側から忌々しい金糸の髪と少女が歩いてくるのが見えて立ち止まった。何処となく酒臭いのは気のせいではないようだ。
エストレアを視界に入れたユビテルは、困ったように眉を下げて笑い、悠長に挨拶などを交えながら手元をゆっくりと撫でた。ちょうどその手の下には少女の頭があるのだが、ユビテルにしがみついている少女の頬は上気し、気持ちがいいのか緩み切った顔を蕩けさせていた。
「そいつに何した」
「人聞きが悪いですね。何処かの誰かさんに放っておかれて寂しそうにしてたので、お話していただけですよ。お酒は奪われましたがね」
どうやら自ら進んで酒を口にしたらしい少女は、一拍遅れてエストレアの存在に気が付いた。「えすー」と舌足らずもいいところの喋り方で名前を呼び、間抜けな笑みを向けてくる。よく熟れた白桃のような頬を引っ張って目を覚まさせてやりたい。
「僕はここから先は理性からして無理なので後はお願いしますね」
「は?」
軽い動作で少女を自分から引き剥がしたユビテルは、ふらふらしているその小さな背を押して強引に寄越してくる。両手を広げて抱き着いてくる少女を受け止めると、溶けきった笑顔で「つかまえたー」と嬉しそうに見上げてきた。
隙間なく密着させてこられる柔らかな身体。ユビテルを見れば、その貼り付けたような笑みに大変だったと書き表されているようだった。元々の甘い匂いに、酒とユビテルの匂いが混じっているのが気に食わない。
「俺も無理」
「あなたなら間違ったとしても、ショコラにとっては本望でしょう? 僕じゃ問題です。……というか、いっそ間違ったらどうです?」
何が言いたいのか。怪しげな光を宿した翠の瞳が細められる。
「エストレアの考えも分からなくはないですが、貴方が思っているより時間はないみたいですよ」
「どういう意味だ」
「そのままです。出来の良い頭でしっかり処理してください。もっとも、龍族の種の定着率を考えると厳しい状況下にあるのは変わりませんね。出来るだけ早く、食べて食べて食べまくる必要がありますね」
金糸を煌かせながら、麗しい顔から繰り出されるには似つかわしくない言葉の羅列に瞠目する。
何を言われているのかと思ったが、どうやら相手は冗談ではなく本気でそれを吐いている。何があったのか、そっと少女の頬を撫で上げた時、目許がほんのりと腫れていることに気がついた。
「ショコラをこの世界に繋ぎ止めてください。お願いします」
頭まで下げられるとは何事か。腕の中で薄い寝息を立て始める少女を抱え直しながら、踵を返して去っていくユビテルの後ろ姿を見送った。
微睡みながらも尚しがみついて離れない少女を抱きかかえ、少女の部屋に連れて入った。まだ自分と少女の匂いが充満している。
起き上がってから数時間しか経っていないのだから、少女の身体は自分の魔力と完全には馴染んでもいなければ、体調も良好とは言い難いはずだ。
その状態で酒を呷るとは良い度胸だと、エストレアは少女の頬を掴んで引っ張った。弟の子どもの肌とはまた違った柔らかさを持つ少女の頬はよく伸びる。「いひゃいよー」と間抜けを極めた声が返ってきたが、その表情は幸せそうだから不思議に映る。
その身体を下しても、離れるどころかより一層くっついてくるのには困惑する。
少女は自分を何だと思っているのか知らないが、理性的であったとしても雄であることは変えられない事実だ。ユビテルが何やら言っていたが、間違ってからでは取り返しがつかない。
何とか引き剥がして寝台に叩き込もうと、少女の肩を掴んだ時だった。しっかりとこちらの腕を掴んだ少女は体重を預けるようにして下に引き、必然的に屈む体勢になったエストレアに顔を近づけてきた。
「っ……!」
明らかに唇を狙ってされたそれに驚いたが、間一髪で少女の唇を躱す。危なかった。酔っ払いの誘惑に乗ってなるものかと。
一度泣きそうな顔をして見上げてきた少女は服の胸元を掴み、俯きがちになりながら縋りついてきた。
「えすの命、こんなにもらえない……返したい……」
一瞬何の話かと思った。ユビテルに受け渡し方を聞いたのだろうか。口付けたところで一度渡したものは返せない。
そんなことは少女も何となく分かっているはずだが、それでも返さなければと思わせてしまったのだとしたら申し訳なさが込み上げる。
この少女は、少女の為にと自己犠牲的に施されるのを納得するような性格をしていない。自分は簡単に投げ出す癖に最後まで甘えようとしない。そういう部分にはとにかく苛立ちを覚える。
「返さなくていい。持ってろ。それだけやっても、俺はお前より長く生きる」
そう悲しまれなくても、龍族はなかなか死ねない。何もなければどんな種族よりも長く生き、見送る立場になる。
このまま少女をこの世界に留めたところで、死にゆくのを見送る未来がいつかやってくる。その時に傍にいてもいなくても、置いて行かれるのは変わらない。
感情の稀薄な龍族も感傷に浸れるのかと、思わず少女を強く抱き締めてしまう。出来るだけ遠い未来であってほしいと願ってしまうのは勝手なことだろうか。
背中に回された細い腕が、精一杯に抱き締め返してくる。これは一体何なのか。迫りくる感情を理解できないのか歯がゆくて仕方ない。
「えす、だいすき」
未だ呂律の回っていない言葉は、拍子抜けするくらい脈絡のないものだった。
少女がエストレアに向ける好意は最初から変わることなく無垢なもので、そう思って当然だと、その気持ちに疑う余地もないと、非常に真っ直ぐなものだ。そんなものを向けられる程、自分は少女に何かをしてやれただろうか。考えるまでもなく答えは否だ。
自分は、どこまでも純粋な少女に、大事に守られるような生き物ではない。
「俺のどこが『好き』なんだよ。俺は、お前が言うように優しくもないし、何もしてやれてない。そう思われる要素なんかない」
強いて言うなら良い部分はこの顔くらいだろうか。他者の価値観なので、これが良いのかはエストレアには理解できないが。
過去に散々、護衛騎士に冗談とも思える勢いで褒め称えられていたが、そこまで言うかと、心底気持ち悪いと思っていた。
しかし、生きているのか自分でも分からなくなるこの顔をわざわざ好むだろうか。単純に顔が良いというのなら、少女が今まで出会ってきた王族達は総じて見目が良い。
「んー? えすの? どこがすきなのかな?」
「分からないのか」
腕の中にいる少女は本気で考え始めた。唸る少女に、なら顔は、と一応聞けば「えすの顔がきらいとか神への冒涜だよ!」と、回っていない舌で捲くし立てられた。
よく分からない上に過去の護衛騎士に似た気持ち悪さも感じたが、嫌いではないならいい。
それにしても、好きという感情は分からなくても思えるものなのかとエストレアは頭を悩ませた。少しくらいは理解しているつもりでいたが、紐解いていけば思っていたよりも奥が深く、簡単に理解しきれそうではない。
「全部かな。えすが好きだから選ぶに選べないよ」
「全、部……」
「うん。えすは完璧なのに悪いところいっぱいあるよね。優しいのにわざと冷たくしたり、一人で無理し過ぎたり、恥ずかしいことばかりしてきたり」
そのどれも好きだと、一等愛おしそうに微笑んだ少女は、一体誰にそれを伝えているのか分かっているのか。
言葉を失う自分の前で、少女は良いところまで上げ始めた。中には、ブルーベリーにはすぐに反応する等、何が良いのか分からない部分が出てきては引っ掛かりを感じているが、飽きもせずに並べ立てられる数は聞いているだけでこちらが恥ずかしくなってくる。
「でもやっぱり、優しいところが一番好きだな」
優しくないと言った側からこれだ。人の話を聞けと、何度注意しても直らない。
舌足らずに続けられる言葉の中には、何故かだんだんとエストレアに対する恨み言や自虐も混じってくるが、そろそろ黙って聞いていられるのも限界に近づいてきた。
指折り数えている少女の手を掴み、その手の甲に口づけを落とす。大袈裟に肩を震わせ、少女は口を閉ざした。少女は背が低く、少し屈んだくらいでは額にしか届かない。コツンと額を合わせると、不思議そうな様子でその大きな瞳を瞬かせた。
「恥ずかしいからやめろ」
「えすも恥ずかしいとか思うの? ふふ、いつものお返しだね」
してやったりという顔で笑い始めるが、同時に至極眠そうでもあった。髪と同じ色をした睫毛が揺れて伏せられる。
少女が言っていることが本心なのか誇張なのかは分からないが、酔っ払いとは斯くも恐ろしいものなのか。
エストレアにも恥ずかしいという感情くらいは備わっている。少女は自分を人型のように扱う割には、どういう生き物として捉えているのか不明だ。
いつものように恥ずかしがって逃げ出されないのも調子が狂う。嬉しそうに笑ってみたかと思えば、うつらうつらと舟を漕ぎ出す。全く持って自由で動きの一つ一つに矛盾がある。
「ここにいたい。えすの、傍にいたい」
早く寝かせようと肩を抱いた時、寝息に混ぜられた言葉に固まってしまった。
どこか悲痛な声色、腫れていた瞼に何か関係があるのかと思わされたが、次に目を覚ました少女は自分にそのことを告げないだろう。ユビテルには全て話すというのに。
まだ残るユビテルの匂いを拭った時に、くすぐったいのか身を捩らせる少女の身体を捕まえる。今は特に、逃げられると腹が立つ。
腰に添えた手で身体を持ち上げ、小さな唇を塞ぐと戸惑うような息が漏れた。
そのまま味わおうと軽く食んで、無理矢理に衝動を抑え込んで啄むだけに留めた。ほんの少し触れただけで少女の唇の甘さが自分のそれに移る。
こんなことをしたくなる意味が分からない。習性にはない上、直後に後悔が襲い掛かってくるのだから。
与えるだけであれば並みよりも圧倒的に得手だが、貰う側は慣れていない。これも一方的な行為のはずなのに、与えられている気持ちになるのは何故か。
訳も分からず甘さに掻き乱される。胸の奥で恐怖が疼いた。




