3.ショコラ、避けられる。
ゆっくりと、髪の流れに従って優しく撫でられている。ぬるま湯に浸されているような心地良さはこの低めの体温だからこそだろうか。それとも撫でてくれているのがエスだからだろうか。起き抜けにこんなに気持ちよくしてもらえるなんて贅沢だ。安心する。
眠っている間に力がゆるんでしまったのか、少し温もりが遠い。その距離を埋めるためにぎゅっとエスを抱き締める。
もっとして、もっと撫でて。エスの首元に顔を埋めて、強請るようにすり寄る。ぴくりと大袈裟な程に反応したエスの手が、頭を撫でるのをやめて頬に下り、指の背で撫でてきたかと思えば容赦なく掴んだ。痛い痛い痛い。
「え、えす、いひゃい」
頬をよく引き伸ばされたまま、痛みに目を開けるとやっと離してもらえた。痛かった……。さっきまですごく優しかったのに、何でだろう。
「えっと、おはよう……?」
「離れて」
普段の無機質な声色と、表情の読めない真顔でばっさりと言われ、反射的に腕の力をゆるめると、擦り抜けるようにしてエスは離れて行ってしまった。
……もう少し抱き締めていたかったのにな。急に温もりを失ったせいで寂しさが込み上げる。そんな私を気にも留めず、エスは椅子に掛けていた上着を引っ掴んで羽織っている。その後、一度こちらを見たかと思えば、困ったような顔をしてからさっさと出ていってしまった。
何で困らせてしまったのか、よく分からない。ここにいて、俺の腕の中にいて、と。そう言って私を抱き締めたのはもう忘れてしまったのか。私が眠っている間に満たされたのか。
弱っているエスのあの声を思い出すだけで、どうしようもなく切なくなる。ほんの少しだったけど、エスの心が垣間見えた気がしたから。
シーツの上にまだ微かに残るエスの熱を撫でる。足りないと思うのは、やっぱり私だけ。
着替えを済ませて部屋を出て行けば、すれ違う地龍族の方々一人一人に心配されてしまった。地龍族の人達も本当に優しいな。来る前は怖がってしまったのが申し訳ないくらい。
御礼を言って回っていると、前からやってきたティエラが泣きそうな顔をして飛びついてきた。体力が落ちてしまっているのか、小さな身体を受け止めるだけでよろけてしまう。
「ショコラ、ほんとに良かった……! 僕、結局何も出来なくて、ショコラのこと守れなくて……」
「ううん、頼もしいティエラがいたから冷静になれたんだよ」
またこの小さな頭を撫でることができるのが嬉しかった。簡単に死んだりできないな。こんなに皆に心配掛けて、私は私が思うよりずっと、皆から大事にされているのかもしれない。私が皆を大事に思うように。
ティエラを抱き締めて優しい体温を堪能していると、後ろから被せられるように何かをぶつけられた。何事かと振り返ると、目の前が紫陽花で埋め尽くされる。
「うーん、僕はこう見えてすっごく心配してたのにな。こういうのって何て言うんだっけ? 妖精さん、昨日はお楽しみでしたね?」
青、紫、桃、それから一つ、一際小さくて白い花が集まっている紫陽花が混じった大きな花束を。「はい」と手渡してくるペトラはにやりと妖しい笑みを浮かべてそんなことを口にする。
一瞬、何の話だか分からなかったけれど、すぐにその言葉が行き着く先が思い当って花束で顔を隠すことになった。
「……見たの?」
「んー、何を? ちゃんと言われないと、何の話か分からないなあ」
にやにやしているペトラの横で、ティエラまで頬を染めて「僕にはちょっと早かったかも」なんて口籠る。これは絶対見られている。
二人は多分エスを心配していると思っていたけど、それはつまり、私とエスが同じ寝台で眠っているのも見られる可能性があったということだ。しかも、この様子だと二人共にばっちり見られている。
何もなかったと弁明しようにも、完全に面白がられている時点で事実はもうどうでもいいところにあるのだろう。ペトラが変に言い触らさなければいいけど……。恥ずかしくてもう二人の顔が見れない。大きな花束に顔を突っ込んで羞恥に耐えていると、いつの間にか顔を近づけてきていたペトラが、珍しく真剣な面持ちで見つめてきた。
「妖精さん、僕が言うとおかしな感じがするけど、ほんとに生きてて良かったよ」
全然おかしくない。嬉しい。首を振ると眉を下げて笑う。
それこそペトラらしくないと思っていると、すぐにいつものジト目で笑いながら、今別の場所では面白いことが起こっていると教えてくれた。多分、面白いとか言っている場合じゃないんじゃないだろうか。二人の後に続いてその場所を目指した。
扉を開けて中へと促してくれるペトラに御礼を言って、面白いことの惨状を確認しようと思えば、視界には眩い程の金糸が映り込んできた。
ベルクの前、書類を何部も渡していきながら、げんなりとした表情になっていくベルクにはお構いなしで話を進めているのはユビテルだった。
ゆるゆるとした笑みが、これほどまでに恐ろしく見えるのは初めてかもしれない。
「何れも重要書類になっておりますので、こちらまで出向かせていただきました」
「貴様、根回しが終わったかと思えば仕事の早い」
「先進国を統率する王である以上、ぬかりはありません。あなた方よりも弱いからと言って、嘗めないでいただきたい」
あのベルクに向かって堂々たる物言い、聞きようによっては喧嘩を売っているようなそれに、聞いているこちらの背筋が冷えた。
ペトラは言い負かされつつあるベルクの姿が面白くて仕方ないのか、肩を震わせながら見守っている。
一月ぶりに見るユビテルは、どうやら交渉を進めに来ているようだ。来ているのはユビテルだけだろうか。きょろきょろと辺りを見回していると、急に後ろからティエラとはまた別の小さな身体がしがみついてきた。
「ショコラ……! お会いしたかったですわ!」
ふわりと香る甘い花の香り、光を紡いだような美しい金糸の巻き髪。モルニィヤ、とその名を呼ぶ時には、声で気が付いたのかユビテルも私を見て微笑んでいた。
二人にまた会えて本当に嬉しい。生きているっていいな、なんて思っていたら、近くのソファーにエスが座っているのが目に入ってきた。眉間に皺が寄っていると思えば、エスの前にも書類が山積みにされている。ユビテル、ぬかりがない。
「兄様、元気そうなショコラに会えるなんて本当に素晴らしいですわ!」
「あはは、久しぶりの家族旅行だからね。楽しみもないと」
…………。家族旅行? その言葉が引っ掛かったのは私だけではないらしい。書類に向かう二人の反応は特に早かった。二人とも基本的には無表情な部類なのに、顔に「は?」と書いてある。物凄く怪訝そうだ。こんな空気を前にして、暢気なことを言えてしまうユビテルはやっぱり大物だった。
それにしても、家族旅行ということはフルミネは来ていないのかな。部屋の中を見ている限りでは見当たらない。モルニィヤにフルミネの所在を問えば、普段ちゃんとしていない分、仕事を大量に預けて置いてきたと、とてもいい笑顔で答えてくれた。
それはフルミネが悪い。それに、皆が出払うわけにもいかないもんね。でも、そっか、今回フルミネには、会えないんだ。
結構寂しいかもしれない。居たら居たでイジメ紛いな悪戯をされたりするし、扉を蹴破られたりもするから困るけど。まだ別れる前に見せてくれた輝く金色のドラゴンの姿を忘れてはいない。乱暴に置かれた前足すらも優しく感じたのを覚えている。
元気にしていたらそれでいいんだけど、次はいつ会えるだろうか。そんなことを考えていると、不意にエスと目が合った。
蒼の瞳はすぐにまた書類に戻されてしまったけれど、何故、そんな目をするのだろう。まるで、フルミネのことを考えるのをやめてほしいように見えてしまった。都合良く捉え過ぎかもしれない。
ティエラがいないと思えば、エスの手伝いをしているようだ。量が多くて大変そうだから、私も手伝った方がいいんだろうけど何となく行きづらい。
どうするか迷っていると、いつの間にかユビテルが隣に来ていて私を見下ろしていた。翡翠の瞳が柔らかく細められ、初めて出会った時のようだと思った。
「ベルクから聞きましたが、大変なことになりましたね。重要書類が溜まっていたのも事実ですが、ショコラの件で飛んできたんですよ」
「忙しいのに私の為に……?」
「大切なお友達の危機よりも大事なことがありますか?」
大切なお友達、そんな風に呼んでくれるのはユビテルとモルニィヤだけだ。思わず泣いてしまいそうになったのに、「飛んできたのは文字通りの意味ですよ」なんて補足してくれたお陰で、二人のドラゴンの姿が見たかったと気持ちをすり替えられてしまった。きっと、綺麗な龍が並んで飛んでいたのだろう。
「ところでショコラ、エルフ族の起源を探しに行きませんか? 確かこの辺りに、精霊に纏わる森があったはずでして」
エルフ族の起源なんてものがあるのか。さすがユビテルは色んな情報を持っている。今まで何も知らなかった分、知るのがちょっと怖いけれど、知っておくべきだよね。迷いながらも頷くと、ユビテルは一等美しい笑顔を返してくれた。
来たばかりの二人の準備と書類の処理が終わるのを待つことになった。出来れば仮面の者達に何かしら仕掛けられないうちに行動したいところだ。
実を言えば、エスを外に連れ出すのが怖くなっている。次も全員が生きた状態で無事に切り抜けられるとは言い切れない。どこまでの効力を持つか分からない、あの者たちの扱う術式が怖い。
急いだ方がいい。やっぱり手伝おうと、エスの元へ向かおうとすれば、近づいた瞬間にエスは立ち上がった。ティエラも首を傾げてその様子を見ている。
一歩近づけば何とも形容しがたい、難しい顔をして遠ざかってしまう。何だろう。また、私が近づくことを良しとされていない。
拒絶、されている。
前回の山間での発情期の時とは比べ物にならない。痛みと苦しみが同時に心臓を貫くようだった。




