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ショコラクリスタリゼ  作者: ななせりんく
第七章 二重の欠落と謎解き
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2.ショコラ、甘えられる。




 そう言えば、あの時のお兄さんはもしかしてそうだろうか。この夢を見るまで、こんな記憶があったことすらすっかり忘れていた。

 あのお兄さんがアルバさんなのだとしたら、彼の言う『俺の主』とはエスのことだ。当時から私は間接的にエスに守られていたんだ。まだあの頃の私より、少し大きいくらいの男の子に守られていた。そして、それは今も続いている。

 エスは今どうしているだろう? 私は随分長く暗闇の中にいた気がする。どれくらいの時間が経っているのか分からないけれど、きっと絶望的な状態にあった私を助けようとしてくれていたはずのエスは、今も私が起きないことで心配し続けているかもしれない。表情こそ表に出ないけどすごく優しい人だから。

 早く起きないと。無茶をしたことについてなら、いくらでも怒られていい。早く顔が見たい。エスに会いたい。



 手が温かい。私の好きな低めの体温だ。

 せっかく暗闇から現実に戻ってきたのに、身体どころか瞼すら持ち上げられる気がしない。一生懸命力を入れて、何とか瞼を持ち上げて温もりの先を辿る。白い大きな手にそっと包まれているのが視界に入ってきた。

 一本一本、緻密に作られているような長い指。一見、なめらかで美しく見えるそれが、ちゃんと男性らしい肌をしているのを何度も触れて知っている。だから、誰のものかなんて確認しなくても分かる。

 私が起きるまで握っていてくれたの? 嬉しさが込み上げて力なく握り返した。


 重い首に上を向かせて顔を見るとエスは物凄く驚いていた。起きるだけで驚かれる程の時間、眠っていたのだろうか。やつれた様子の面持ち、それでも美しさは損なわれることはないけれど、いつもの凄絶な美貌は鳴りを潜めている。エスは覇気がないと少年のような顔つきになるんだな。

 疲労が見える目許に手を伸ばそうとすると掴まれてしまった。何とか動けそうだから触れたかったのに。


「エスが、私を助けてくれたんでしょ……?」

「助けたって言うならお前の方だろ。俺は、お前に魔力を流し込んで治しただけ」


 魔力を流し込む。どうやるのか分からないけれど、そんなことも出来るんだな。今私が生きているのは、私の身体の中にエスの魔力が流れているからか。道理でよく知った温かさに満たされていると思った。

 それにしてもエスは素直じゃない。変な方向に謙虚というか。大したことだと思っていないのだろう。私を助けたのは事実なのに認めてくれない。


「じゃあ、今私の中、エスでいっぱいなんだ……嬉しい。ありがとう」


 精一杯の笑顔で御礼を口にすれば、何故かエスは頭を抱えて俯いてしまった。何か変なことを言ってしまっただろうか。


「私、どれくらい眠ってた?」

「二日くらい」

「そっか、二日…………え、二日!? エス、もしかして、二日寝てなかったりする……?」


 やっと顔を上げてもらえたかと思えば、次には無言で目を逸らされる。返事がないのは肯定と取るよ?

 二日も寝ていなければ、やつれているように見えて当たり前だ。この人は何をしているんだろう。私が起きないのを心配してくれていたのは嬉しい。だけど限度というものがある。

 多分、ティエラやペトラが何度も交代を買って出たりしていたはず。それを全部跳ね退けて起きているとは、とんだ頑固者もいたものだ。

 キッと眉を吊り上げるとエスは狼狽えた様子を見せるけど、私だって怒りたい時もある。

 私の大事な人を大事に扱われなくて怒らないわけがない。


「エス! ちゃんと寝なきゃダメだよ!」

「一日二日起きてたところで死なな――」

「死ぬ死なないじゃないの! エスが倒れたら心配する人はたくさんいるの! ティエラもペトラも、ベルクだってああ見えてきっとお花持ってお見舞いにくるよ。それに、私だって……」


 よく寝た私ときたら、エスの魔力のお陰ですごく元気らしい。きょとんとしたままのエスの言葉を遮ってまで捲し立て、着地点が見つからずにただエスの手を握り締める。

 眠っていないせいで頭が回らないのか、私の言葉がなかなか理解出来ないのか、まだ処理が終わらないらしいエスは目を丸くしたまま固まっていた。

 透き通るようだった白皙の肌はくすんで見えるし、うっすら隈まで作ってある。今度こそ手を伸ばして頬に触れる。普段よりも触り心地が良くない。


「大事なエスに倒れてほしくない……」


 絞り出せた言葉はまるで締まらなかった。どう伝えたら伝わるんだろう。エスにはきっと、無理をしないで、自分を大切にして、と何度言っても分からないだろう。

 お兄さんだから? 自己犠牲が当たり前だったから? しんどいことに慣れ切っているこの人は、ちゃんと見ていないとこの先も、限界を超えても無理ばかりすると思う。


 いつの間にか処理が終わったのか、エスは私の手を離して椅子から立ち上がった。

 睡眠を摂りにいくのかと思いきや、エスは何故か当然のように、私の寝ている寝台に入ろうとしていた。自然な動作で上掛けを捲る。


「えっ、ちょっ、待ってエス……ここで寝るの?」

「部屋に戻る気力もない」


 つい先程まで悲しみに暮れていたのに、もうそれどころではない。

 話している時から瞬きが多いとは思っていた。長い睫毛で風を起こせそうな程瞬いていた。それだけ眠そうに瞼をしょぼしょぼさせているのを見れば、もう限界なのは分かっているけれど……。とてもじゃないけど、私にはエスと添い寝出来る程強い心臓の持ち合わせはない。


「こ、ここで寝ても、いいよ。でも、わ、私は……もう起きるから」


 エスに背を向けて、更に距離を取って起き上がろうとすると、お腹に腕を回されて簡単に抱き寄せられてしまった。逃げる間もなく綺麗に腕の中に収まってしまってどうにも動けない。

 感嘆符と疑問符が交互に何度も浮かぶ。何故。何故私は抱き枕になっているの?

 エスに抱き締められた回数は思い返せば意外と多くて、背中越しの体温だって知っていたはずなのに。いつもより近くに感じる熱、規則正しく伝わってくる鼓動。この近さは一体。

 そう言えば、エスは上着を脱いでいたからシャツ一枚だった。私も寝間着だから、たった二枚の薄い布しか挟んでいないのだと気が付いてしまった。


「エス、あ、あの……」


 心臓が痛い。このまま加速して止まってしまいそうだ。腕の中で身を捩って逃げ出そうとしていると、もう一本、脇腹から差し込まれて両腕で抱き込まれる。


「ここにいて」


 力なく掠れて薄い声。

 羞恥に暴れていた心臓が急に大人しくなった。

 エスじゃないみたいだった。

 今の声は、初めて聞いた。

 気のせいだったのかな。強く強く抱き締められて苦しいくらいなのに、この腕から感じるのは……。


「俺の腕の中にいて」


 気のせいじゃない。

 普段からの、まるで温度のない無機質な美声とは掛け離れている。弱々しくて消え入りそうな声。

 ……怒ったりなんて、しなければ良かった。私はやっぱり馬鹿だ。

 この人は、私がこうして目を覚ますまでどれだけの不安を抱えていたんだろう。もし私が死んでしまっていたら、どれだけ強く後悔して、どれだけ大きな罪を背負うつもりだったんだろう。


 エスからすれば無理ばかりしているのは私で、今回だって本来怒られるのは私の方だったのに。

 一度でも、自分がどうなってもいい、なんて思った私は本物の馬鹿だ。自分勝手にも程がある。私はあそこで死んではいけなかった。この先、エスが許される為にも生きて戻らなければいけなかった。


「ここにいるよ。何処にも行かないから」


 私を抱き締める腕の力が少しゆるんだ。こんな簡単な言葉で安心させられるならいくらでも言うのに、ちゃんとエスの傍にいるのに。

 腕を引き寄せて手を握ると指が絡められていく。先に力を込めて握ると、優しく握り返してもらえた。

 ごめんね、エス、ちゃんと帰ってきたよ。


「っ……」


 何の前触れもなく項に口付けられて、柔らかな感触がくすぐったくて身動ぎするとチクリとした痛みが走った。

 噛まれた……? それにしては弱い痛みだった。一体何をされたのか。考える前にまた抱き締められて思考が寸断される。

 年上の男性にこう思うのは失礼だと思うけれど、何処と無く今のエスを幼く感じる。可愛い、なんて思ってしまった。



 程なくして寝息が耳を掠めてきた。握られた手、抱き込んでいる腕から次第に力が抜けていって、いつでも離れることが出来たけど、もうこの腕の中から逃げようとは思わなかった。


 そっと握っていた手を離して、腕の中で身を反転させる。

 間近で見る寝顔は、いつもなら美しい精巧な人形のそれだというのに、今日は不安げに眉を寄せられていて生気が感じられる。やっぱり少し幼くて、男性じゃなくて男の子の面影がある。


 王族というものが、私にはどんな人達なのかは分からない。

 でも、小さな男の子に甘えることさえ許さずに、重責を果していた人達だというのは分かる。アルバさんという騎士の方以外、エスを心から愛していなかったことは分かる。

 その証拠にエスからは両親の話が出ない。氷龍族の習性なんて関係無い。そこに愛がないから両親の死にすら何も感じないんだ。


 王族の仕事も、エスのことだから文句も言わずにこなしていたんだろう。ティエラと同じで、頭が良いから子どもらしさは欠けていたかもしれない。それでも、分からないのだとしても感じるものは奥底で感じているはずだ。

 ちゃんと甘えて、怒られて、許されていないから、余計に感情が消えてしまう。

 もっと愛されていたら、エスはもっと笑える人だっただろうか。


 ふとエスの唇を見て今更に思い出す。

 私、エスが無事だったから安心して、この目にその姿を映せるだけで幸せを感じていた時、とんでもないことをされた。

 龍族の習性には無いと聞いていた。だから、あれが何なのかは分からない。戯れの延長線上のものかもしれない。でも、それでもとても嬉しかった。

 唇を合わせることがあんなに苦しくて、あんなに甘いなんて想像も出来なかった。優しいことが怖くて、泣きそうになるくらい満たされるなんて知らなかった。そんなわけないのに、大事に愛されているようにすら感じた。

 エスには、ただ戯れが過ぎただけなのかもしれない。だけど、私にはとても大事な時間だった。良かった。ちゃんと覚えていて。


 結局、暗闇の中を歩いていても、私が『この世界』に残れない理由は分からなかった。

 だから何だと言うのだろう。

 私はこの人が好きだから。大好きだから。

 残りたいなら残れる根拠を、無理矢理に探してでも今から作ればいい。


 今度は私から腕を回して強く抱き締めて、胸に額をつける。

 私はずっと守ってくれていたこの人を守りたい。この先もずっと。感情を覚えて、もっと笑えるように、エスを幸せにしてあげたい。

 だからもう迷わない。弾き出されたとしても、絶対にこの腕の中に帰ってくる。




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