13.ショコラ、氷漬けになる。
早く早くと、気持ちばかりが急いて足が動かせているように思えない。エスが遠い。幾ら息を切らして走っても遅く感じる。距離が縮んでいる実感がない。
肺が痛くなってきた頃、私の腕を引いていたティエラがいきなり足を止めた。すぐに止まれなかった私は、つんのめって転けそうになったところをティエラに受け止められた。
急にどうしたの? そう問おうにも息が上がり過ぎて、口から出るのは荒い呼吸音ばかりだ。
整えるのが先だと必死で酸素を取り込もうとしていると、此処よりも遥か向こう、遠く離れた場所からパキパキと高くも低くも硬質な音が聞こえてきた。
何の音だろう。確認しようにも、まだ目に見える範囲では音の正体が掴めない。
「ショコラ、結晶龍は触れた者を殺す身体を持ってるって話は知ってるよね?」
前に立ち、私に背を向けたティエラは腕を離した。その質問に肯定を返せば、ティエラはまるで何かから守るように、私を制して一歩前に歩み出る。そのやり取りの合間にも硬質な音は唸りを上げて近付いてくる。
指先から熱が消えていくのは急激な気温の低下から来る寒さからか、それよりも強く感じる嫌な予感が頭の中で警鐘を鳴らしているからか。
「僕は唯一触れるんだ。にーちゃんに」
淡く蒼い光を纏うティエラの手を掴んだ。ダメだ。今ティエラを銀龍の姿にさせてはいけない。だって、だって……!
「ティエラは、言ったよね。自分は人型なら龍族で最も強いって、じゃあ、逆は……? ねえ、龍の姿なら、どうなの?」
全てその公式に当てはまる。その法則に則れば、答えは聞かずとも導き出される。
龍の姿のティエラは、龍族で一番弱い。
震えが止まらない。寒いからじゃない。到底感じたことのない恐怖が身体中を駆け巡って、視覚以外の全ての感覚を断ったようだった。
私の手を優しく握り返したティエラが、いつもと寸分の狂いもない明るく綺麗な笑顔を見せた。
小さな唇が、此処から離れて、と質問の答えではない言葉を紡ぐ。
嫌だ。待って。
喉が渇いて何の音も発しなかった。
目の前で輝く銀龍に姿を変えたティエラは、私を置いてエスのいる方角へと飛んでいってしまった。
間も無く足下が厚い氷で覆われる。
茫然としそうになっていたところに凍り付く音が聞こえ、危機を察知した私は瞬時に風を纏って跳び上がる。氷に足を取られて縫い止められてしまうところだった。
これはエスの魔法だろうか。いや、魔法というより、垂れ流された魔力? みるみる内に拡がっていく氷の膜に向かって炎を数発放ち、大袈裟な程に燃え上がらせて侵食を食い止める。
ただ絶望して静かに待ってなんていられない。私には私に出来ることをしていかないと。
エスがどれだけ自我を失っているかは分からないけれど、現状が最悪の事態であるのは分かっている。こんな何もない広大な平原の真ん中では、地龍族に応援を要請しに行くことも出来ない。私とティエラしかいない。
炎すらも凍てつきそうな強力な魔力の波。更に炎を足して水蒸気に変えていく。
こんなことを続けてもキリがない。私もエスの元に行って何とか興奮を解くしか……。そう思って氷の上を走り出そうとした時、この分厚い氷の膜を抉り取るようにして何かが勢いよく落下してきた。
反動で飛び散る氷の破片が赤く色付いていて、私の足下に幾筋もの線を引き、模様を描いて滑り転がる。
「あ……」
赤く染まった銀色の肌。濃い血の臭い。
嘘だ。そんな。
まだ数分しか経っていないのに。信じられない。
苦し気に呼吸をしながら、ティエラがボロボロになっているその身を起こそうとしていた。
先程感じていた嫌な予感は的中した。今のエスはティエラが分からないくらいに錯乱している。ずっと大事に守ってきたティエラでも、容赦なく殺せる。
血だらけのティエラに駆け寄り、輝きを失ったその痛々しい身体を抱く。私に気付いたティエラは蒼い瞳を大きく開いた。何故離れていないのか、まだ此処にいるのか、言葉が無くてもその瞳から雄弁に伝わる。
ティエラ、残念だけど、私は馬鹿だ。此処にいたところでただの足手まといになって、ただただ邪魔になるんだとしても、死んでしまうかもしれない大事な人を置いて自分だけ助かろうなんて露程も思わない。
治癒魔法を掛けている時、割り込むようにして氷柱を撃ち込まれ、中断して何とか弾き返した。
当たっていないのに苦痛を感じる。たった一つ弾いただけで息切れを起こす。これが、本来のエスの氷属性魔法の威力だって言うの?
見上げた空には全身を煌めかせて此方を見下ろすエスの姿。身の回りに纏う氷柱はいつもよりも長く鋭さを増している。その背には蓮の花を咲かせるように複数の刃が待機させられていて、とてもじゃないけど防ぎ切れる数だとは思えない。それどころか一撃も防げないかもしれない。
中断してしまったせいでまだ怪我が治りきっていないというのに、ティエラは私を庇って前に立とうとする。
ティエラは頼れる男性だ。でも、だからって……これ以上、ティエラが傷付くところなんて見たくない……。エスに傷付けられて心を痛めて欲しくない……。
私は治癒魔法に風属性魔法を混ぜ、渾身の力でティエラを突き飛ばした。
遠くまで吹き飛ばすことが出来て良かった。治癒魔法の応用で鎮静効果も混ぜておいたから、暫くは動かずにいてくれるだろう。
私は目の前の空を仰ぎ見て、炎属性魔法と地属性魔法で身辺を固めた。
エスはそんな私に躊躇いなく刃を投げ掛けてくる。舞う刃を防いで、溶かして、降り頻る氷柱を防いで、溶かして。それを何度も何度も繰り返して、攻撃が一段落するのを待つ。
何とか受けきった時には崩れ落ちるようにして膝を着いていた。もう無理だ。今の分ですらよく受け切れたものだと自分を賞賛したいくらい。
また攻撃に備えて魔力を練り始めるエス。これ以上はどうにも出来ない。
思わず攻撃を止めようと、風を使い、宙に浮かぶエスに向かって手を伸ばしていた。
エスの身体に触れた瞬間、世界が白黒に変わった。
遅れて感じたのは掌を貫く激痛と、耳に届く信じがたい音。
今のは、何……?
叫ぶことも忘れ、考えるよりも先に治癒魔法と炎属性魔法を混ぜ合わせ、触れてしまった腕に巻き付かせた。痛みと音が消えていく。
咄嗟に対処法を実行出来たのは備わっている力が助けてくれたのか。
一度エスから離れて地に足を着ける。
漸く追い付いた思考が今の恐ろしい出来事について分析を始めた。
視界から色が消えるまでのほんの一瞬に見えたのは、冷気が掌に纏わりついて氷柱が生えた映像だった。夢じゃない。実際に生えていた。
エスの身体からではなく、私の掌から。
痛みを痛みとして感じる前に、私の耳には確かに聞こえた。
身体の内側から凍り付いて皮膚を突き破る音が。
過ぎた魔力がもたらす弊害がこんな形になっているとは思いもしなかった。死ぬにしても最初に見たエスの魔法のような、串刺しにされたり、凍結させられたりと、もっと簡単なものだと思っていた。
それが、一瞬で内側から結晶化させられるなんて……。こんなのどうにも出来ない。言葉通り触れない。
考え込んでいると、私から興味を失ったらしいエスは頭の向きを変えていた。それも墓場の方角を向いている。
私に与えられている時間なんて少しも無い。瞬時に風属性魔法で速さを出し、墓場を目指して飛び立つエスを追い掛けた。
「エス! 待って! そっちに行っちゃダメ!」
声を張り上げたところでエスには届かない。
どうすれば……どうすればいいの?
更に魔法を追加して何とかエスの前に回り込んだ私は、両手を広げてエスの行く先を阻んだ。
何かしらの魔法で塞き止めたわけでもないのに、止まってくれたのは少しでも希望があると信じてもいいのかな。まだ、何とかすれば届くって思ってもいいのかな。
多分、鎮静効果だけじゃ足りない。怪我もしているはずだから治癒魔法も必要だ。他には、他には何をすればいいんだろう。
興奮していると言うのなら、ひどく熱が上がっている状態ということでもあるの? だとしたら、以前にエスの熱を下げる時にしたこと――治癒魔法に氷属性魔法を足して冷却すれば収まるかもしれない。
でも、私程度の魔力じゃエスに触らないと出来ない。
ぐずぐずと考えている間にもエスは一つ二つと水晶のような美しい氷柱を作り出している。
先程した治癒魔法に炎属性魔法を混ぜる方法を使えば、エスの身体に触れるかもしれない。
……だけど、炎を纏えばエスは火傷してしまうんじゃないかな。
それは嫌だな。
「エス、今助けるよ」
私が選んだ答えは一つ。
治癒、鎮静、氷。その三種類のみを両腕に、今にも攻撃を仕掛けてこようとするエスに近付いた。
近付けば遠ざかる。触れようとすれば身を引く。自分を見失っていても反射的にしている行動はエスらしい。
止まってくれたのも、今もこうして近付けば少しずつ下がっていくのも、私を傷付けない為にしている最上級の優しい反応。
「もう誰も殺させないって、約束したから」
龍の姿でも違わず美麗なエスの顔を包み込むようにして優しく抱き締めた。
痛みに顔をしかめたのは、ほんの少しの短い時間だった。
腕が、胴体が、触れた部分から凍り付き、容赦なく皮膚を裂いて赤い石英が突き出してくる。痛覚を越えてしまったものを感じ取ることが出来ず、ただ他人事のようにその光景を見つめていた。
時間にすればたったの数秒程度だろう。その僅かな時間で全身が感覚を無くした。抱き締めている腕は氷漬けになって、もう自分のものとは思えない。血液も骨も神経も結晶に侵され、今もこうしてエスに魔法を掛け続けられているのが不思議だ。
「もう、エスに、傷付いてほしくない」
声帯が閉ざされる前に語り掛けた言葉。私の願望かもしれないけれど、確かにエスが反応したように思えた。
もうエスに誰も傷付けさせないでほしい。エスを傷付けないでほしい。その為なら私は何でもする。
始まったばかりなんだ。これから、皆で平和な世界を築いていくんだ。まだ、エスに幸せを感じさせてあげられていない。
微弱な魔力じゃ一割も届かないとしても、何時間でも抱き締めるから。お願いだから、効いて。
私の身体なんて、どうなってもいいから。
黒で塗り潰された瞼の向こう側で閃光が瞬いたような気がした。
私はどうなったのだろう。瞼、と思っているものは持ち上げられる様子はない。手足を動かそうと試みたけれど、そもそも手足なんて何処にあるんだろう。
五感の全てが無い。暗闇の中で不思議と意識だけが浮上している状態。そもそも身体などあるのだろうか。『私』はまだ生きているのだろうか。
ひどく冷静な疑問が浮かんでは、どうでもいいと振り払う。
また遠くで光が閃く。淡い蒼の色をした。私が知る中で最も暖かく優しい光。
そうだ。私の身体よりも、もっと大事なことがある。ここで死ぬと言うなら、せめて一度きり、あの人が無事に自我を取り戻せたかを確認したい。
これは瞼だ。まだこの瞳に光はあるはずだ。鉛のように重いそれを力づくで開こうとすれば、ほんの少しだけ、細い視界が開けた。
どんよりと薄暗い景色に眩い閃光がまた一筋。その光のお陰で私は望む水色を探し出せた。
良かった。本当に良かった。安堵した瞬間に視界は閉ざされてしまったけれど、この暗闇は安心に満ち溢れている。
何だか分からないけれど優しくて温かいものが流れ込んでくる。 私はこれをよく知っている。何度か触れたことのあるこれは、大好きな人の魔力に似ている。
死ぬ瞬間にこんなに幸せな気持ちになれるなら、物凄く痛い思いをして良かったとすら思える。
身体が軽くなっていくのは此処から離れる時が来たからなのかな。この温かさのせいか、意外と寂しくないものなんだな。
感覚が戻っていくのも夢みたいだ。指先が温もりを取り戻して、思わず先程見た水色に届けば嬉しいと手を伸ばした。
すぐ近くで何かに触れる。そっと撫でて、なぞって、水色を探していると、途端に温もりが身体から離れてしまった。
もっと感じていたかったな……名残惜しいなんて、何が寂しくない、だ。結局のところ私は強欲なんだ。
もう無理なんだと理解出来ているのに、ただ傷付いてほしくないと、それだけを望んだはずなのに、やっぱり私はエスが欲しい。
長い洞窟を駆け抜けるような感覚だった。
音が、匂いが、感覚が。急激に押し寄せて驚きに瞼を持ち上げれば、目の前に愛しい人の顔があった。二乗でびっくりしたけれど、私のこの思考が今此処に存在するはずの身体と一致しない。
何が起きたのか。何が起きていたのか。理解が及ばない上に、思うよりも何もかもが鈍い。全てが遅れてやってくる。
それでも視界だけは違った。近くにあるエスの顔はいつもの無表情とは違い、怒りや哀しみを湛えているようで、私はそれが心配でとにかく触れて確めたくなった。
手が、ほとんど動かない。伸ばしたつもりが微々たる伸びで、何とか胸に着いた手を引き摺るようにしてその首を辿り、頬を包み込む。
その怒り、哀しみが驚きに塗り替えられるのを見れば、もう感じられるのは痺れたように薄い感覚でも構わない。
「……何で、身を擲つようなことをした」
鼓膜を揺さぶる心地良い声がいつもと違って怒りに震えている。また私はエスに怒られているのかと何だか笑いそうになってしまって、まともに表情すらも作れないことに気が付いた。
声帯は無事だろうか。何とか開くことの出来た唇で、吐く息に乗せてでもその返事をする。
「だって、エスにもう、悲しんでほしくなかったから……もう二度と、恐ろしいことは起きないよ……もう、許されていいんだよ……」
咳き込みそうになって、咳き込む力すら無い現状にも気付く。面白い程死んでいるも同然な自分の状態に心の中で苦笑いする。
ちゃんと意味が届くようにと、ぎこちなくも浮かべた微笑みはエスにはどう映るのか。
エスは私が言った言葉を何とか咀嚼出来たのか、綺麗な蒼玉の瞳を見開いて、それから、今にも泣き出しそうな顔をする。
頬に添えていた手に預けられる僅かな重み。甘えられているようで、こんな時だと言うのに心の奥が熱くなる。
「本当に馬鹿だな。お前は」
指の背で頬を撫でて、滑るようにして輪郭に手が掛けられる。蒼い瞳に確かな熱が込められた時、エスの頬から手が離れてしまう。
手放してしまった温もりが恋しくて気を取られた瞬間、まるで壊れ物に触れるかのように、唇に柔らかな感触が落ちてきた。
一秒にも満たない時間のそれに驚いている暇は無かった。
何が起きたのか一向に処理する気配の無い頭はぼんやりとしているのに、再び視線が交差した時、恥ずかしさに埋め尽くされて早々に逸らしてしまった。
何だか分からないけれど、とんでもないことをした。
「ショコラ……」
信じられない程の甘さを含んだ声に名前を呼ばれ、小さくも肩を跳ねさせる私に構うことなくまたそっと唇が重ねられる。
柔らかく食まれる度に肩が揺れてしまうのは、唇がこれ程敏感なものだと知らなかったからだ。
エスが息を抜く時に僅かに漏れた声が艶やかで、聞いてしまった側から全身が火照り出す。
苦しさから離れようと思わず口を開いた時、滑り込んできた舌に驚いて、さ迷わせていた手でエスの肩を力無く掴んだ。
どうすれば……どうすればいいの? 羞恥の許容範囲なんてとっくに越えて、混乱が一周回って落ち着いてしまっているような。どうしていたらいいのか分からなくて、恐る恐る自分の舌を差し出してエスのものに触れさせた。
ゆっくりと絡め取られる滑らかな動きと、頭から溶けてしまいそうになる甘さに溺れてしまいそうになる。
舌が絡む度に息が漏れて、酸素を求めて苦しさに肩に縋る。息継ぎを許されたかと思えばすぐに優しく塞がれる。
合わせてくれているようで何処にも自由が無い。こんなに怖い優しさがあるなんて、こんなに苦しいのにどうしようもなく嬉しいと思ってしまうなんて。私、またエスに会えたからって気でもおかしくなったのかもしれない。
「ん、エス……」
酸欠を窮めた身体はもう限界を迎えていた。唇の隙間から名前を呼ぶだけで、じわりと愛しさが広がっていく。
どうしてもエスを諦めたくなかった。世界を壊して悲しんでほしくなかった。それくらい大事に想っていた。
今、死を目の前にしてやっと気付けた。やっと、迷いも躊躇いもなく断言出来る。
私はこの人を、エスを愛している。




