12.ショコラ、焦燥感に駆られる。
エスが何度も自分をそうだと口にしていた言葉。エスが動物であることを私が厭うわけじゃない。何も本人にそんな事実を突き付けなくてもいいのに、仮面の者の蔑んだ声色がエスに届いたことが受け入れ難かった。
片膝を着いたまま苦しみ喘いでいたエスは、急に立ち上がって走り出し、丘を下って何もない平原へと駆けていった。足に自信のある私でも追いつけそうにないくらいの速さで、瞬く間に遠く小さくなっていくエス。仕舞いには結晶龍の姿になって宙を舞っていった。
先程の術式がそうさせているのだろうか。走りでもしないと、ドラゴンの姿にならないと耐えられないのだろうか。考えてみただけで息が止まりそうになる。
ティエラと丘を下った時、仮面の者達がやれやれと首を振りながら、先程見せてきた術式の書かれたものと同じ紙切れを何枚か出した。その瞬間、遥か彼方を飛んでいたエスが宙でもがいて一直線に墜落する。
「エス……っ!!」
あれだけ速度が出ていたのだからとんでもない勢いで落ちたはず。小規模の砂嵐を起こしたそれを見ていられず、直ぐ様エスの状態を確認したくて走り出そうとしてティエラに腕を掴まれた。
「待ってショコラ! こいつらに吐かせるのが先だよ」
「ティエラ……っ、でも!」
「落ちついて。にーちゃんが簡単に死ぬはずないから!」
はっきりとした言葉と強い眼光に射抜かれて、焦燥感に駆られていた気持ちが萎んでいく。荒くなった息が落ち着くに連れ、私の腕を掴むティエラの手が小刻みに震えていることに気が付いた。
潤んで零れ落ちそうな大きな瞳を見つめ返し、深呼吸してからその小さな手をそっと包み込む。
情けない。ティエラだって心配しているのに、先に取り乱して我を忘れそうになって……。年上の私がしっかりしなくてどうするの。落ち着かなきゃ。
「その術式は呪術か、とか、何で僕達の動きを知りながら今まで泳がせていたのか、とか、聞かなくても大体分かることはもういいや」
いつも冷静なティエラが投げ遣りに話を切り捨てる。低く発せられる声からは苛立ちが滲み、腕を掴まれている私にも未だ震えが伝わってくる。
「にーちゃんに何をさせようとしてる? それだけでいい。さっさと答えろ」
仮面の者達を見る目が細められて冷たい光を宿す。その意思の強い瞳にエスの姿が重なって思わず息を飲んだ。顔の造りとかそういうものじゃない。兄弟はここまで似るものなのかと。
それに対して仮面の者達は一言も発することなく、微動だにせず突っ立っている。不気味だ。これは、生き物じゃない。
「竜王の話を知っているか。嘗て、この世界を造り出したドラゴンの兄弟の話だ」
突然、何の脈絡もなく話し始めた仮面の者。私はそんな話は聞いたことがない。龍族だったら知っている話なのだろうか。ティエラを見下ろせば、その顔は怒りを湛えたまま眉を跳ね上げている。知らなさそうだ。
仮面の者は返事を返さない私達を置いておいて話を続けた。
その昔、稀代の魔力を持っていた兄は破壊の王として憚り、弟は創造の王子としてこの世を統率し、均衡を保っていた。
やがて兄弟の遺伝子を引き継いだ龍達は数を増やし、紛い物ではなく人型を生まれ持ち、この世で最強という絶対的な権力を掲げて益々繁栄していった。
そして属性を分けた力を持つ龍の種族は二つに分かれた。それが、後の氷龍族と地龍族のことだと言う。
この話を聞いていて、ふと会ったばかりの頃にペトラが言っていた言葉を思い出した。『直系と傍系』それはこの兄弟の話のようだ。
破壊の兄の子孫が氷龍族、創造の弟の子孫が地龍族。本来支え合っていた二種が敵対して先の戦争が起こった。当然世界は混沌に飲まれる。
仮面の者の話はまだ続く。
破壊の王である兄の龍の姿は結晶龍だったという。不可思議なことに、いつも結晶龍はその時代に一頭だけ生まれ、死んではすぐに新たな結晶龍が生まれ、それを繰り返してずっとこの世に存在し続けている。まるで何度も生まれ変わり、支配し続けているかのように。
その話の通りならばエスがこの時代の結晶龍ということになる。仮面の者に指し示された先ではエスがドラゴンの姿のまま地面に平伏していた。
周りの岩山が大きく抉れ、粉々に砕け散っているのを見て、人の姿だとどれだけの傷を負っているか想像してしまった。
早く、早く怪我を治してあげたい。
急き立てられる気持ちを押し留めるように奥歯を噛み締める。
「だから何。随分長い前置きだね」
「怒りに身を任せ、思考が短絡的になるのは宜しくない。弟の君なら意味が分かるだろう。つまりは兄一頭で世界を一度滅ぼすことが出来る。彼が本気を出せば、忽ち世界は砂地になる」
結晶龍の姿を受け継ぐって、そういうことになるのか。エスの身体に宿る魔力は何もかもを凌ぐ程に強いものなんだ。
凄いとか、強いとか、私には誰でも言えるような簡単な言葉ばかりしか浮かばなくて、少し考えてみれば話は繋がっているはずなのに世界規模だなんて思いもしなかった。
そんな大きな力を一人で抱えて悩んでいたんだ。私は何も分かっていなかった。何も知らない癖に、一緒に背負えたら、分かってあげられたら、なんて偉そうな話だ。馬鹿丸出しだ。
氷龍族を、自分のことを忌み嫌うのも分かる。天上に突き抜けた力なんて生きている者には毒でしかない。そんな最強なんて、エスからすれば迷惑なことだ。
エスはそれだけの魔力をその身体に湛えながら、先々で大気の湿度を敏感に感じ取って攻撃を過剰に行わなかった。ベルクとの戦いでも、まず氷を溶かして地に還すことを考えていた。
そんな風に魔法を扱うのは全部エスが優しいからだ。優しくないなら元より何も考えずに強さを誇示して力を行使している。ましてや自分を嫌ってまで周りのことを考えて、力を制御したりなんてしない。
「ああ、そういう……今までにーちゃんが生かされていた理由って、そんなことの為……」
一足先に結論に辿り着いたらしいティエラは更なる怒りに打ち震えていた。どうしよう、分からない。馬鹿な頭はこんな時に本当に困る。
とにかく、ティエラをこれ以上興奮させてしまうとあの術式に掛かってしまうかもしれない。まだ正気の私が何とか落ち着けないと。
包んでいた手を離してティエラの肩を抱き込む。人は抱き締められると安心する。私の行動に驚いたティエラは小さく私の名前を呼んで、破裂しそうになっていた怒りを一度手放してくれた。
「我等の真の目的。国が壊滅したあの日、私達は気付いた。この最強の龍は使えると。あの頃の彼は十二歳だったが、今はもう立派な成龍だ。魔力量も跳ね上がっていることだろう。先に言った通り、世界を一度滅ぼせるほど」
…………。
何を、言っているのだろう。
やっと分かった私の頭はほんの一瞬真っ白になった。ティエラが私の腕に手を添えてくれた瞬間に意識が呼び戻される。
エスは、感情が稀薄で基本的に無表情だし、最初こそ冷たくてきついから分かりづらいけれど、いつだって自分以外に気を回して動いているような優しい人だ。
そんなに優しいエスに何をさせようとしているの? 国を滅ぼした過去を今は後悔しているエスに次は世界を、だなんて、どれだけ残酷なことをさせようとしているの?
「今後も最強の龍族達の下について怯えるより、利用してまた始めからやり直した方がいい」
ダメだ。何がしたいのか全く分からない。ここまで黙って着いてきていたなら分かるはず。龍族はまた集い、これから平和な世界を作っていくんだ。またやり直せる。全てを消し去って始めから、砂地からなんて始める必要はない。
「何がしたいのか分からないけど、エスが最強なのは変わらない事実でしょ? 利用したところで誰も勝てない。誰も残らない。その計画、最初からおかしいよ」
真っ当な意見をぶつけて通じる相手だとは思わない。だけど、何も言わずに口を噤んでいれば怒りも膨れ上がっていきそうだった。
「だからこその準備期間だ。そして、彼にも欠点はある。最強だろうと生物だ。魔力には底がある。必ず使い果たす時が来る。あの時のように。その瞬間に彼を殺せば、最初からだ」
思わず呼吸を止めた。『あの時』が九年前のその日に繋がる。それは、エスが十二歳の時点で国を滅ぼせる程の魔力を持っていながら一度囚われてしまった理由に通じていた。
仮面の者の言う通り、魔力が底をつくまで暴れ散らして力尽きたところを赤子のティエラ共々連れ去れば、エス自身は気絶しているのだから無抵抗だ。
「何をさせられるか分かったから、遠くまで走ったんだ。ショコラが守ろうとした地龍族の国を壊さないように」
「っ……!」
そんな、自分がどうしようもなく苦しい時まで……。エスは私の馬鹿に付き合いすぎている。聞いた側からもう苦しくて愛しくて泣きそうで、ティエラの肩を強く抱いて堪えた。まだだ。助けに行くまで、御礼を言うまでは泣けない。
「……じゃ、死んでくれる?」
普段の可愛いティエラから出るとは思えない冷酷な物言いと、いつの間にか強くなっている氷属性魔法の攻撃。ティエラが鋭い氷柱を漏れなく全員の頭に当てると、仮面の者達は塵となって風に巻き上げられていった。
「ショコラ、行くよ!」
「うん……!」
その言葉を合図に私の腕を引いて走り始める。ぐい、と目許を拭う仕草をするのを見てまた胸が痛くなる。本当は声を上げて泣いてもいい歳なのに、こうして私の為に強くいてくれる。山間で私を抱き締めてくれた時に言ってくれた言葉を誠実に実行してくれる。
たった一度の口約束みたいなものを誓いのように守り通す。お兄さんのエスと同じだね。ティエラは充分男らしくて頼りになる。いつも私を導いてくれる大事な人だ。




