3.ショコラ、独り占めしたがる。
地龍族の二人の魔法で街中は緑でいっぱいになった。バルコニーから活気付いた街並みを見下ろすだけで、また幸せな気持ちに浸ることが出来る。
目線を街から外して山間や街外れの方へ向けると、まだ暗い土色が残っている。あの辺りの処理が終わったら、この国を出よう。さすがに仮面の組織が待ち構えていると思う。待っていてくれたみたいで何だか気持ち悪いけれど。
私一人では切ない進捗率になるのは身に染みて実感しているから、今日も助けてもらおうとエスの姿を探しているんだけど……いない。部屋にも、広間にも、他にも皆が集まりそうな場所も捜してみたけど見つからない。
エスが炎龍族の二人みたいに城内探検をするとは思えないから、何処かでゆっくりしているんだとは思うけど。
適当に扉を開けては閉めてを繰り返していると、応接室の中で捜していた姿を見つけた。大きなソファーを寝台代わりに、横になって眠っている。
音を立てないように扉を閉めて、向かいのソファーに腰掛けた。
こんなところで寝ているなんて、連日魔力の上乗せばかり頼んでいたから疲れているのかもしれない。毎日平気そうにしているけど、一度であれだけの範囲を満たす魔力なんてさすがにエスでも疲弊するはず。エスが起きるまで私もここで休憩しようかな。見てるだけで時間が潰せそうだ。
肘掛けを枕に寝転がっている姿一つでも絵になる。見れば見る程にずるい。男性なのに肌も髪も綺麗で非の打ち所のない美貌の持ち主で、おまけに牙まで生えているなんて。
隣に並べば私なんて色が変わってるだけで何の変哲もない。髪色くらいしかはっきりと覚えてなかった癖にそれだけで恋をして、後々再会してその全てが美しいことに気付かされるなんて最悪だ。
私がもっと美人で可愛かったら、同じ龍族だったら、自信を持ってエスに近付けたのだろうか。
「エス……?」
今まで神の創りたもうた最高芸術品のように穏やかに眠っていたのに、急に眉根が寄せられて、エスの表情が苦しそうなものに変わる。
「エス? 苦しいの?」
当たり前だけど、寝ているから返事はない。代わりに小さな呻き声がその唇から零れ落ちる。
どうしよう。魘されている人って起こした方がいいのかな? 傍に寄って、片膝をソファーの上に乗せて座り込む。近くに寄ると何だか少し熱気も感じる。あんまり良くないんじゃないだろうか。そっと手を伸ばしてゆっくりと頭を撫でる。エス、エス、こんなに苦しそうな顔は初めて見た。何度も名前を呼び掛ける。
あ、目があった。まだ虚ろな瞳が私の姿を捉えたかと思えば、髪に手を伸ばされて撫でられる。
何故。ど、どうしたらいいんだろう。
「えっと、エス、大丈夫?」
「……昔の夢、見てた」
掠れた声でそう返事をしてから、急に起き上がったエスと至近距離で目が合う。
「わっ」
吃驚して距離を取ろうとした時、足を踏み外して派手にソファーから落ちてしまった。
「何やってんだ。お前」
「だ、だって、いきなり起きるから!」
「中、見えてる」
「えっ!? わああああ」
急いでスカートを押さえて下着を隠した。こんな状況ですら私の頭は、今日着けている下着が何だったかを思い出そうとする。
良かった。多分当たり障りのない良くも悪くもない下着だったはず。いや、そうじゃなくて、多分心配すべきところは下着じゃなくて見られてしまったことのような。
「いつまで床に座ってるつもり」
「へ、あ、うん、そうだね」
いつの間にかちゃんとソファーに腰掛けていたエスは、何でもなさそうにして私を見下ろしている。そうだよね。私みたいなちんちくりんの下着ごとき、エスに掛かれば大して驚きもないただの布だよね。
一人で慌てて変なことばかり考えて、何だか恥ずかしいし情けない。過剰に稼働していた心臓を何とか落ち着けて隣に座った。話を元に戻そう。
「魘されてたから起こしちゃったんだけど、昔の、嫌な夢だったの?」
先に私が何でここにいるか説明した方が良かったかもしれない。当のエスは、その辺りは然して気にしていないようだ。
「別に嫌な夢じゃない。内容教えてやってもいい」
嫌な夢じゃないにしても、魘される程苦しい内容がそこにあるなら聞くのは気が引けるけど、エスが自分のことを話してくれるなら聞きたい。
それはティエラが産まれる前の、エスがまだ王子様だった頃。アルバさんというティエラによく似た龍族の男性がいた話だった。
その話の節々に、うざい、うるさい、鬱陶しい、といつもの言葉が散りばめてあって、だけどそれ以上に大事に思っていたのが伝わってきて、エスはその人が本当に好きだったんだと胸が温かくなった。
ペトラから話を聞いて、ずっとエスが一人だったらどうしよう、子どもが一人で重圧に耐えられるのかと思っていたから、その話を聞けて本当に嬉しかった。
嬉しくて笑った瞬間に溜まっていた涙が溢れた。エスが不思議そうな顔をしていたけれど、私がペトラから話を聞いていたのを知らないからだよね。
子どもの頃、感情を瞬間的にでも心で感じることが出来た。それなら、今は歳月が経って薄れてしまったのだとしても、大人になったエスはいつかまた感じることが出来るかもしれない。
「何でお前、泣いてるの」
「だって、嬉しいから。ほんとに良かった……子どもの頃のエスがずっと一人じゃなくて……」
「その思考回路、謎に満ち溢れてるな」
何だか頭の心配されるの久しぶりだな。私の頭は残念ながらこれで正常だ。一つでもエスにとって良い話を聞く度、私が幸せになる。人を好きになるって不思議だ。
まだ涙を溜めている私の目元にエスの指が寄せられる。拭われてしっかりした視界の中で、柔らかくエスが笑っていた。
エスは知らない。その瞳が笑みで細められる時、蒼い瞳に睫毛が影を作って色に深みが増す。水色の睫毛が光を受けて煌めく時、星が瞬くようでそこが夜空に見える。
笑っているその瞬間だけ見られる星空だ。私だけしか知らないかもしれない。この星空――
「私だけのものにできればいいのに」
エスが目を見開いて驚いた顔をしているのを見た時、私はハッとした。私、今、口に出した? 何て言った?
「っ、わ、私、今……!」
とんでもないことを口にしてしまった! 立ち上がってこの場から逃げ出そうとしたけれど、背を向けた瞬間に手を引かれて、後ろ向きにエスの腕の中に着地する。
「俺が欲しいの?」
「いや、あの、そのっ、密着度が、高い……」
「俺は龍族ではあんまり触らない方。質問に答えろ」
絶対嘘だ。逃げようと足掻いているうちにも、エスの腕がきつく回って身動きが取れなくなる。背中いっぱいにエスを感じて、羞恥心は最高潮に達した。
答えられるわけがない。答えてしまっていいわけがない。でも、どうにも言い逃れの出来ないことを言ってしまった。ああ、もう、覚悟を決めて正直に言うしかない。
「エスは、笑うと瞳が星空に見えるの」
「は? 星空?」
「それを私だけしか知らないなら、私だけのものに出来たらって、思ったことがうっかり口に……」
もう、恥ずかしくて死んでしまいそうだ。とんでもない考え方をしていただけでも恥ずかしいのに、口を滑らせて本人に言ってしまうなんて、何て馬鹿なんだろう。
「そんな良いもんじゃないけど、欲しいならやる」
欲しいならやるって、何それ。思わず振り返ると、目と鼻の先で目が合ったからすぐに前に向き直った。何度見ても慣れるものじゃない。
やっぱり感覚はズレるものなんだな。さっきの言葉、どう考えても独占欲丸出しの告白みたいな言葉だったのに、何でもなさそうに、欲しいならやる、なんてどうかしてる。
また無駄に働いてしまった心臓を落ち着けようとしていると、首に重みを感じた。
「よく分からない。お前の頭で考えてることは」
ズレるというより、私が恥ずかしい考え方をしてるのをそのまま伝えすぎたせいで、エスには意味が伝わってないのかもしれない。
……ホッとした。気持ちを伝えるにしてもうっかりでは嫌だから。でも、じゃあ何で引き留めたの? 今も私を抱き締めたままなの? 私には、龍族では触らない方だというエスの方が分からない。
首にあった重みが耳の後ろに移動する。
「お前に触れる時だけ、得たいの知れないものを感じる。これ、何?」
「ひぁっ」
そんな近くで話し掛けるのは反則だ。耳が、鼓膜が、何ともこそばゆくて小さく悲鳴を上げてしまう。
「……何でそんな声上げるんだよ。何で煽るんだよ」
それはこっちの台詞だ。そんなところで囁くなんてひどい、ずるい、ぞくぞくする。耳に唇が当たった瞬間、思わず声を上げて大袈裟にも跳ねてしまった。
「あ……っ」
息を抜きながら何度も耳に口付けられて、茹で上がりそうになった時には齧られ、さすがに堪えられなくなって叩いてやろうと手を振り上げた。
まるでそうされるのが分かっていたように、その瞬間に綺麗に掴まれる。冷静に後の行動まで判断されているけれど、こっちは危うく全身の血が沸騰するところだった。
「人型はこんなこと、仲間にしたりしないよ」
「雄と雌じゃ話が違う。俺からすればお前が度々煽ってくる意味が分からない」
分かったかどうか以前に話が噛み合わない。煽るというのもしようと思っていないからよく分からない。もう恥ずかしいの限界だし、逃れようと振り返って胸を押すと、何だかエスが怒っているように思う。
今まではどこまで人なんだろうと考えていたけれど、ここまで分からないならほとんど龍なのだろう。
エスが怒るのも、触れるのも、抱き締めるのも。どれだけ優しく触れられても、色んな場所に唇を付けられても、縄張りのものと戯れているだけ。何とも虚しくなってきて、逃げようとするのをやめた。
「エスのこと、感覚が違うからなのかやっぱり分からないよ」
「それは俺の台詞。通常期でも雌さえいれば追い回すのが動物の雄。俺は動物。お前は雌。ただの口約束、煽られると何処まで守ってやれるか分からないから自衛して」
約束、やっぱり守ってくれているんだ。動物は約束を守れないなんてことはなかった。少しだけ気がゆるむ。約束がなかったとしたら、エスは少しでも自分の意思で私を食べたいと思ってくれるだろうか。それを望むのが残酷なのかもしれない。欲しいの? 欲しくないの? 頭の中がぐちゃぐちゃだ。
「エスは律儀だよね。何処かで人なんだって思い込んじゃうくらい。自然で境目が分からない」
「買い被り過ぎ。どれだけ知識を詰めても俺はほとんど動物。人にはなれない」
「エス、人になりたいの?」
幼い頃から知識欲は人型にまで広がっていたというエス。今も尚、それが続いているのだとしたら、今の言葉がそれに繋がっているのだとしたら。と、思わず反射的に口に出てしまったけれど、突拍子もなかったかもしれない。
「変なこと聞いてごめんなさい。私も龍族だったらって思う時があるから……」
「何で。龍族で良いことは一つもない」
「龍族だったらエスと同じだから」
「お前はそのまま人型でいい」
どうしても同じだったら分かってあげられるかも、なんて思ってしまうけれど、私がこの性格である以上は何も変わらないかもしれない。
一瞬で否定されてしまったな。どちらにしろ願ったところで龍族になれるわけじゃないから、何か新たに知れるように、一つの大きな疑問をぶつけてみることにした。
「……エスは何を思って口付けをするの?」
だからと言って、これにどういう答えも求めてない。聞いたところでどうしようもないのにな。
「同族への戯れ。強いて言えば反応が見たいから」
振り返って顔を見るといつもの真顔がそこにあった。龍族は戯れにキスをする。それは面白がられているからなのだろうか。
からかって遊ぶなんてフルミネだけだと思ってた。エスもそんなことするんだ。答えなんて聞いても仕方がないことを聞いたのは自分なのに、構えていた割りに衝撃を受けている私がいる。
「星空とか言うのはお前にやる。代わりに、この顔は俺が貰う」
遊ばれて一喜一憂させられているなんて。沈んでいた時、エスは私の手を口許に引き寄せて、静かに指に口付ける。
「え、あ……」
重ねてもう一度。指を啄まれた時にエスのお望み通りの顔をしてしまったのか、真顔ながら満足そうにして手を離してくれた。
「そう、その顔」
悪ふざけが過ぎる。これ以上はどうにかなりそうだ。幾ら触れられたところで耐性なんて付かない。逃げるようにして応接室から出て行く。上乗せ、今日は頼めそうにない。手を重ねられている場合じゃない。
「……約束したから守ってるんじゃない」
扉が閉まる瞬間に、エスが何か呟いた声が聞こえた気がした。




