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ショコラクリスタリゼ  作者: ななせりんく
第五章 嘗ての爪痕と牙の味
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11.ショコラ、甘い牙を受ける。




 そう言えば、急に雨が降ると旅人の男性達は雨宿りでさっさと服を脱ぎ始めたりするのに、エスはそんなことしないな。身体、冷えないならいいんだけど。

 横目でエスを見る。今の濡れてる状態が充分過ぎるくらい目に悪いから、そんなことをされて二乗にされなくて良かった。


 時々行儀の良さが垣間見えるというか、何かを食べている時も男性ってこんなに食べ方が綺麗だったかなと思う時がある。何をしていても動きが流れるようで優雅なのは、改めてエスが王子様だったからなのかな。


「何」


 じっと見つめすぎた。


「な、何でもない……」


 あんまり小さく話すと、絶え間無く耳に届く雨の音にかき消されてしまう。

 リプカさんとしていた話を今更ながらに思い出してしまった。頼んでみた方がいいのだろうか。この状況だと声を大にしないと聞こえないだろうし、全く何で今思い出してしまったんだろう。

 朝、噛み痕を確認するとまだしっかりと残っていた。上書きしてもらわないとまだ暫くは残っていると思う。


「あ、あの……エス……」

「何だよ」

「あのね、えっと、噛んでほしいの……」


 この台詞で合ってたかな。龍族の雄を誘う時の常套句、つまりはこれを口にしないと上書きしてもらえない。

 濡れてしっとりと貼り付いたブラウスのリボンを解いて、少しだけずらして首元を露にする。


「…………は?」


 時間にしてたっぷり十秒程、真顔で固まっていたエスは訝しげに眉を跳ね上げる。


「あ、その、誘ってるとかじゃなくて、あの、噛み痕を上書きしてほしくて……」

「……ああそう、通常期の雄の牙を受けるのはあんまり勧められないんだけど」


 エスの冷たい指先がベルクに噛まれた牙の痕をなぞる。


「これ、痛かっただろ。肉に穴開けるんだから当たり前だ」

「痛かった、けど……」


 あまり笑ったり大声出したりしないから、口を大きく開けたりしないエス。

 今まで気にしていなかったけれど、牙が二本、左右対称に綺麗に生えているのが時折見える。何処までも完成度の高い顔立ちに牙はずるいと思う。


「もしかして、エスの方が怖い?」


 まさかと思いながら訊ねると、真顔一辺倒だったエスが私の手を掴んで指に牙を立てる。

 小さく開いた二ヶ所の穴。掠り傷程度の穴から血が零れ落ちる前に、その傷口を治癒魔法で綺麗に閉じて見せる。


「大丈夫だよ。この間は危なかったけど、今は違うよ」


 まだ戸惑いが色濃く浮かぶ表情、何とか安心させるように畳み掛ける。私は死なない。優しいエスの牙では噛み殺されるはずがない。


「エスの牙なら痛くてもいいよ。痛くてもきっと――」

「もういい。……こっちこいよ」


 一度短く瞼を閉じてから、覚悟を決めたらしい蒼い瞳を見ると、急に怖くなってきて逃げようと後退してしまう。

 エスはそんな私をすぐに追いかけて、半ば覆い被さるようにして地に手を着いて近付いて、優しく背中を抱いて引き寄せてくる。

 怖いのに優しい。何でこんな風に思うんだろう。


「お前って変。自分から差し出しておいて逃げるって何」

「だって、エス、急に怖くなるから……」


 その瞳を見つめるだけで心臓が大きく脈打ち、うるさく捲し立ててくる。脳内で警鐘が鳴り響く、その瞳の色は危険だと。

 約束をしてくれていてもエスは男性なのだから。人型とは違う種族の、龍族の雄なのだから。


「俺が怖い?」

「エスが、というか、その目が怖いかな」


 その少し濡れたような熱い眼差しが怖い。

 私の答えでエスは何故か機嫌が良くなったらしい。私が手元で握り締めていたバレッタを掴み、肩に掛かる髪を後ろに除けて、落ちて来ないようにバレッタで留められる。

 ずらしたブラウス、除けられた髪。肌に触れる湿った空気が緊張感を煽ってきて、更に身体を硬直させた。


「噛むだけとか、さすがに止めてやれるか分からない」


 そう小さく呟いてから、緩慢な動きで肩口に顔を埋めていく仕草が、あまりにも綺麗で息を呑んだ。

 エスの牙が狙いを定めてくる。


「い……っ……!」


 勢いよく肉を突き破って与えられる鋭い痛み。穴が開いた瞬間から傷口が熱を持って、そこから燃え広がるようにして身体が火照り出す。

 控えめに差し込まれた牙から感じる痛みの中に、ほんのりと混じる甘い感覚は何なのだろう。ベルクの時には無かったそれに気付いて、膝の上できつくスカートを握り締めていた手をエスの胸元に移動させる。

 身体の芯から痺れるようなこれは一体何? こんな感覚は知らない。

 奥歯を噛み締めて耐えるように服を掴んだ時、心なしかエスの体温が上がったように感じた。


「ん、お願い……もっと、刺して……」


 この感覚の名前が知りたいからと、懇願するように切ない声になる。

 息を詰めたエスに抱き込まれて、強く牙を押し込まれる。深く捩じ込まれる程に増す痛み。それ以上に、中にエスの牙が入り込んでいると考えるだけで熱を上げる身体。

 全然違う。噛んでいるのがエスだというだけで、何で二種類の感覚が入り交じるんだろう。


 短く息を吐き出しながら、エスの胸から腕に移動させた手が力無く爪を立てて、縋るように弱く引っ掻いて呆気なく滑り落ちる。

 痛みとは別の感覚に支配されて、だんだんと息が荒くなる。


 不意に飲み下す音が聞こえて、そう言えば鎖骨に流れ込むあのぬるぬるを感じないことに気が付いた。

 器用なことに、溢れ出る血を飲んでしまったと言うのだろうか。美味しくないはずなのに。吐き出してくれても良かったのに。


「あ……っ」


 気が逸れてしまった私の様子に気付いたのか、エスは容赦なく牙を潜り込ませてくる。痛みと共に痺れが強くなって、堪えきれなくて膝が擦り合わさる。

 背中にあったエスの手が腰を掴んできた。ブラウスとスカートの隙間に指を入れたのか、冷たくなっていた肌に温かい手が触れて、思わずびくりと大きく反応してしまった。

 そのままゆっくりと撫で上げられて胸に指を掛ける直前で止められる。


「……危なかった」


 牙を引き抜いたエスは、私を抱えながら傷口を強く押さえる。口許の血を指で拭う姿が異常に艶めいて見えた。


 危うくブラウスをたくし上げられそうになったことを思い返すと顔に熱が溜まる。

 まさか、勘違いだと思いたいけれど、食べられそうになっていたのかもしれないと思うと、やっぱりただ約束を守ってくれているだけなんだと安心する。全く女だと思われていないわけじゃなくて本当に良かった。


「通常期の牙にそんな作用はないはずだ。何でそんなに……」

「わ、私、何か、すごく、恥ずかしい反応した気がするね!」

「気がする、じゃなくてしてた」


 普通であれば痛みに耐えるだけの行為のはずが、よく分からない甘さに飲み込まれて、更に痛みを要求するなんてどう考えても変態だ。予想外の変態に遭遇するとエスだって困るだろう。


 とても平気で腕の中に収まっていられなくなって逃げようとすると、抱き寄せられて首筋を啄まれる。

 軽い音と柔らかさが恥ずかしすぎて暴れると心底鬱陶しそうに溜め息を吐かれた。

 それから傷口を癒す為に唇を付けられる。やっぱり、くすぐったい。お腹の奥からじれったく湧き出てくるような。


「エスのは、違うの。エスだからなのかな……」


 自分でも何を言っているのか分からない。エスを特別だと、好きだと思う気持ちが痛みを左右するとは思えないのに。

 牙で開いた穴を舌先で掬うようになぞられて、大袈裟なくらいに身体が跳ねる。


「ひゃ……ん」

「……感謝されてもいいくらいだ」


 感謝? それは、いつもしているのにな。そこで話されると息と唇が肌に当たる。くすぐったくて頭が上手く回らない。

 結局あの甘さの意味も分からないまま、不完全に燻る熱を封じ込めようと必死だった。

 このまま離してくれなかったらどれだけ幸せだろう。そんなことを思いながら、エスの背中にそっと腕を回す。

 あれだけ激しかった雨は、いつの間にか小雨になっていた。




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