5.ショコラ、駆け落ちを提案する。
エルフ族が棲む森は毎日のように雪が降り、地面が真っ白に覆われていた。ちょうどこの渓谷くらい寒かったと思う。寒い場所に棲んでいたのに私は寒がりで、小さな頃はあの気温があまり好きじゃなかった。
そんな真っ白な森が仲間の血で赤く染まった事件。それが虐殺というものだと知ったのは檻から出た後だった。何故か私はその時のことをはっきりと覚えてはいない。気が付けばもう檻の中に繋がれていたから。だけど、一人残らず仲間が死んだことと、お母様が私のすぐ傍で殺されたことは覚えている。隣にいたお母様が崩れ落ちる映像と共に記憶が途切れるのは、何故なのか。
凍えそうになって重い瞼を持ち上げた。寒かったせいか、あんまり思い出したくない感情を夢で思い出していた。
何処から音が聞こえてきたかと思えば、ティエラが朝食の準備をしているようだ。私が起きたことに気が付いて、「ショコラ、おはよう」と声を掛けてくれる。朝の挨拶なんて何年振りだろう。思わず感動してしまいながら、ティエラの名前を呼んで挨拶を返せば、嬉しそうに笑うものだからとんでもなく可愛かった。
どうもエストレアの姿が見当たらない。出掛けているのだろうか。出ていくにも御礼を言ってからにした方がいいよね。待っている間何か手伝うべきかと向かおうすれば、「お客様は座っているものだよ?」と制されてしまった。まだ小さいのにしっかりしている。
そのままサンドイッチは何が挟まっていると嬉しいかという話になり、ティエラはカツサンドが一番に好物なのだということが分かった。ドラゴンだから肉食なんだろうと勝手に想像していたけれど、パンに挟むのが良いなんて意外だ。
まだ、エストレアが帰ってくる気配はない。なんでこんなに嫌な予感がするんだろう。
「エストレア、遅いね」
「あー、ちょっと遅いね。でも心配しなくて大丈夫だよ。片づけに行ってるだけだから」
片付けるって、何を? そう口にしようとしてやめた。『害なす者はさっさと殺せ』という冷酷な言葉を思い出す。恐らく、片付けているのはここに結晶龍を捜しにきた旅人達だ。
「え、ちょっ、ショコラ?」
私を呼び止めようとする声を振り払って外に飛び出した。信じられないくらい寒い。走っていく程に吐く息の白さの不透明度が増していく。どんどん気温が下がっている。
この寒さの先にエストレアがいる気がした。氷龍族という種族がどれだけの力を持ち、どれだけ強いかは知らない。だけど、この異常な気温の低下は自然の現象とは思えなかった。
更に進んだ先で沢山の死体に囲まれたエストレアがいた。周囲を舞っていた氷の刃が細かく砕け散って空気中に霧散する。恐ろしく綺麗な攻撃だ。死体は氷に閉じ込められ、串刺しにされている者も瞬時に凍結させられているのか血を流していない。
死体を見下ろしては谷底に蹴落とすエストレアの蒼い瞳は暗かった。死んでいる旅人達は全員、エストレアに銃や刃を向けたんだろう。恐怖に歪んだ顔、前に出された腕。誰もが錯乱して攻撃を仕掛けたのが窺える。
私だけは傷付けない。垣間見えた優しさは本当にその言葉通り、『私だけ』を敵から除外しての言葉だった。裏を返せば私以外なら意図も簡単に殺せてしまうということだ。
「……さっきから、何突っ立ってんの」
「え、あ……」
暗い瞳が僅かに光を映して私に向けられていた。何と言っていいか分からない。止めにきた? もう終わってしまっている。止めることが良いことなのかもわからない状態だった。多分、先に殺さなければエストレアが捕らえられている。
何の感情も読み取れない無表情。今までも害なす者が近付けば、いつもこうして殺していたのかな。今回は国からの発行令だ。こんな数では済まない。エストレアを狙う旅人は増え続け、全員殺してしまうか捕まらない限り、ずっと終わらない。ずっと抜け出せない。
「やっぱり、殺さない方がいいです」
一人残らず谷底へと消し去ったエストレアは、私を見て片眉を跳ね上げる。それから、真っ直ぐに私に向かって歩いてきて私の肩を掴んだ。
「お前は馬鹿だ。どんな強運の持ち主か知らないけど、お前みたいに綺麗なままで何年も生き残れるのは稀なことだって、いつまで気付かないつもりだ」
静かに怒りを湛えた瞳が燃えているように見えた。私は本当に運が良かった。誰からも嫌われていて一人だったけれど、こんな風に狙われたことはない。何も分かっていないのに口を出しているのだから、エストレアが怒るのは当たり前だ。
人形のように綺麗だからか、怒るとかなり怖い。だけど、どうしてだろう。助けてもらった。救ってくれた。一度存在に憧れてしまったからか、今更嫌いになれない。
「殺さなきゃ生きていけなかったのは分かります。でも、もう殺し続けるのはダメです。このままじゃ、ずっと終わらない」
生死の話をしてもその瞳は揺るがなかった。まるで死を怖がっていないみたい。そこに一欠片の感情も無いみたい。
何とか説得出来ないものかと思案していると、雪を踏み崩す足音が近付いてきた。まずい。また旅人達が来た。直ぐにでも攻撃準備に入ろうとするエストレアを見て、魔力を練っている腕にしがみついた。
「っ、何してんだよ」
「こっち!」
魔力が辺りに分散したのを見てから、その手を引いて走り出す。一刻も早くエストレアを旅人から遠ざけたかった。エストレアの為にも、旅人達の為にも。
確かに私は平和ボケしている。戦闘能力も低いのに女一人で旅をして、あの鳥籠を出てから無事に生き延びてこられたのも、ほとんど運だけの馬鹿丸出しだ。エストレアはあれから、私なんかよりずっと苦労してきたのだろう。だけど、どこかで断たなければ終わりはやって来ない。ずっとその手が汚れていくのを私は見過ごせない。
もう、誰もいないはずだけど……。肩で息をしながらエストレアを見上げると、変わらず無表情のままそこにいた。何とか一度、エストレアが誰かを殺すことを回避出来た。ただ逃げただけだけど、エストレアと旅人を一度救えた。
「逃げただけ」
「そ、そうですけど、回避出来るなら逃げてもいいんです! もうエストレアに殺させません」
止めたからと言って罪が流れるわけじゃないけれど、重ねるよりずっといい。きっといつか更正出来る。止めて止まれるのなら、きっと変われる。多分、元は優しい人だろうからやめようと思えばやめられるはず。
誰かが殺さないように見張りながら守ればいい。何より、こんな、誰かを殺さなきゃいけないような場所にいるのが良くないんだ。
「私は、エストレアを守りたいです。捕獲令のない、追われない場所まで一緒に逃げませんか?」
考えをまとめて口にする。あれ、一緒に逃げるって、思っていたより聞こえ方が違うんじゃ?
まだ会って三日なのに、駆け落ちみたいに聞こえることを口走った。おまけに勢い余って握手を求めるように手まで出してしまった。
「駆け落ちみたいなこと、提案されたのはさすがに初めて」
「ですよね……ごめんなさい……」
やっぱりそう聞こえるよね。頭から湯気が出そうだ。私は一体どれだけ会話力がないんだ。謝りながら出していた手をゆるゆると引っ込めようとした時、体温の低い手がそれを阻止するように掴んできた。
「出来るならやってみたら。その話、乗ってもいい」
こんなめちゃくちゃな提案を飲んでくれる人なんているんだ。相変わらず真顔だからどんな気持ちでそう答えてくれたのかは分からないけれど、僅かでも希望が差し込んだのだから頑張るしかない。
意気込む私を余所にエストレアは帰路を歩き出すから、慌ててその背中を追い掛けた。
帰ってきた時にはティエラが三人分の朝食を用意して待っていた。笑顔で「おかえり」と迎えられて。それも久しぶりでやっぱり感動してしまった。ただいまなんて、また誰かに言える日が来たんだ。
様々な具材が挟まっているサンドイッチを見てお腹がなった。どうしてこうも私のお腹は正直なのか。ティエラが笑いながら食べることを促してくれる。
誰かとご飯を食べるとこんなに美味しかったのかと、一口齧る度に幸せを感じてしまう。これを食べたら発つとエストレアが言うものだから、本当に一緒に逃げてくれるんだと、また嬉しさが込み上げてきた。
「うん? どこかに行くの?」
「一緒に逃げること、提案されたから乗った」
「へー、なんか駆け落ちみたい。僕も付いてくるけど。ショコラ、意外と大胆だね!」
恥ずかしさも同時に込み上げてきた。逃げ切るまでの間だけの即席の仲間だけど、他の誰でもない恩人のエストレアとだから喜びも段違いだ。
こんなに嬉しいことってあるんだな。諦めずにティエラを助けに渓谷に入って本当に良かった。一頻り喜びに浸っていると、エストレアが何やら私の肩を掴んできた。どうしたのだろう? 名前を呼ぼうとして、唇に指が押し当てられる。
「お前、何回もしつこく呼んできそうだからエスでいい。後、普通に話してくれていい」
つまり、愛称で呼んでいいということ? 愛称に敬語なし、何だか途端に仲間っぽくて、嬉しくて頬がゆるんだ。
今感じているこの幸せ、たとえ離れ難い原因になってしまうとしても、一つも残さずに噛み締めなきゃいけない。