7.ショコラ、助けを請われる。
「こんな緊急事態でなければ、ショコラちゃんの湯上がりなんて野郎共に見せたくなかったわ……」
リプカさんは額に手を当てて嘆息している。それに対し、エスとティエラは不思議そうに首を傾いだ。
「ショコラのお風呂上がりならもう何回も見てるよね?」
「そうだな。特に珍しくも――」
ティエラに続き、エスもそれを肯定しようとした時、エスはリプカさんに胸ぐらを掴まれて、全力で前後に揺らされていた。
「あれを見て何とも思わないなんてどうなってんのよ!? 雄として機能してんの!?」
こんなに真顔で揺さぶられている人は初めて見た。まるで人形を相手にしているみたいでちょっと怖い。
「おいリプカ、そういうキレーぶってるやつ程どんな如何わしいこと考えてるか分かんねぇし、案外もう頭ん中で何回もヤ――いってえ!」
エスから手を離したリプカさんは、近くにあった枕をプロミネの顔面目掛けて投げ付けた。それはもう目にも止まらぬ速さだった。
「あんたはいちいち汚らわしいわね!」
「お前こそ雄が何足るか勉強しとけよ! べんきょー!」
淡々とした声でエスが「俺の枕」って呟いているけど、そうだよね、エスのベッドにあったんだから、今プロミネの顔に豪速球の如くぶち当たったのはエスの枕だよね。
ここは閃の国のとある宿屋の一室。
何故こんなにワイワイしてるのかというと、発端は一時間程前に遡る。
地龍族は一旦去ったけれど、ペトラが術式を使って干渉してきたことから、今晩は分かれている方が危険と判断して宿で大部屋を取った。それから、お風呂で汚れを落としてから今に至る。
プロミネとリプカさんがいるお陰で部屋が賑やかだ。
二人が喧嘩している間に枕を救出してきてエスの元に返す。多少いびつな形になってしまった枕を受け取ったエスは、静かにプロミネの寝台に向かうと平然とすり替えていた。
「つーか、静かに何やってんだよ?」
「お前の顔に当たった枕とか汚い。換えて」
「てめぇ……」
ふとエスの行動に目が行ったらしいプロミネは、青筋を立てながらエスに掴みかかっている。予想していなかっただろうリプカさんの時とは違って、少しばかり鬱陶しそうな表情をしたエスは掴み返していた。
良かった。なんだかんだでエスがプロミネ達と仲良くなれて。嬉しくて笑顔になってしまう。
喉が渇いた。何か飲み物を買いに行きたい。けれど、リプカさんは二人に混ざろうとしているし、ティエラは仲裁が大変そうだし、誰も手が空いてない。
すぐに戻れば大丈夫だと、私は一人で賑やかな室内からそっと抜け出した。
この国も気温が低い方だから、部屋を出た瞬間からもう冷えを感じている。早く戻らないと湯冷めしてしまう。
「無用心だね。妖精さん」
廊下を歩き出してまだ数秒なのに、振り返った先にはペトラが悪い笑みを浮かべて佇んでいた。
「妖精さん馬鹿だよね。見計らってるに決まってるでしょ」
「あ、うん、そうだよね」
「……妖精さん、その受け答えは返答に困るよ」
気が付けば、宿の廊下でも何でもない亜空間に誘われていた。どこを向いても、色んな色をかき混ぜたみたいに空間が歪んでいる。
「まあ安心して。今回は僕が妖精さんとお話したいが為に来たから」
何処へ連れていかれるのかと問おうとした時、何の前触れもなく抱きかかえられて変な声が出る。私を持ち上げたペトラは、「軽すぎる、実は五歳児が化けてるとかじゃないよね?」と、確かめるように重量挙げをしていた。
前にエスが私を軽いと言っていたけれど、そんなに軽いとは知らなかった。今まで体重は人並みだと思っていたのに。
「やっぱり妖精さんであってるんじゃない? 他の種族はこんなに軽くないからね」
「それは、分からないけど。あの、そろそろ下ろして?」
危ない雰囲気は今のところは感じない。でも、普通に会話をしていても、いつ豹変するかと思えば気が抜けない。
私にもエスにも興味があるから過去から今までの穴埋めがしたい、と言いながらペトラはやっと下ろしてくれた。
「妖精さん、平和ボケしてそうだからそれがいいのかな。……ねえ、氷龍族の昔話、聞きたい?」
それは知りたい。でも、そんな奥まった話を本人の許可なく聞いてしまっていいものか。
「前置きすると、エストレアには全くと言っていいほど非はないと僕は思ってるよ」
エスを擁護する言葉から始まるなんて、より一層不思議さが増す。
敵なのにエスを庇うのかと聞けば、自分としては興味の対象だから恨みはないと返される。敵国だからと言って誰もが皆同じ意見で固まっているわけではないと。
この人は何を考えているかまるで分からなくて怖いけれど、恨みはないという言葉なら信じてもいいような気がする。それが嘘なら、こんなに穏やかに私と話なんてしないはずだ。
まだ心の準備が出来ていないのに、ペトラは話す気満々で適当に腰掛けていた。私もそれに倣うしかない。
ペトラは龍族をよく知らない私にも分かるように、丁寧に話し始めた。
龍族は長寿な種族であることから、増えることを重要視しておらず、十年に一度を目処に繁殖しているのだという。とは言えそれは建前で、龍族の種の定着率の低さから、一頭の母体につき約十年に一度しか子が宿らない。それは雌が異種族でも変わらないらしい。
そう言われてみれば、出会ってきた龍族の皆は、ティエラを除いて二十代ばかりだった。
そんなに歳が離れていない雷龍族の兄妹もいることから、例外もあるにはあるんだろうな。
少しずつ自分の中に落とし込みながら聞いていると、「という訳で、僕達の世代にエストレアが生まれちゃったんだよね」とペトラは何処か遠くを見つめるような目をした。
ここから氷龍族の、エスの話に切り替わるみたいだ。
王族に生まれると、幼い頃から国同士の会合に連れて行かれるらしい。
かと言って子どもが口を挟める話をしているわけでもないからと、ペトラは同い年だと聞いていたエスに話し掛けたりしていた。
話し掛けたら必ず返事がくる相手ではなかったと、ペトラは困ったように笑う。
「氷龍族で八割、龍の形態は結晶龍なんてさ、幼くても威厳があるし異質だった。あの空気は、子どもながらにすごいと思ったな」
生まれた頃から王の品格を携えていた、と評されるエス。小さな頃からもう人格が出来上がっていたのかもしれない。それは確かにすごい。
見たこともない過去のエスに尊敬の念を抱く私の傍らで、ペトラは濃密な灰色の睫毛を伏せた。
だけど、雄は縦社会だと。上には何百歳の龍が数え切れない程いる。いくら直系の王族だとしても、十年余りしか生きていない龍に跪けるか。内心どう感じているかと。
嫌な予感に息を止めた。背中を悪寒が滑り落ちる。
同年代でもペトラのように、素直にすごいの一言で終わらせられる人はそんなに多くはないと思う。
ペトラは引き攣った笑みを浮かべて、「当然気に食わないよね」と続ける。渦巻いた嫉妬は本人への重圧としてのし掛かるのだと、残酷な答えが返された。
エスは、この世界に生まれただけなのに、本人は何も悪くないのに。どれだけひどい目に遭ってきたのか。あまりにも理不尽だ。
「あの頃の僕は今の妖精さんと同じ気持ちかな。子どもがそれを見てても嫌な気分になったよ。それから、自分は凡庸で良かったと思った。僅かな人の心って醜いでしょ」
何故か今無邪気に笑うペトラ。全く笑えない。ペトラがそう思うのも無理はないと思う。
「それにうちのベルク様は龍九割だから圧倒的に強くて、先の戦争で氷龍族の頭の首を取った。その瞬間、王族の最高位はエストレアになるよね」
それは、エスが、全ての責任を背負わされるということじゃないだろうか。跪いているふりをしていた大人達が、十二歳の子どもに掌を返して一斉に責め立てる。
そんなの、追い詰められ過ぎて国を滅ぼしてしまってもおかしくない。
「まあ、嫌な話はそんなところかな。事実上地龍族は戦争で勝ってるんだ。犠牲は多かったけど頭が生き残ってる」
知りたい話だったのに、聞いてしまってから後悔が押し寄せる。こんな話、エスは私にしたくなかっただろうから。
「……生き残ってるのも、問題なんだけどね」
掻き消えてしまいそうな呟きに疑問符が浮かぶ。
生き残ったのは、喜ばしいことじゃないのだろうか。戦争は、難しい。
「ベルク様もだけど、エストレアの立場は人型並みに感情があったら耐えられたものじゃないと思うよ。王子なんて碌なことないね」
どう反応していいのか、本当に困る。
ペトラがベルクの話をするなら分かるけれど、どうしてエスのことをそういう風に考えて、その話を私にしてくれるのかが分からない。
「それが、妖精さんを抱えてるエストレアときたら人型みたいで――あ、出てきた。見つかっちゃいそう」
話を中断して服の内側を漁り、術式の書かれた紙を取り出して、さっさと帰ってしまおうとしているペトラの服の裾を掴んだ。
「待って、ペトラはどうして――」
「やだ。殺されたくないから帰る。調子良い話、妖精さんが女神なら二頭のこと助けてって言いにきただけだし。じゃあね」
そう言って見せた儚げな笑顔は、今までの作り笑顔と違って本物に見えた。
亜空間が先程までいた廊下に変わる。一歩足りとも動いていない。ペトラは本当に話をしにきただけだった。
あともう少し知りたかった。ペトラはどうして、ベルクだけでなくエスを気に掛けるんだろう。それだけが聞けなかった。
ひやりとした空気を感じて、恐る恐る振り返るとエスがいた。いつもの真顔と言えば真顔だけど、この異様な怖さは……
どれだけの時間ペトラと話していたのかは分からないけれど、思っていたよりも長かったのかもしれない。捜しにきてくれたのだろうか。
「何の為の大部屋だよ。お前が干渉されるからだろ」
「ご、ごめんなさい」
まだ怒られるだろうと待ち構えていたのに、突然頭を引き寄せられて額が胸元に着地する。エスのお腹に手を着いてしまったけれど、何故この状態になっているのか。
「あ、あの……」
「また違う匂いがする。どこに連れて行かれてた」
関わる龍族の数が増える毎に、エスが私に触れる回数が増えているように思う。そんなに匂いがするのかな。
こんな風に優しく触れられるのは困る。嫌じゃないから困るんだ。このまま、エスから離れられなくなりそうで。
亜空間に引き摺り込まれて少し話をしていただけだと答えれば、エスは話をする為だけにペトラが来たことを不審がっている。
それもそうだ。さっきまで話していた私も結局はよく分からないままだから。
「女神なら助けてって言われただけだよ。私もあの人のことはよく分からない」
エスの話をしていたことは伏せておいた。エスが自分から話さない内容には知られたくないこともあるだろうし、そう考えたら、やっぱり聞かない方が良かった。不可抗力とは言え罪悪感が募る。
「女神じゃないけど助けてもいいかな?」
「勝手にすれば」
声色が呆れてる。自分を殺しかけた種族を助けるなんて確かに馬鹿みたいだけど、二人が教えてくれた話だけは信じてみたいと思うから。地龍族を助けたら、エスも助けられるような気がするから。
「こうしてたら、大人しく収まってる癖に」
髪を梳く手が肩に掛かる髪を除けて、ベルクに噛まれた場所を露にする。
見上げるとそこを凝視しているエスの蒼い瞳が映った。治してもらったのに、まだそこに何かあるんだろうか?
「お前は馬鹿で勝手で、残酷だ」
馬鹿で勝手は身に覚えがある。だけど、残酷とはなんだろう。また無知で馬鹿だからと無意識に酷いことをしてしまったのだろうか。
首筋から移動させられた目が合うと逸らせない。どうしよう。何がエスにとって酷いのか分からない。何を返していいか分からない。
「う、わ、私、教えてもらったんだけど体重軽かったんだね」
「そうだな。ティエラより軽い」
そう言って私を目線の高さまで持ち上げてみせるエス。しまった。話題が悪い。もっと困ることになってしまった。どうしたら、一体どういう風に聞けば……。
目を合わせていられなくて、残酷の意味も分からなくて、さっき聞いた話も頭の中でぐるぐる回って、私は思わずエスの頭を抱え込んだ。やってしまった私が一番びっくりしている。
「っ、お前、予測出来ることしろよ」
「だ、だって、分からなくて……!」
当然驚いているエス、どもる私。
この廊下を誰も通らないことが幸いというくらいに意味が分からない状況だ。
「地龍族も助けたいけど、一番助けたいのはエスだから。何がエスにとって残酷なのか分からないけど、私はずっとエスの味方でいたい」
いくら分からないからって私は何をぶち撒けているのか。全部本心だけど、エスは私がエスの話を聞いたことは知らない。聞かされてるエスは訳が分からないと思う。
何も返されない。色々言い過ぎたから困っているのだろうか。そっとエスから離れると、すぐそこで視線がぶつかった。蒼玉のような高貴な色をした瞳が、どこか不安げに揺れたのは気のせいか。
私はいつもめちゃくちゃなことをしている。長い睫毛、高い鼻梁、花弁を押し付けたような唇。この白皙の美貌を、何も考えずに抱き締めていたのだから。全く、何をしているのだろう。
「……そう言うのが残酷なんだよ」
ゆっくり下ろされて、そのまま手を引かれて部屋に連れ戻される。飲み物が欲しかったことは、もう言えそうにない。
三人が元気におかえりと迎えてくれる。そんな温かい光景を冷たく感じる程に、エスの言葉の意味が飲み込めないままだった。




