5.ショコラ、口付けで癒される。
この時を待っていた。部屋の中で一人。今しかない。
手枷をぶつけて打ち鳴らす度に痛みが増していく。痛い、痛くてたまらない。
出来れば枷から手を引き抜ければ良かったけれど、何度か挑戦してただ擦り傷が増えただけだったのでやめた。
手枷を壁にぶつけたり、全体重を掛けるとそれを支えている杭が少しだけ動く。何度か頑張れば杭を壁から引き抜くことが出来そうだ。
体重を掛ける度に激痛が走る。手首がどんな状態になっているか、想像するだけで更に痛いからそこからは目を逸らす。
何度目かの挑戦で杭がかなり抜けた。その代わり、今度こそ手首を派手にやってしまったのか肘まで血が伝ってきた。なんだか外が騒がしい気がする。ベルクやペトラがやってくる前に逃げ出さなければ。
痛みを無視してもう一度。このたわみなら、もう一、二度で取れそうだ。
希望の光が見えてきた時、無常にも扉が開く音が聞こえてきたりする。神様がいるのなら本当に意地悪だと思う。覚悟するように私はきつく目を閉じた。
……何だか、手首がひどく冷たい。そう思った瞬間に手枷が弾けるように壊れて手首が解放された。
だらりと落ちてくる両腕。痺れ切ったそれは自分のものではないみたいで、痛みだけを伝えてくる肉塊のようだ。
「じっと待てないのか。お前は」
聞き慣れた低い美声が呆れを含んだ声色で紡ぐ。
「私、助けに来ないでって……」
「そんなの承諾してない。いつまで経っても人の話が聞けないやつの言うことを聞いてやる義理もない」
冷たく淡々とした物言い。意を決して目を開くと、私の目線の高さに合わせて片膝を着いているエスの姿があった。
これ以上無いくらい冷たい瞳をして私を見据えている。怒っている。私がまた勝手に動いて、何の成果もあげられずに状況を悪くするばかりだから。
「ごめんなさい。もっと早くに脱走する予定だったのに、出来なくて」
「……そうじゃない」
謝罪が受け取ってもらえない。それどころか、返された声はエスには珍しく苛立ちを少しも隠そうとしないものだ。
すぐに気を取り直したのか遅くなったことを謝られるけれど、どれくらい時間が経っているのか分からないから、エスが遅いのかどうかも分からない。それに、助けに来てもらっておいて遅いと思うことはないんじゃないかと思う。
「エスじゃなくて私が遅いの。さっさと情報を聞き出してここから逃げ出――」
驚いて次の言葉を忘れてしまった。
どうして、エスの腕の中にいるのか。その胸に頭を預けているのか。全く分からなくて困惑する。
エスの体温を少しだけ高く感じるということは、私は相当冷たいんじゃないだろうか。死の瀬戸際まで行ったという感覚は嘘ではなかったらしい。思わず乾いた笑いが出る。
普段なら、エスに抱き締められようものなら恥ずかしくて逃げたくなるはずなのに、今はドキドキもしないくらい脈拍が弱い。血になるものをいっぱい食べて持ち直さないと。
どうでもいいことばかり考えていると、抱き締めてくる腕の力が少し強くなる。ちょっと苦しい。
苦しいと伝えれば、うるさいと短く返される。怒っているようで、安心しているような、声だけでもエスが何を感じているのか分かるようになってきた。今日は特に分かりやすい。
見下ろせる範囲だけでもすごい出血量だから、傍から見ればかなり危ない状態に見えるに違いない。
出来ることなら腕を回したいけれど、血が抜けすぎてなかなか末端まで廻らないのか、痺れたままの腕は言うことを聞いてくれない。
エスの為に何でもしてあげたいと思うのに、何でいつも迷惑ばかり掛けてしまうのだろう。
手を離したことだって、そうするのが一番良いと思ったからだ。狙いが私だったのは予想外だったけれど、エスが危険な目に遭うくらいなら私が捕まった方がいい。なのに、結局は一番悪い結果になっている。
私が大人しくエスの言うことを聞いていれば違ったかもしれない。どうして言うことが聞けないのか。
「ごめんなさい……私だけなら、どうなってもよかったのに」
敵陣の中まで助けに来てもらえたことが苦しい。素直に喜べない。
私一人が勝手な動きをするだけで仲間を危険に晒す。ここに辿り着くのは決まっていたことだとしても、予定を狂わせる。被害なら私だけでいいのに、そう簡単に終わらない。
「っ、何で分からないんだよ。良くないから、迎えにきたんだろ」
背中から後頭部に撫で上げられた手がくしゃりと髪を掴んだ。項にエスの手の温もりを感じる。
自分が地龍族に負けると思っているのかと、まる信用されていないと。エスはいくらか悲しそうに聞こえる声で訴えながら私を抱き込む。
確かに、私はエスを信じたいとずっと思っているのに、信じていると確信している時は一度もない。私は自分の価値を信じられないことの延長で、仲間も信用出来ていなかった。
だから、どれだけ注意されても勝手な行動を取ってしまっていたんだ。あまりにも申し訳なくて、静かに涙が零れる。
「エス……」
やっと動くようになった両手でそっとエスの胸を押す。少しゆるめられた腕のお陰でエスの顔を見ることが出来た。
「助けに来てくれてありがとう」
どことなく悲しそうに揺れていた瞳が大きく開かれて、それから、優しく細められる。
「珍しく正解だ」
微かに笑ったエスが片手で私を抱えながら腕を掴んでくる。そこで痛みが甦ってきた。血を流している手首は擦り切れて赤く腫れている。
何とも痛々しい見た目をしているその手首から目を逸らそうとした時、エスの唇が傷口に寄せられて、柔らかく触れた。
「ちょっ、と待って、何で口……!」
形の良い唇に優しく啄まれる度に肌が元の色を取り戻していくけれど、代わりに私の羞恥は増していく。
唇だけで十分恥ずかしいのに、深い傷にそっと舌が這って変な声を出してしまった。
血が止まって傷口が塞がり、痛みが消える。伏せられた濃密な睫毛がやけに艶やかに見えて、傷を治されているだけなのに何をされているのかが分からなくなりそうだ。
エスの口許に血が付いてしまった。手を伸ばしてゆっくり親指で拭うと、エスは特に気にしている様子もなく、手首への口付けを再開した。
まさか、もう片方もそうするなんて言わないだろうか。予感は的中するもので、当たり前のようにもう片方も始められてしまう。この人は、この行為が私にどれだけ美しく映るか全く分かってない。
唇を噛んで必死で耐えた。そうしていないと、痛みとは違う感覚のせいで声を上げてしまいそうだったから。
漸く手首へのキスが止んだかと思えば、ベルクに殴られた頬を優しく包まれてまた泣きそうになってしまった。
こんなに優しく触れてくれるエスに心がないわけがない。それだけは絶対だと自信を持てる。
いつもの無表情なエスに戻ったかと思えば、次は何だか獰猛な空気を纏っていた。怒られるよりも格段に怖い。一体どうしたというのだろう。
「俺はお前の匂いしかしないのに、お前は目を離すとすぐ違う匂いを付けてくる」
…………。地龍族の二人と一緒にいたから匂いが移ってしまったのかもしれない。それよりも聞き捨てならない言葉が頭についていた。
エスは、私の匂いしかしないだなんて。もう少しくらいティエラの匂いも付けていてほしいものだ。常に私の匂いなのは恥ずかしすぎる。
臭くないか心配になってエスの首元に顔を近付けた。
残念ながら、私にはエスの匂いしか嗅ぎ分けられない。安心する匂いだと思っていたら、何故か瞼に軽くキスを落とされた。
……エスはこんな人だっただろうか。いや違ったと思う。いくら今は脈が浅いと言っても恥ずかしいものは恥ずかしい。心臓が痛い。心配させたのがこんな作用をもたらすとは思わなかった。あまり口を使うのはやめてもらいたい。
「っ! これ、何された?」
血相を変えてどうしたのだろうと思えば、エスの視線は首元に向けられていた。
なぞられると思い出させるかのように走る痛み。ベルクに噛まれていたのをすっかり忘れていた。
「あ、それ、ちょっと噛まれただけだよ」
「何がちょっとだよ! 鬱血までしてる!」
おお、珍しく声を荒げているエスだ。そんな様子が見られて嬉しいなんて思っている私は馬鹿だろう。
結構深く差し込まれたとは思っていたけれど、鬱血しているとは思わなかった。
「なかなか匂いが消えないと思えば……他は? 噛まれて何された?」
「えっと、ほんとに噛まれただけだよ?」
思わず笑ってしまえば笑い事じゃないとムッとされて、そこまで怒ってくれるのが嬉しかったのだと返せば、エスは眉根を寄せたまま固まる。
また頭の中がお花畑だと思われてしまうだろうか。一人嬉しい気持ちでいっぱいになっていると、怒ったままのエスが首元に顔を近付けた。
傷口に唇が押し当てられる。
「っ、そこやだっ」
そっと啄まれる度に背筋が震える。
唇の感触が、舌の温かさが何とも言えない種類のくすぐったさで、逃れようとすれば腰に回された腕のせいでどうにも動けずに甘受することになる。
「ふ、あ……エス……くすぐったい……」
「……その声、脳に響く」
思いの外、妙に鼻に掛かった声が出てしまったせいで唇を指で閉じられる。
だって、唇も髪も当たってくすぐられるようなのだから。心なしか甘い声で言われて、脳に響くのは私の方だ。
「ん……エス、まだ……?」
「やめろって、食い千切るぞ」
艶めいた声がすごく近い。傷が深くて時間が掛かるのかもしれないけれど私の心臓がもたない。
違う場所に唇が触れる度に肩が揺れて、また声が漏れそうになると甘噛みされる。鋭い牙が当たって体温が上がる。
この牙になら、食い千切られてもいい。そんなことを口にしたらエスは怒るだろうか。
治療が終わった時にはぐったりしていた。恥ずかしさで全身が硬直していたせいだ。
こうなるのは私だけで目の前の人はいつも通りの真顔を貫いている。あの色気のある美声は意地悪過ぎた。耳がどうにかなると思った。俯いて軽く胸を叩いてやる。びくともしないのがまた恨めしい。
人の気も知らないで顎を持ち上げてくるエスは、そっと親指で私の唇を撫でてきた。何かを思案しているみたいだ。
「血まで戻してやる方法もあるけど……逃げそう」
血だらけの私を見た方がティエラも炎龍族も苛立って強くなるとか、それから汚れ取ってやるからとか、私からすれば斜め上の話ばかりをされる。
龍族のエスにしてみれば、唇で触れることなんて大した意味はないのだろう。ただ治癒魔法を口で使っただけなのだから。それでも人型の私には大問題だ。
エスの唇の端に残る血に指を伸ばす。大人しくされるがままのエスは、今私が秘めている黒い気持ちなど見えもしないだろう。私はもうただの馬鹿じゃない。
この唇の触れる先が私だけならいいのに。
私だけにしてくれたらいいのに。
知らず知らずに芽生えていた気持ちが大きく成長していく。それも、明確な独占欲という形に。




