2.ショコラ、不安がる。
吐く息が白い。一歩歩く度に足下から雪を踏み潰す軽い音が聞こえる。
少し考えごとをしていた私の歩く速度は大幅に落ちてしまっていた。早く、追い付かないと。
このまま次の国に辿り着いて、またそこから離れる時が来て、エスとティエラを逃がして。
それから、私は何とか異世界に渡る為の問題点を解決したり、ユビテルを説得したりして。エスが国を立て直すか否かは別にして、いつかは離れ離れになる。
じゃあ、その時この気持ちはどうなるんだろう。
好きだと気付いてしまったけれど、いつかお別れが来るのならこの気持ちは伝えない方がいい。だけど、私は異世界への夢に執着し続けられるのか、それがもう分からなくなってきていた。
考えてみれば、現実的に移住することが無理だったのだから、お母様とお父様は離れ離れになってしまったんだ。
お父様に会えればこの先幸せに暮らせるかもしれないなんて、どれだけ幼い夢を抱えていたのだろう。
それに、薄情にも会ったことのないお父様より、こうして仲良くしてくれる龍族の皆に愛着が湧いてしまっている。
ここに居てもいいと言われてしまったら、迷わずここを選んでしまいそうになっている自分の気持ちの揺らぎに嫌悪した。黒い感情が心の奥から溢れてくる。
「遅れてる」
ふと我に返った時、エスが私の手を掴んで引いてくれていた。ごめんなさい、と見上げた時にはもう後ろ姿で、自分はどれだけボーッとしているのか。
この手の温もりも、いつか忘れてしまう日が来るのだろうか。嫌だという気持ちが迫り上がってくるのに、ここに残りたいと浅ましくも思ってしまう自分も嫌でどうしようもない。
「……当初の目的を変えてしまうのって良くないことかな」
私の口から零れた言葉を拾ったエスが振り返って、何を珍しく難しいこと考えているのかと言いたげに私を見下ろしてきた。
自分でも珍しいと思う。いつもお花畑と言われても仕方ないくらい暢気に生きてきたのに、急に大人ぶって悩んだりしている。大人になることはもっと素敵なことだと思っていた。精神が多少なりと成長したところで、前よりも悪くなっている気がする。
「路線変更なんて当たり前に何度もある。重要事項が変わることも。だから、最初から幾つも用意しておくものだろ」
最初から幾つも……ならば、まだ何も起こっていない今であれば増やしてもいいのかもしれない。変えるのは、ずるいことじゃないんだ。
何だか、少しだけ気持ちが楽になった。どれか一つしか選べないと思っていたのが何とも息苦しかったから。
「……エスの言う通りだね。ありがとう」
エスは明らかに安堵した私の顔をじっと見つめてくる。何も聞かない気遣いが有り難い。だけど、あんまり見つめられるのも心臓に悪い。
視線から逃れようと顔を背けると、掴まれている手が強く握られる。悪い意味で取られてしまったかもしれないけれど、エスは自分の顔が麗しいどころではないのを知らないのだろうか。
私みたいな、特に良いところのない人型が好きになって申し訳ないくらいだ。
「あ、あの、地龍族ってどれくらい怖いの?」
沈黙が痛く感じてきて、適当に話題を探して振る。それに対しては、「既に龍族を三種も見ておいて……」と呆れられてしまった。エス達を怖いと思ったことがないから聞いているのに、その返しでは納得が行かない。
雪景色が途絶え、土が剥き出しの土地が見えてきた。どんな龍族なのか、更に掘り下げて問おうとした時、エスは強引に私を引っ張って背中に隠した。
「ある意味恐れ入るわ。まだ、やってるのね」
どうしたのかと問い掛けようとして、先にリプカさんの聞いたこともない低い声が耳に届く。
そこで、今まで澄んでいた空気の濁りに気が付いた。鉄臭さが充満している。濃い血の匂いに口許を覆う。この匂いが何か、分からないほどの平和ボケはしていなかった。
「ったく、こんな国恐ろしくて住めねぇよな。お手々繋いだ方が楽だってのに……ここの頭、さっさと先の戦争で死んどきゃ良かったのによ。おい、ちっこいの暴れんな」
「目押さえ付けられなくても分かってるよ!」
前を見ようとすればエスに素早く目隠しをされてしまう。ティエラもプロミネに同じことをされているみたいだけど、国に着いて早々、こんなに血生臭いのは初めてだ。
エス達は怖くない。これは本当だ。だから、過去に戦争をしていた力のある種族であることを今改めて実感した。
「この龍の女神、出迎え用か。動きが筒抜けになってる」
龍の女神の出迎え用とは一体……。
今、目の前にある龍の女神が、エスの話で聞いていた生贄のことだというのは分かった。出迎え用とは、まさか私達に見せつける為だけに誰かが生贄になっているということでいいのか。
エスの言葉で分かるはずなのに、あまりにも常軌を逸した状況に頭がついてこなかった。何故私達の行動が地龍族に悟られているのかより、何故、そんなことで死者を出しているのか。全く理解できなかった。
「絶対見るな。絶対に開けるな」
目許から手を離される時、強制的に瞼を閉じさせられてしまう。目を閉じたままどうしていいか分からずにいると、どうやらそのままエスに担ぎ上げられてしまったらしい。
聴覚や触覚だけの情報でも高さを感じてしがみついてしまう。重くないだろうか。揺れを感じながら、徐々に血の匂いが遠ざかっていくことに安心する。
いつまで目を閉じていればいいのだろう。下ろしてくれる気配もない。
「……もう、開けていい?」
「ちゃんと言うこと聞いてたんだな」
念を押してか二回も絶対と言われてしまったら、さすがに守らなければと思う。
開いた先の視界はまだ高いまま。これだけ背が高いと色んなものが見えそうだ。もうどこにも血の匂いがするものなんてない。殺風景だけど、何の変哲もない景色だ。
「ありがとう。重かったでしょ?」
「片手で大丈夫だけど」
前にも担いでもらったり背負ってもらったりしたけれど、エスなら言いそうなのに重いと冗談でも言われない。
人なんていくら軽くてもそれなりに重さがあるのに。
「軽すぎるの、知らないのか」
「っ……!」
片腕の上に座らせられながら下ろされる時に鼻先が触れ合う距離で目が合った。
高く整った鼻梁、蒼い瞳を縁取る濃密な睫毛が瞬く音まで聞こえてきそうな距離に、心臓が止まるかと思った。息は止まった。
エスはそんなことをしてもいつも通りだから、私ばかり色々と損をしている気がする。
大きく脈打つ心臓を抑え込もうとしている時に第二段はやってきた。
エスが手を貸せと言ってきたから、素直に手を差し出せば力強く繋がれる。さっきと違う。掴むじゃなくて、繋ぐになるだけでどうしてこんなに恥ずかしいのか。顔が熱くなる。
「離れるなよ。ここはお前が思うより危険な場所だ。間違っても勝手に走り出すな」
いつもよりも硬くて、一段と真剣な声色で注意されると肩に力が入る。
手を繋いでもらっているから平気だろうか。子どもに言い聞かせるような内容だけど、私は子どもでも守れるようなことが出来ていなかったりするからだと思う。
迷惑を掛けたくないのに、本当に何でなのか分からない。
それにしても、それだけ危険ならまず守るべきは子どもからじゃないのかな。
私だけというのも何だか変だと視線を前に向ければ、プロミネとリプカさんに挟まれて捏ね繰り回されるように可愛がられているティエラの姿があった。
……だからエスは私の御守りをすることにしたのか。私は充分大きいのにすごく情けない。
二人が何処まで一緒に動いてくれるのかはわからないけど、今のところは安心だ。
炎龍族は強い。そう思っても、取れないこの不安はなんなのだろう。
やっと街が見えてきたかと思えば、地面と同じ色、同じ四角い形の建物が大小様々に並んでいた。
全てが灰掛かった土色をしているとこんなに暗い印象の街並みになるのか。
緑の国と違って活気がない。家から出てこようとした人が、私達の姿を見てそっと中に戻ってしまう。
風が吹くと砂埃が舞い上がって、一層この街に漂う寂寥感を引き立てた。生きた心地のしない空気が気持ち悪い。
乾いた砂、暗い街、逃げ場のない不安が押し寄せて、少しだけエスの腕に寄り掛かる。
強く握り直された手。頭に乗せられる優しい温もり。大人しくエスの隣に居れば大丈夫なはずなのに、この気持ちが落ち着くことはなかった。




