10.ショコラ、意を決する。
そう言えばあの頃は戦争があったと、当時の状況を全て思い出した。
王都から離れた場所にある森なのに、火が燃え移ってきて木々が燃え盛っていた。どれだけ走っても息が苦しくて、煙で空が真っ黒で、恐ろしい音が絶え間なく耳に届く中を必死で走って逃げていた。
寒いのは嫌いだけど、熱いのはこんなにも怖いのか。
森を抜けた時、足元に辛うじて雪が残っているのにどうしようもなく安心した。ホッと息を吐いた直後、私は異変に気が付いた。一緒に逃げていたはずのエルフ達の姿がない。
まさか、まだ森の中にいるのかと、お母様と共に捜して回った。
皆の姿を見つけた時にはもう遅かった。
一人残らず地に伏せり、辺りを血で溢れさせている。何が起こっているのか、九つの私には状況が理解できなかった。けれど、間違いなく火事とは別の理由で皆が死んでいるのは分かっていた。
もう煙の中にいないのだから息ができるはずなのにまた息ができなくなった。次第に押し寄せてくる吐き気に口を手で覆った時、隣にいたお母様が血を流しながら崩れ落ちた。
もう訳が分からなくなった私は、ただただ自分が白い仮面を着けた者達に連れて行かれるのを他人事のように見ているだけしか出来なかった。
心の奥で幼い私がずっと一人で震えていた。
それを見つけて掬い上げ、穴になっていた部分に納めたそこに生まれたものは悲しみや恐怖ではなく、過去の事実として嵌まって記憶になった。
驚く程簡単に埋まる欠落部分には戸惑ったけれど、私は思っているよりも子どものままではなかったらしい。ちゃんと身体と一緒に成長していた。
エスがしてしまったことは大変なことだけど、国が無くなってしまうところまでは想定外だったと思う。
どちらにしろ、話を聞く限りではきっと国が無くなるまで戦争は続いていた。そんな状況下での判断を十二歳の子どもに強いている方がおかしな話だと思う。
なんで助けようとする大人より、エスを追い詰める大人の方が多かったのか、話の中で怒りすら覚えたくらいだ。
国の様子は、幽閉から数年後に外に出た時に私も見た。どこかの国が処理を済ませたのか死体はなかったけれど、あれだけ雪が積もっていた国なのに、国全体が干乾びた印象が強かった。
それに、私はあの国の出身の旅人を何人も見たことがある。当時、エスが逃がすことが出来た人達ではないだろうか。
全てが悪いことばかりで終わってはいない。全てをエスが一人で背負い続けるのはおかしい。
氷龍族は殺してしまったかもしれないけど、我を忘れるほど怒っていたところで国民まで殺してしまう人だとは思えなかった。
エスはエスが思う程悪いことはしてない。そう口にすると、今までで一番だと言えるくらいに呆れた目をされた。完全に頭の心配をされている。目は口ほどに物を言うとはこのことかと。
「あ、そっか! 怒られも許されもしないからエスはしんどかったんだ!」
「は……?」
子どもの頃の傷はその時に治さないと、大人になってもずっと残っていたりする。私は記憶に向き合っただけでちゃんと収まるところに収まって終わってくれた。エスも怒られるか許されるかをされれば、今からでも少しは楽になれるかもしれない。
エスの手を取ってそっと握ると、綺麗な蒼い瞳が驚愕に見開かれる。
「やってしまったことは私が許すよ。でもこの先、エスが悪いことをしそうになったら私が怒る。だから、この先も一緒に居ていい……?」
都合が良くて勝手なことを言っているのは分かっている。私が許しても怒っても仕方がないことだと分かっている。
だけど、罪を犯した人はずっと許されてはいけないのかな。悔やんでいる人を救おうとしてはいけないのかな。
当時何も感じなかったのだとしても、今はこうして後悔しているから私に話せている。私が贔屓目に見過ぎていると言っても、エスはそんなに悪い人じゃないから。
「……どこまでも馬鹿だな。お前は」
一瞬、笑うのかと思った。
ふわりと細められた瞳、長い睫毛が瞳の上で揺れて輝いて、翳る蒼が藍に見えて、まるで星空のようだと思った。息を飲む程に綺麗だった。
少しでも楽にしてあげられただろうか。柔らかい声色で紡がれる『馬鹿』には人を傷付ける鋭さは全くない。
この人を信じた自分は何も間違っていないと改めて思えて、安心して笑ってしまった。
握っぱなしだったけど、エスの手は全然冷えていない。今の私には温かいくらいだ。氷龍族はこのくらいの寒さは何ともないのかな。
「手、冷たい」
「わ、ごめ……ん?」
冷たいって言われたから離したのに握り直されてしまった。疑問符が頭の中に溢れる。「これ以上寒くなっても大丈夫か」と聞かれるものだから、首を傾げながらも頷いた。
何かを思い付いたのか、エスは空いた手から魔力を宙に浮かび上がらせた。雪の結晶を象って光輝くそれは、淡い蒼色をした光の粉を散らしながら空に打ち上がる。
暫くして、私の頬に届いたのはひやりと冷たい感触。軽くて白い小さな粒達が、空からふわふわと舞い降りて辺り一帯に降り始めた。
「どうして、雪……」
「故郷の森、ほとんど毎日降ってたんだろ」
木々を濡らしていく雪は急激に気温を下げて、主張するようにそこに降り積もっていく。
雪なんて何年ぶりに見ただろう。幽閉されてからは一度も降っているところを見ていない。こんなに綺麗なものだっただろうか。
あの頃はただ寒くて嫌だと思っていたのに、今見ると泣いてしまいそうになる。
良い思い出なんて片手の指で数えられる程しかなかったはずなのに、どうしようもなく懐かしい。
瞬時に天候まで操れるなんて、エスは本当に凄いという言葉では追いつかない。まさか故郷を再現してもらえるとは思わなかった。
一気に気温が下がったせいか、雪ばかりに留まらず空気さえも凍って煌いていた。
ありがとう、といつものように口にすると、エスは首を振った。これは私に御礼を言われるためのものじゃなくて、エスからの御礼だと。
きょとんとしてしまう私の顔を見てか、ばつが悪そうな顔をして目を逸らされてしまう。
「さっきの……お前がしたいようにすればいいから」
あれ……何だか、目元がほんのり赤くなっているように見える。気のせいかと覗き込むと、身体ごと背けられてしまう。
もしかして、私の目が悪くなっているのでなければ、エスは照れているのだろうか? そもそもエスは照れたりするのだろうか? あまりにも貴重な表情だから、目に映る事実が信じ難い。
と言うことは、私がエスを許してもいいの? この先怒ってもいいの? どうしよう。すごく嬉しい……。
力強く頷いた時には、寒いことも忘れてしまうくらいに喜んでしまっていた。笑顔が止まらない。もう、どうしようもなくエスが大好きだ。
「手、熱い」
「ご、ごめん、熱いの嫌だよね」
嬉しくて熱を上げてしまっていた。素早く手離そうとして、今手を掴んでいるのはエスの方だったと気付いて困惑する。ど、どうすればいいの?
「別に嫌じゃない」
それならいいんだけど、いつまで手を繋いでいるつもりなのだろう。何だか、今更恥ずかしくなってきたから困る。
エスの心は不思議だ。嫌とか嫌じゃないは分かるのに、好きとか嫌いはよく分からないなんて。人型しか持ち得ない感情として考えたりするから分からなくなるのかな。感情に関しては知識だとしても、本当に後もう少しなのかもしれない。
私だけじゃなくて、エスだって当時から成長している。子どもの頃は分からなかったことも、大人になれば理解が早まるかもしれないし、感じられるようになるかもしれない。
ずっと見ていても明らかに普通の人よりは反応が薄いけれど、怒ったり、一度だけだけど笑ったり、さっきみたいに照れたり、表情らしい表情は存在しているから。
エスには、ちゃんと人の心がある。
ほとんど声にならない程の小さな呟き、吐いた息と一緒に直ぐに凍って消える。何を言ったのかと反応したエスに、何でもないと首を振った。
一人では抱えきれない過去を許してあげたい。この先を止めて怒ってあげたい。いつかの別れまで仲間でいたい。
それから、この人に感情をあげたい。




