◎9.エストレア、回想する。
弟の泣き声に引き寄せられるようにエストレアは目を覚ました。
冷たい石畳に鉄格子、ここは何処かと疑問を抱く前に小さな弟を抱き上げる。囚われているらしいが、何がどうなってこうなっているのかエストレアは全く理解できずにいた。
小さな窓から見下ろせた外には、柔らかな雪の上に鋭利な瓦礫が山のように突き刺さり、そこを大量の死体に彩られている光景が広がっていた。蒼い髪を見ればその死体が氷龍族だと窺える。
そう言えば、自分が怒りに任せて殺したのだと思い出し、意識を弟に戻した。泣くのをやめた弟は大きな蒼い瞳でエストレアを見つめ、指をしゃぶりながら微笑んだ。
弟が笑っているのだから、やはり戦争は終わったのだろう。
ふと、本来であればこの状態を恐ろしく感じるべきことに気が付いた。
あの瓦礫や死体の数々は紛れもなく自分が我を失った結果だが、それを目の当たりにしても何も感じていない。
あれだけの数を殺し、国を壊滅させても何も思わないのはどういうことだろうか。元々稀薄であった心がとうとう無くなってしまったのかとすら思った。
瞼を閉じると当時の状況が鮮明に甦る。
街や森から火の手が上がり、赤い炎は瞬く間に燃え広がって空に黒煙を立ち昇らせた。それ以上に、逃げ惑う人々の悲鳴が鼓膜に焼き付くようだった。
残る騎士達に指示を飛ばし、まだ生きている人々を無事逃がそうとしていたエストレアは、顔こそ無表情から変化しなかったもののひどく混乱していた。
敗戦の予感は随分と前から感じ、事前に分かっていたことだが、実際に王の首を取られた後からは悲惨としか言い様がなかった。
腕の中にいるのはまだ生まれてから間もない弟。片腕で抱えられるほどの小さな命は、この惨状を前にけたたましい泣き声を上げていた。
何も分からなくとも感じてしまうのだろう。もう、両親がこの世に存在していないことも、この国の終焉が近付いていることも。
兄の腕では不満かと、まともにあやし方も知らないエストレアは困惑した。ただでさえ王がいなくなって日が浅く、統率など何一つ取れぬままにひたすらに命令を下し、最悪の中の最善を尽くすしかない状況だった。更に、厄介な問題はもう一つある。
騎士達と別れた直後、今は亡き王に反感があった者達がエストレアの姿を見つけ、雪崩れ込むようにして追いかけてきた。
エストレア様、殿下、とこの期に及んでまだ白々しくも敬意を払った振りをするのかと、その者達を睨めつけては走り逃げた。その赤子を渡せと聞こえてくるたびに臓腑が煮える。
赤子ではない、ティエラだ。ちゃんと名前がある。
その者達の中から、『龍の女神』なる生贄計画が挙げられた時は心底うんざりした。龍族の中から生贄を捧げ、平和を祈るという名目の何ら処刑と変わらない計画だ。
同名の言い伝えにあやかってとのことだが、未だ嘗てそのような者は現れていない。このような計画を続けても平和になどなりはしない。
現在の生贄の一頭が、今抱えている弟なのだから嘗められている。たかが十二歳の子どもごときが、赤子の一頭守れやしないと。
彼等は生贄で得られる平和とやらを信じているわけではない。ただ、この混乱に乗じて得体の知れぬ弟を排除したいだけだ。
国の現状を見ればこんなことをしている場合ではないのは明白だが、王亡き今こそと不穏分子を潰そうと畳み掛けてくる。
伸ばされる腕に、向けられる剣に。離せと、触るなと、魔法で作りだした氷の刃で抵抗した。
子どもが数年程度習った剣技などたかが知れていると思っていた。怒りが本来ある以上の力を出させているのか、手合わせをしていた騎士が容赦のない者だったからなのかは分からない。
だが、このままこんな血は絶えてしまえばいいと、身勝手な考えを振り翳した自分は氷龍族の屍を積み上げていった。
幾ら斬ってもキリがない上に、片腕しか振るえない為に疲労が溜まる。どれだけこの口で訴えかけても届かない。どれだけ殺しても終わらない。
疲れてしまった。そうまでしてもまだ弟を殺そうとする執念の深さに、それだけ次期王として望まれず、同じ種族に恨まれている自分に。
ドラゴンに姿を変えた時には弟以外はどうなっても構わないという気持ちしか残っていなかった。守ろうと思っていた騎士達や、国民さえも忘れていた。
それからの記憶は無い。いつの間にか静けさを取り戻した自国は瓦礫と死体の山に変わっていた。
足に繋がれた鎖に特殊な術でも掛かっているのか、魔法を使おうとすれば魔力を根こそぎ持っていかれて強い眠気が襲った。
ここで見掛けるのは布で頭を覆い隠し、仮面を着けた者ばかりだった。こんな素性も分からない者達が今この国を支配しているのだろうか。状況が良く分からない。
王族時代、自室に引きこもっている時間は長かったにせよ、自国の種族は把握しているつもりでいたが、この者達の魔力には覚えがない。この国にいた種族ではないのだろうか。
最初の数日は何を持ってこられても手を付けなかったが、次第に栄養失調になっていくからか思考は短絡的になり、どうしようもなく苛立った。
大事な弟の泣き声も疎ましくて仕方なくなってしまった時、食事を口にしてしまった。生かされているのが屈辱的だった。
自分が生かされている理由など碌でもないことしか思い付かないが、何を要求されるわけでもなく、ただ水色髪だの白髪だのと、はぐらかされるのが不快で話しかけるのはやめた。
水色髪――結晶龍の姿を持つ証の色。それにふさわしい魔力量を身に宿し、氷龍族でも歴代片手で数える程しか存在していない八割が龍という状態の自分は、一族最強と言えるが迷惑な話だ。
魔力に関しては歳を重ねる毎に底なしになっていくものだから気味が悪く、何が羨ましいのか周りから向けられる視線は悪意を孕んだものばかりだった。
ティエラの三割は歴史上に居すらしない弱さだが、王が居なくなった瞬間に生贄に祭り上げるなどと言い出した時はあの者達の正気を疑った。
エストレアに対する最後の嫌がらせにしては怒らせ過ぎた。
同族には情が厚い種族だなどと笑わせる。同じ種族だからと手を取り合うことなどなく、結果戦況は悪化の一途を辿った。皆殺しにしたらしい自分が言うのもなんだが最悪な種族だ。
こんな者が生き残っているのが最悪でしかないのは分かっているが、それに赤子の弟は関係ない。
早くここから逃げ出して、ティエラが大人になるまでは何処かに隠れ住む。それだけを目標に日々を過ごしていた。繋いである鎖を欺ける程度に微量の魔力を溜めていき、その時が来るのを待った。
いざ壊した先にはまた瓦礫の山が出来上がり、いい加減見飽きたとすら思った。
鎖は意図も簡単に外れ、成龍に近付いた龍族を前にしてはひどく脆い物だったと気付く。
誰もいないことを確認したはずだというのに、出た先では微かに人型の匂いがした。誰かに怪我をさせるつもりはなかった。逃げ出す為だった。
捜した先には、痩せ細った特異な見た目の少女が蹲っていた。尖った耳と肌の色を見れば、少女がエルフ族だということが分かる。
が、こんな色だったかと言われると実物を見たのが初めてだったエストレアは自信が持てなかった。
その少女の怪我を治して足早に弟の元に戻る。話せる程度に大きくなっていた弟は、まだたどたどしい言葉遣いで、「にーちゃんおかえり」と笑いかけてきた。今、守れるのはこの命だけだ。
どこまでも最悪な始まりかもしれないが、これが生まれて初めての自由を手に入れた瞬間だった。
檻を出てから、エルフ族は終戦と同時期に虐殺を経て絶滅していると知った。
あの少女は、あのまま逃げ出しても帰る場所などない。自分が連れて逃げなかったせいで野垂れ死んでしまったかもしれない。
虐殺も、元はと言えばあの時怒りに任せて終わらせず、冷静に事態を収めていれば防げていたかもしれないことだ。
後悔しても仕方がないと分かっていても、後味の悪さが心の奥に溜まるのを感じていた。




