8.ショコラ、匂いを上書きする。
「それ、ショコラの仕掛けた罠だって。頑張って作ってたよ? 美味しいよね」
「罠って、俺が獲物にされる側か」
起きた側から妙に騒がしい。心なしかエスの声が聞こえる気がする。
……エスの声?
急いで部屋を飛び出すと、エスが私の作った罠――ブルーベリーのムースを口に運んでいる瞬間に出会した。
ちらりとこちらを見たティエラは私の存在に気付いて、「美味しいよね」とエスに同意を求めた。あの子は本人を前に何てことを聞くんだ。
私の心臓がどうにかなりそうになりそうだった時、エスは真顔を保ったままムースを飲み下して無言で頷いた。え、美味しかった、のかな。
帰ってきたことだけで嬉しいのに、作ったお菓子まで美味しいと言われようものならもう死んでもいいかもしれない。
「あ、おはようショコラ!」
「あ、うん、おはよう」
見事に、今気づいた、とでも言うような演技をしたティエラは笑顔でこちらに顔を向ける。策士だ。末恐ろしいのは女の子を引き付ける魅力だけじゃない。
十日間、まともに顔も見られなかったエスが今目の前にいる。しかも、ティエラに挨拶を返してもう一度視線を移した時には、無言でムースを完食していた。嬉しすぎる……。
「えっと、おかえり?」
「何で疑問系。ただいま」
相変わらずの無表情だけど、全く感情の一つも見られない真顔ながら、ちゃんと目を合わせて返してくれるただいまを聞いて笑顔になってしまう。朝からこんなに幸せなことがあってもいいのか。
一頻り幸せに浸っていると、その間にエスも久しぶりに料理をするという話になっていて、そのまま二人が外に行ってしまおうとする。私も行きたい。追い掛けようとすると、ティエラに手で制されてしまう。
「ショコラは着替えるまで外に出てきちゃいけません! 食材買ったらすぐ帰ってくるから」
そう言えば起きてそのまま出てきたから寝間着のままだった。
だって、ティエラがまだ大きいままだから双子状態とは言え、二人が揃っていると思ったら嬉しくて。いきなり背中を見送る側になるだなんて寂しい。もっと早起き出来れば良かったのに。
装備を確認して、最後に横髪をハーフアップに捩じってハイドランジアのバレッタで留める。手鏡で付けた位置に傾きがないか確認して完成だ。二人はまだ戻ってこない。
さっきは幸せになりすぎて頭から抜けてしまっていたけれど、この間の夜のこと、早めにエスに謝らないと。
そう思って入り口の扉を開けた瞬間、届いたのは女の子達の高い声の嵐だった。思わず耳に手を当ててしまう。
その元凶はエスとティエラだった。それもそうだ、麗しいお顔が二人も揃ってしまったら大変なことになる。一種の事件だ。
遠目に見て二人が輝いて見えるくらいなのだから。周りに綺麗な花が咲いているようにも見える。
困った顔をしながらも、笑ってそれに対応するティエラはもう大分見慣れてしまった。
それに対してエスは完全に『無』という感じだ。無視をするわけではなくて、何かしら返事もしているけれど『無』。それがまたティエラとは違う魅力を放ってしまうのか、離れた場所から眺める女の子まで出てくるという騒ぎになっている。
「今日も名物が始まったってか? ろくに請求に行けもしねぇな」
いつの間にか、隣に来て座り込んでいたプロミネがめんどくさそうにその光景を眺めていた。
「まあ、ああいう美形っつーの? 言うこと無いキレーな面は女共も群がりたくなるよな」
「そうなのかな。私はプロミネもカッコいいと思うけど」
急に輝く眼差しで私を見上げて、抱き付いてこようとしたので回避した。舌打ちされてしまう。
でも、カッコいいというのは事実だ。野性的というか、この如何にも近寄りがたい本職っぽい空気のせいで声を掛けられないだけだと思う。龍族は基本的に皆顔立ちが整っている。
「ま、良かったじゃん。エストレアが帰ってきて」
頷くとがしがしと頭を撫でられる。もう片方の手にある請求書の莫大な額からは目を背けた。
「出直すか。あ、あれが収まるまで外出んなよ。お前もよく変なのに捕まってんだろ。俺は護衛とかだるいからやらねー」
プロミネはもう一度あの状態を見て、まためんどくさそうな顔をすると早々に立ち去ってしまった。もう少し話したかったな。
よく見たらどさくさに紛れて色んなところを触っている子達もいる。ティエラはやんわり拒否しているけど、その場面でも『無』を貫くエスは触り放題になっている。
肩、腕、背中、腰、エスの身体に女の子の手が触れていく度に沸々と煮えてくる何かがあった。また黒い気持ちが押し寄せてくる。それを振り払うようにして、大人しくプロミネの言う通りコテージの中に戻った。
今日は昨日までより少し寒い。
モルニィヤからもらったコートを羽織って、まだ出たことがなかった小さなバルコニーに出てみた。手摺りに積もった霜を払って、そこに腕を置いて体重を乗せる。
息を吐くと仄かに白くなるから、エスとティエラには良い気候だ。私には結構寒い。
ここからの景色は山らしく木々が立ち並んでいる。
寒い気候だからか、葉を付けている木とそうでない木があるけれど、緑があると心が落ち着く気がする。少し懐かしい。
「居た。あれ、何なの」
扉の開く音と同時に声がして、振り向くとエスが疲れた様子で外に出てきた。
あれとは、さっきの女の子達のことだろうか。その時は真顔で『無』だったのに、今になって眉間の皺が深い。
そんな状態のエスに事の発端を説明していく。
確か、ティエラが笑顔で挨拶を返してからすべては始まった。それからは毎日あの調子だと告げると、エスは整った眉を更に寄せた。
もしかして、あまり囲まれるのに慣れていないから『無』だったのだろうか。いつからかは知らないけれど、長く隠れ棲んでいたらエスみたいなとんでもない美貌の男性でも対応できないものなのかな。
「ティエラは?」
「元の姿に戻った瞬間に気絶してたから寝てる」
そう言われてみれば、寝ている時も大きな姿のままだった。
私を守るためって言っていたけれど、夜もそれを守ってくれていたんだと思うと相当疲れたはずだ。起きたらもう一度御礼を言わないと。
その前に、目の前にいるエスに謝らなきゃいけない。
「あ、あの、この間は、本当にごめんなさい……私、エスに約束、破らせようとした」
「別に謝られることじゃない。戻ってきてた俺が悪い」
私は言いながら泣きそうになってしまったのに、少し離れた場所で私と同じく手摺りに腕を乗せたエスは何てことなさそうにさらりと口にする。
ティエラの言っていた通り全く怒っていないけど、それでも私が悪いのは間違いないと思う。
聞けば、安否確認の為に、真夜中に何度か帰ってきていたのだと。「結局自分が一番危険だった」とエスは自嘲しているけれど、自分が大変な時期なのにティエラと私を心配してくれていたということだ。
やっぱり私が悪い。重ねて頭を下げる。だけど、この謝罪も受け取ってもらえなかった。
再会した頃からずっと、エスは私の謝罪も御礼も受け取らない。私が気にしていること程、エスは大して気にしていない。
今回は絶対に困っていたはずなのに、自分が戻ってきていたのが悪かった、ということで終わらせようとしている。あの夜、わがままで無理矢理に引き留めた自分が更に情けなく感じた。
またちょっと泣きそうになる気持ちを振り払う。すると、次は黒い感情が流れ込んできた。喉元まで上り詰めた気持ちが声になる。
「……ねえ、エスに触ってもいい?」
唐突に言うことじゃないのは分かっていたのに、口に出してしまったものは仕方がない。思った通り、エスは不可解そうに首を傾げている。
私が他の龍族に触られた後、二人が上書きと称して触れてくるのは習性だからということは分かっている。
でも、不快だから匂いを書き換えたいというのなら、今の私も同じ気持ちだ。さっき、エスは旅人の女の子達にたくさん触られていた。対応出来なかったからこそだとしても私は嫌だ。
「いっぱい触られてたでしょ? 私も、上書きしてもいいかな」
きょとんとした面持ちになるエスが何だか珍しいけれど、肯定の代わりに身体をこちらに向けてくれたから、思わず笑顔で見上げてしまった。
次いで驚いた顔になるのも珍しい。今日は表情が多いな。私は人型だから、皆と違ってこんなに嫌な気持ちになるのはおかしいのかもしれない。
では早速、と手を伸ばそうとして重大なことに気が付いた。二人は簡単そうに私に触るけれど、触るって、どうやって触ればいいの?
近寄ってもじっとしているエスの腕や肩にそっと触れて、抱き付かないように不自然な体勢で背中に触れて、なんかこれ、上書きというより身体検査みたいだ。
真顔で私を見下ろしているエスと目が合った瞬間、急に恥ずかしさが込み上げてきた。手を離したと同時にエスに腕を引かれて更に距離が詰まる。
「えっ、ちょ、エス、何……っ」
「お前が俺に触るって言った」
掴まれたままの手がエスの身体をなぞる。肩から腕、細身に見える外見とは違って、驚く程引き締まった腰に下ろされた時には変な声が出た。こんな、男の人の腰になんて触れたことがない。顔が熱い。熱が出てしまいそうだ。
背中に触れさせられる時に結局抱き付いてしまう。どうしよう。恥ずかしくてどうしようもない。離れることもこのままでいることもしんどい。
「他の匂いなくなった。お前の匂いしかしない」
…………。あ、そっか、他人にだけじゃなくて自分に付いた匂いも分かるんだよね。嗅覚を考えたらそうなるのは当然だ。
いやいや、そうじゃなくて、納得してる場合じゃなくて、私の匂いしかしないらしい状態が最高に恥ずかしい。エスが素でやることが、私には恥ずかしすぎる。
「ここ、寒くないの。お前にはきついだろ」
「さ、寒いけど」
「じゃあ何で外にいるんだよ」
……物凄く今更な話になったみたいだ。恥ずかしがっているのが恥ずかしくなってきた。何とかエスから身を離す。
「えっと、ここからの景色が故郷に似ててね。何だか懐かしいなって思ってたところなの」
故郷の森はここよりももう少しだけ寒くて、よく雪が降り積もっていた。だからか寒いのは得意じゃないけど、嫌いじゃない。エスの瞳が見開かれたかと思えば、すぐに納得したように元の真顔に戻る。何か引っ掛かる部分でもあっただろうか。
「一年のほとんどが雪だったな」
「そうそう、足下はいつも真っ白、で……」
あれ? 私、ここからの景色が似ているとは言ったけれど、雪が積もっているとは口にしていないはず。
疑問符を浮かべていると、エスがいた国もよく雪が積もっていたのだと、そもそも同じ場所に閉じ込められていたのだから、同じ国の出身であると考える方が自然だと返されてしまった。確かに。私、馬鹿過ぎる。
「氷龍族がほぼ全滅したのは俺のせい。だったら、エルフ族の全滅も俺のせいだ」
「違うよ。あれはあの人達がやったことでエスは関係ない」
「九年も前の話だけど、何故かお前は忘れてる。そうなる前に発端があった」
あの虐殺と幽閉はそんなに前のことになるのか。ん……? そうだとしたら、エスこそ私達エルフ族の虐殺の時期なんて正確には知らないはずだ。あの日、あの時期、一体何があったんだっけ。私は、どうしてそんな大事な過去を忘れているのか。
一生懸命、幼い頃の記憶を引っ張りだそうとすると、何故だか寒さが増していくように感じて自分で自分を抱き締める。
吐く息の白が濃くなる。身体がどんどん熱を失っていく。
「いくらなんでも、それから九年も生きてきて成長が止まりすぎてる。お前は自分で、子どものまま成長を止めてる」
確かにそうだ。虐殺と幽閉が私が九つの時、それから数年して、エスに鳥籠が壊してもらえて、最低でも五年はもう外の世界にいる。
それなのに私は何も知らない。何も知ろうとしていない。何も覚えようとしていない。
意識的にそれを回避して、何も学習しないまま、ずっと子どものまま生きている。
エスは更に証拠を突きつけるように、自分が悪いと、感謝や謝罪をされる謂われはないと、私の精神年齢が止まってしまったのも、元はと言えば自分が、と言葉を続ける。
違う。それは違う。エスの腕を掴んで首を振る。昔、エスが何をしたかなんて私は知らないけれど、再会してからの今までにエスに感謝しない日なんて一度も無かった。そんなエスがエルフ族に危害を加えるような人であるはずがない。
エスは私の三つ年上だと聞いたから、当時はまだたったの十二歳だ。
子どものエスが虐殺なんて大逸れたことに加担するとは思えない。ここまで来たら、私は何も知らないままではいられない。
「その時の話、聞きたい。ちゃんと知りたい」
私は虐殺以外にどんな重要なことを忘れてしまっているのか。一体、私の精神に何が起きているのか。




