6.ショコラ、魅了される。
晩御飯を三人分作って、一人分を分かりやすい位置に置いておく。
ティエラに教えてもらいながらだけど、今までにほとんど料理をしてこなかった割には短期間で出来るようになっているし、不思議なことに味を失敗している時はないとお墨付きをもらった。
エスはたまに帰ってきているとティエラは言っていたけれど、魔力の残り香だとかそういうのは私には分からない。
こうして一人分置いておいていたところで無くなっていたことはないし、私のしていることは無駄かもしれない。だから私は思い付いた。
罠を仕掛けておけば掛かるかもしれないと。ちょうど買い出しに出かけて、エスの好物であるブルーベリーを手に入れた。
ブルーベリーなら、生のままじゃなく加工しても好きなのかとティエラに聞けば、比較的ご機嫌な真顔でジャムを煮ていたり、凍らせて長期保存に挑戦していたこともあると教えてもらった。思っていたよりもずっと好きな気がする。これはデザートを作らないわけにはいかない。
幸い、この気候ならばすぐに腐ってしまうこともないだろうし、数日に分けて罠を張れる。何か口に出来る程元気だと知れればそれでいい。他の女の子のことを考えているのだとしても、今はそれで充分だ。
何とか初めてのお菓子作りは成功した。薄紫のレアチーズケーキの上に生のブルーベリーを飾って、目に付く場所に置く。
エスが作るよりは絶対美味しくないだろうけど、上に乗せたブルーベリーには手を加えていないからきっと大丈夫。
そう思って楽しみに眠ったというのに、真夜中、急に目が覚めた。特に物音がしたわけでもないのに、こんなこと初めてだ。疲れすぎていたのだろうか。眠りが浅い。
ほんの数日前、ティエラが言っていた話を突然思いだす。
龍族の雄は発情期の瞳がとてつもなく蠱惑的なものになると。少しでも見てしまえば根こそぎ意思を持っていかれてしまう程に、雌には魅力的に映るらしい。
雄が確実に獲物を食べる為にそういう仕様になっており、意識的に目を逸らして冷静になるのを待たなければ、雌は種族に関係なく一種の催眠状態に陥る。だけど、目を逸らすという行為自体が事前に情報がない場合は難しい。
催眠状態のお陰で雌は恐怖も痛みも感じず、ただ多幸感と快楽に満たされる。事が終われば夢を見ていたような気分になり、何をされたか全く覚えていない雌もいるのだそうだ。
何だか変な術式や夢魔のようで話が大袈裟だな、と思ってしまって聞き流してしまっていた。
前にも疑似的に発情期を迎えていたティエラの虹色の瞳を見たけれど、さすがに意思まで左右されてしまう程ではなかったし、何も知らなくても危険を感じて自力で目を閉じることも出来た。
どうして、数日経った今、こんなことを思い出すのだろう。ちゃんと聞いておけば良かったと、胸騒ぎがするのは、一体。
そんなものは無視してもう一度布団に潜り込もうとした瞬間、板張りの床が軋む音がして心臓が跳ねた。
部屋の外に、誰かいる。見に行くか行かないか、考える前にそっと寝台を抜け出して、足音を立てずに扉に近付いている自分がいた。
怖いもの見たさというのはこのことだろうか、ティエラが今の私を見たら不用心だと怒るはずだ。
近づいてはいけないと心臓が早鐘を鳴らしているのに、それでも引き寄せられる何かがあった。熟睡出来ていれば気付かなかっただろうに。
扉の取っ手を掴んだ時に自分の手が震えているのに気が付いた。
脈拍と連動して、一定の早さで揺れてしまう手を押さえ込むように力を入れて開き、私は顔を半分出して外を確認した。
「……あ……」
月明かり程の暗がりでもよく分かる、透けるような美しい水色の髪を視界に入れて、思わず小さく声を上げてしまう。
久しぶりに見たエスの姿だ。後ろ姿を見る限りはいつもと変わった様子はない。あんなに心配していたエスが帰ってきたところに居合わせることが出来た。
一安心なはずなのに、何故か心臓の音は激しさを増すばかり。息をするのもつらくなるくらいだ。
「ショコラ、今すぐ扉を閉めろ」
声を上げたのだから気付かれるのなんて当たり前なのに、名前を呼ばれた瞬間に廊下に向かってへたり込んでしまった。
呼吸が苦しい。心臓が痛い。急に襲ってきた眩暈のせいで世界は回るし、物凄く気持ち悪い。これは一体なんなのか。
「何で起きてくるんだよ。お前は」
固い床に額を押しつけて苦しみに喘ぐ。何度吸って吐いても息が出来ている気がしない。苦しさは増すばかりで変な汗が滲んでくる。頭が割れそうに痛む。
気持ち悪さが限界を迎えようとしていた時、まるで蛇口を捻って水を止めたようにぴたりと流れが消えた。それと同時に苦しみも消え、急に酸素を取り込めるようになって咳き込む。
エスは何をしたのだろう。明らかにエスの魔力か何かに中てられたみたいだったけれど、こんなことになるというのは聞いていない。やっぱりあの時、ティエラにしっかりと聞いておけばよかったと後悔するけれどもう遅い。
「さっさと寝ろ。俺は後三日くらいで終わりそうだから」
まだ前傾姿勢で床に身を預けたままでも、その足音が遠ざかっていくのが分かる。このまま出て行けば、エスは知らない女の子のところに行ってしまう。
足音がコテージの入口に近付くに連れ、喉元まで黒くて嫌な気持ちが迫り上がってきて、気が付けばふらつく足でエスの背中に向かって走り出していた。
無理矢理にしがみついた私に、「離せ」と冷ややかな声は降り注ぐ。
前に私から離れると約束をした。これは私の為の言葉だ。分かっている。ううん、全く分からない。
私は残念ながら自分で思うよりも子どもで、全然聞き分けがよく出来ていない。
「エス、行かないで」
「悪いけど、それだけは無理」
抑揚のない声で拒絶して、意図も簡単に私の身体を突き飛ばす。冷たくて固い床に身体を打ち付けた痛みなんて感じなかった。そんな些細なこと、どうでも良かった。
せめて、ここであっさりと引き下がれたら良かったのに。エスのことを考えて、エスとの約束を守れていたら……。
そんな綺麗な考えの自分を振りほどいて、負けじと立ち上がってはその腕を引っ張って縋りついてしまう。
私はどうしてもエスを行かせたくなかった。それだけの気持ちでエスの優しさを蔑ろにした。
「嫌なの! エスが知らない女の子のところに行くのがすごく嫌……!」
「いい加減に……!」
後ろ向きを貫いていたエスが勢いでこちらに顔を向ける。そして、私はその瞳を見てしまった。
獰猛な獣のように縦に裂けた瞳孔を彩るのは、濃淡の様々な蒼、紫、桃色。この色は確かオーロラだ。
寒空に稀に現れるそれが、エスの瞳の中に確かに存在している。この暗闇の中でもはっきりと光輝く不思議な色の瞳は、前に見たティエラのものとは桁違いの魅力に溢れていた。
見ているだけで身体から力が抜けていく。あれだけ強い力を入れてエスの服を掴んでいたのに握ることすら叶わなくなって、糸が切れたみたいに身体が垂直に落ちた。
やけに艶のある溜め息を吐いたエスが、座り込んで放心している私の腕を引っ張って、半ば引き摺るようにして部屋に放り込もうと歩き出す。
何とか途中で自分の足でしっかりと立って、扉の前でもう一度エスの手を掴んだ。
「エス、いいよ……」
呼吸に混じって溶けてしまうような薄い声しか出せなかった。
意思を持っていかれると分かっていながら、また見上げた瞳がオーロラを湛えて見開かれる。
「……は?」
間もなくしてきつく寄せられた柳眉。それだけ形を変えられても美麗で、その下で細められる美しい瞳からは妖しい光が零れ落ちてしまいそうだった。今にも暴発しそうな激しい怒りを感じる。
もういつもの真顔の領域にない。こんなに表情豊かに怒っているエスは見たことがない。
強く肩を掴まれたかと思えば、勢いよく近くの壁に押し付けられて背中に痛みが走った。
次いでもう片方の手に目を覆い隠されて、瞳の魅力に支配されて煮え滾っていた頭が少しずつ冷静になっていく。
「こんなもん見てるから、要らないことまで口走る」
「関係無いよ。私、あんまり何するのか知らないけど、それでエスが少しでも楽になれるなら……」
瞼を開いても真っ暗な視界、返事は何も返ってこない。
私がこの手の言葉を口にしても効力は大して無いことは分かっていたけれど無反応は堪える。何か、もっと直接的な表現にしないと。
目を隠されているのは、私に掛かっている催眠状態を解くためだろう。
だけど、私はこうされることで逆に気付いてしまった。今言った言葉も、数日間ずっと感じていた気持ちも、嘘偽りない私の本物の気持ちからのものだって。
「エスから見れば、私はすごく子どもだよね。でも、身体はちゃんと大人に近いよ。だから行かないで。何しても、いいから……」
声が震えてしまったのは、怒っているエスが怖いから怯えているわけじゃない。
高鳴る心音に合わせて荒く息を吐いてしまうのは、ただ恥ずかしかったからだ。
こんな恥ずかしいことは今までに言ったことがない。言おうと思ったことすらない。見えないけれど、エスが聞いているのかと思うと羞恥で心臓が止まって死んでしまいそうだった。
「何、でだよ……正気で……」
怒りを堪える声と共に、私の肩を掴んでいたエスの手が力を無くしていく。
こんな、自分からそういうことを誘ってしまうような私に呆れているのだろうか。私だって平気で口にしているわけじゃないけど、でも、それでも捕まえたエスを逃がしたくなかった。
「約束、守らなくてもいいよ」
更なる決定的な追撃を掛ければ、目隠しをしていた手が離される。
心してエスの顔を見ようと瞼を持ち上げようとする前に、足の間に膝を差し込まれた。身長差があるだけあって、足の長さも全然違うものだなと。暢気なことを一瞬考えて、今初めて自分が震えていることに気が付いた。
何故震えているのか。確かに、怖くないかと言われれば嘘になる。その、初めてだし、何をするのかもよく知らないし……エスでなければ絶対に嫌だと思うくらいには怖いと思っている。
差し込まれた膝が持ち上げられて内腿が擦れた時、思わぬ刺激に驚いて小さく悲鳴を上げてしまった。
未だ瞼を開けずにいる私の輪郭に指が這わされたかと思えば、そのまま強引に顎を掴んで持ち上げられる。
恐る恐るエスの顔を見ると、思っていたよりも近い場所でオーロラの瞳と目が合った。間近で見ると緑の光も見つけられる。
怒っている顔に、何とも表現し難い危うさを持つ色気が混ざり合って、信じられないくらい綺麗だ。見ているだけで頭の中が蕩けてしまいそうになる。
ダメだ。まだもう少し正気でいたい。
何とかエスの蠱惑的な瞳から目を逸らすと、距離を一気に詰められて鼻先が触れ合う。
息が掠めて近さを実感していた時、「ショコラ」と空気に溶け入りそうな甘い囁きで、滅多に呼ばれない名前を呼ばれて背筋が震えた。
たった一言なのに、中毒になりそうな程の甘さが脳を貫く。耳がどうにかなると思った。なんて恐ろしい。もう一度、その声で名前を呼ばれたい。もっとたくさん囁いてほしい。
一生懸命正気を取り戻そうと努めても、すぐに陥落してしまいそうになる。
溢れてくる欲望を振り払うように再度瞼を閉じようとして、唇が触れ合いそうな距離に気が付いて、そのまま瞳を見つめてしまった。
覚えていないかもしれないなんて嫌だけど、このまま、キスされてもいい。
それ以上も、エスにならされてもいい。
私がそうしてほしいと強請ったのだから、龍族の発情期がどんなものかは分からないけれど、今から酷い目に遭っても後悔なんてしない。
エスに身を委ねるように静かに瞼を閉じる。
いつまで待っても、その時は訪れなかった。
「……こんなの、良いわけないだろ」
キスの代わりに届いたのはいつも通りの無機質な声だった。
まだ催眠は解けていないはずなのに頭の中が鮮明になる。
嫌な予感と共に、何事も無かったかのようにエスは私を離した。追い掛ける間もなく、さっさと部屋から出て行ってしまう。
コテージの扉の閉まる音がやけに大きく聞こえた。
外気が中に侵入してきて、扉を開け放ったままの私の部屋に入り込んでくる。
急に怠さが身体中を襲って、その重みに身を任せるように壁を伝って床にへたり込んだ。今更になって冷たい板張りに裸足でいるのはつらいと気づく。
このやるせない気持ちの名前は何だったか。――罪悪感だ。それだけが今ここに残っている。
隣の部屋から音が聞こえてきたかと思えばティエラが起きてきたみたいだ。ちょっと騒いだからうるさかったのかな。
物凄く眠そうな声で「にーちゃん、また帰ってきたのかな」と呟き、寝ぼけ眼を擦りながら廊下に出てきたティエラは座り込んでいる私を見つけ、目を大きく見開いて息を詰めた。
弾かれたように駆け寄ってきて私の両肩を掴む。
「っ、ショコラどうしたの!? もしかしてにーちゃんに何かされた!?」
「何もされてないよ」
何もされていない。そう口にした瞬間、厭に冷静な頭の中に現実が流れ込んできた。
その場の勢いもあったけれど全部正気で本当の気持ちを口にした。エスに向かって言ってしまった言葉の数々、エスの不思議な色の瞳と怒っている表情、何もかもを思い返す。
「どうしよう、私、エスに約束を破らせようとした……っ」
あの時は必死で引き留めたけど、私はとんでもなくひどい事をしてしまった。涙腺が決壊してしまったみたいに涙が止めどなく溢れて、ティエラの顔がぼやけて滲んだ。濡れていく頬が瞬く間に冷たくなる。
「せっかく、私の為に、約束してくれたのに……エスの、優しさを何回も、踏みにじった」
涙声のせいで途切れ途切れになる言葉。ティエラがそんな私をそっと抱き締めてくれる。
「きっともう怒ってないから大丈夫だよ」
「でもっ、見たことないくらい怒ってたの。それなのに、私、どうしても、行ってほしくなくて……」
「もー、ショコラは可愛いなあ」
ティエラはその優しい体温で何度も何度も頭を撫でてくれる。私の方が随分年上なのに、どこまでも情けない。背中に腕を回すと抱き締めてくる腕も力強くなる。
いきなり身体を離されたかと思えば、顎を掴まれて上を向かされた。疑問に思いながらも涙としゃくり上げる声が止まらない。首なんて見てどうしたのだろう。
「あー、ほんとだ。噛み痕が無い。何もされてないのが凄いよ。にーちゃん、屈強な精神力だな……僕にはどうあっても見習えそうにない」
また抱え込まれて、ティエラは私が泣き止むまでずっと頭を撫でていてくれた。この寒い部屋で熱すぎない体温がどこまでも優しかった。
やっと落ち着いた私はティエラに連れられてソファーに並んで座っていた。
美味しいお茶まで淹れてもらって、もう何度御礼を口にしたか分からない。このまま私が眠るまで付き合ってくれるらしい。なんて優しい子だろう。それに比べて私ときたらなんて残念な年上だろう。
散々泣いてはエスを誘って失敗した話までしてしまった時は、ティエラは噎せるまで笑っていたけど笑いごとじゃない。
むくれていると眼尻に涙を滲ませながら謝ってくれたけれど、絶対にまだ楽しんでいた。下手くそな誘惑だったけれど、あれでも私は頑張ったのに。
泣いたせいで水分を失ってひりついた喉を、ティエラが淹れてくれたお茶が癒してくれる。
ようやくおとなしくなった私の頭を何も撫でてくれるティエラ、こうしているとどちらが年上なのか本当に分からなくなる。
「あのねショコラ、にーちゃんの状況だけど、残ってる魔力とか匂いを見る限り、全く雌の匂いがしないんだよ。誰にも触れてない」
「……この一週間、誰にも?」
エスがそうしようとしても、女の子の方からやってきたりするんじゃないだろうか。
あの魔力には呼び寄せられるような何かがあった。それを本能に逆らって拒否し続けるなんて、そんなことが出来るものだろうか。
「そう、完全に禁欲してる状態。つらくて意味が分からないと思うよ。でもショコラにした約束を守ってる。だからもう暫くの間、信じて待っててあげて」
つらくて意味が分からない。そんな状態のエスになんてことをしてしまったのか。また泣きそうになってしまいそうになっていると、ティエラが私の頭を自分の肩に引き寄せてくる。
私がしたことは確かに発情期の雄にはきついものだったと。
だけど、感情稀薄なエスがそれで何か少しでも感じて理解してくれているとしたら、私のしてしまったことも無駄ではないとティエラは優しく話してくれた。
それくらいきついことを出来る人が今まで居なかったから、何かある度に嬉しくなってしまうのだと、ティエラは無邪気な笑みを見せた。
「一度や二度で浸透しないんだとしても、何度も立ち向かえば変わるかもしれないでしょ? こうして並みの雄の精神力じゃ出来ない、発情期に逆らうってことをしてるってことは、ショコラが何かしら影響を与えてるんだと思うんだ」
私、役に立っているの? まさかそういう風に捉えて喜ばれるとは思わなかった。
それだけずっと、ティエラはエスの感情稀薄について考えていたのだろう。今回のは効いたとしても荒療治もいいとこだけど、違う形でならこれからも協力していきたい。私に出来ることは少ないと思うけれど。
嬉しそうに語るティエラの肩に少し体重を掛けて凭れ掛かる。
ティエラのお陰で罪悪感も薄れてきて、ちょっと安心したら今更に疲れが押し寄せてきた。察したティエラが私を部屋に連れて行こうとしているのか横抱きにして持ち上げる。ティエラだって眠いはずなのに、本当に甘えすぎだ。
「ティエラ、ごめんね。眠いのに付き合ってくれて」
「そんなこと気にしないで。ショコラは女の子なんだから、泣きたい時は子どもだとか関係無くいつでも頼って、僕にも守らせてよ」
「うん、ありがとう。頼りにしてる」
ティエラの優しさが沁みわたる。まだ小さいとか、子どもだとか、だからどこまでしか出来ないって私が決めることじゃない。こんなに立派な男性に失礼だった。
ここに来てから、特にティエラの存在を大きく感じる。それから、愛しく思う。




