3.ショコラ、黒い気持ちに包まれる。
「ショコラ、起きて」
あまり聞き慣れない声が耳を掠めてくる。
誰の声だったか、聞いたことがない声ではないし、でもどこで聞いたのかは分からない。それよりも昨日の疲れからかだるくて瞼が重い。
顔を見てしまえば直ぐに納得出来るはずなのに、それが億劫で仕方がない。
寝返りを打ってその声から逃れようとすれば、何故か声はどんどん近づいてきているような気さえする。
良い声だな。明るくて爽やかで。それでいて低いその声はどことなくエスのものと似ているけれど、エスはこんなに抑揚のある話し方で私の名前を呼んだりしない。
ならば、この声は誰のものか、やっぱり寝惚けた頭で当てるのは難しいようだ。
「……いい加減、起きないと食べちゃうよ? どこから噛んで欲しい?」
爽やかさはどこに消えてしまったのか。
途轍もない色気を含んだ声が鼓膜を揺らした瞬間、心臓が止まりそうになった。頭は覚醒したけれど、まだ視界はぼやけている。何度か瞬きをしながら声の相手を確認すると、そこには雪原のごとく輝く白髪の綺麗なお兄さ……ん!?
弾かれたように寝台から起き上がり、これが夢か現かぐるぐると考える。
ここは山間のコテージ、緑の国を抜けた先で、ましてや緑の国の手前まで時間が巻き戻っているわけではない。
何故、目の前にいるティエラは大きくなっているのか。
「おはようショコラ。驚かせちゃった?」
「え、な、なんで?」
寝起きで頭も舌も回らない。混乱しながら、ティエラの身体や顔のあちこちを無遠慮に触ってしまう私の両手を掴んで、大きなティエラは子どもの姿同様に愛らしい笑みを見せた。
「一回なったら癖になったみたいで、簡単な魔法で姿を変えられるようになったんだ!」
「え、あ、どうして今、その姿に?」
私の寝ている寝台に腰掛けている大きなティエラが、その姿に簡単に変身出来るというのは何とか寝惚けた頭でも理解出来たとして、何故、大きな姿で私を起こしに来ているのだろう?
疑問符だらけになっている寝起きの私にも分かるように、ティエラは優しく説明してくれた。
まず、ティエラが起きた時には既にエスの姿は何処にも見当たらなかったそうだ。
強制的な発情期を迎えたエスが、私たちに危害を加えないように自らコテージを出て行ったのだとティエラは推測した。
この事態を受けて、私と二人の時間を最も安全に切り抜ける方法を考えた結果、この姿になることを思い付いた。
現在は戦闘力の低い女の私と、魔力の弱い子どものティエラしかいない状況だ。この場所に危険が少ないとしても、大人の男がいないのは嘗められる状態にあるらしい。
「ということで、女の子のショコラを僕が守らなきゃいけない。僕は魔力はそこまでだけど、物理だと強いから安心して」
そっと私の頬に手を寄せるティエラからは、前回の入れ替わりの時のような危険な空気は感じない。本当に中身が元の子どものまま大きくなったティエラだ。
にしても、起きて早々エスが居なくて焦ったはずなのに、真っ先に私のことを考えてくれているのに感動してしまった。思わず大きなティエラを抱き締めてしまう。
「えっ、ちょっ、ショコラ!?」
「ティエラ、私の為にありがとう」
身体が大きいのには構わずに頭を撫でてあげると、ティエラは私の脇腹を掴んで引き剥がしてくる。
さすが、物凄く力が強い。剥がれる音がしそうな勢いだ。もう少し感謝の気持ちを伝えていたかった。不満を訴えるように見つめるとティエラは困った顔をしていた。
「僕が中身は子どもだからって油断しないで。これでも獰猛な雄なんだよ」
私を咎めている時の顔は本当にエスにそっくりだ。
獰猛な雄だと言われてもいまいち実感が湧かない。首を傾げていると軽く視界が反転して、天井とティエラの姿のみを映すこととなった。
「ショコラは僕よりも子どもだね。僕は知識を詰め込んでるだけだけど、ショコラは何もかも足りてないように見えるよ」
私を寝台の上に押し倒して、覆い被さっているティエラは溜め息を吐いた。
ティエラの言う通り、私にはあらゆるものが欠けているように思っていた。多分、平均的な十八歳よりもずっと子ども。ティエラの倍の時間を生きているのに、何とも切ない事実だ。
ゆっくりと抱き起こしてくれるティエラにくっついていると何とも言えない表情をされる。思えば、エスも似たような表情をよくする。顔が同じだから姿が重なって見える。
危機感も警戒心も薄すぎるだとか、こんなんじゃ誰でも簡単に食べられるからエスも怒るとか、どうして今まで無事に生きてこられたんだとか。ティエラに怒られて反省点が山ほど出てくる。
何でだろう。どれも自覚はあるのに不思議と直らない。私には大事な何かが欠けているのだろうか。
暢気にも、怒っているティエラもなんとなくエスに似ていて嫌じゃないと思ってしまう。案の定、「聞いてるの?」ときつめに怒られてしまった。
「とりあえず、この姿でにーちゃんを待つことにするから炎龍の二人に伝えてくる。ショコラは一人で動かないで」
すぐに行動に移そうと、離れていこうとするティエラの手を掴んで引き留めた。まだ聞けてないことがある。
その言い方だと、エスが何日も帰ってこないように聞こえた。ティエラの慣れた行動も気になる。発情期のエスはいつもこんな風に帰ってこなかったりするのだろうか。私が何を聞きたいか分かったのか、ティエラは気まずそうに頬を掻いて視線を逸らした。
「エスは発情期だとこうなるの?」
「あー、うん、最悪、終わるまでは僕が起きてる間には帰って来なかったりする、かな」
非常に言いにくそうにしているけれど、つまりはそういうことなんだろう。発情期ということで女の子のところに行っていると考えるのが自然だ。気分が急降下し始める。
分かっていたけど、やっぱり、すごく嫌だ……。
「……ショコラは、にーちゃんが他の子のところに行くのは嫌?」
「嫌」
即答した瞬間にティエラは驚いた顔をしてから笑い始めた。
ティエラの言う通り私は子どもだから、上手いように嘘なんて言えない。誤魔化したりなんて器用なことは出来ない。
暗い気持ちになってる私とは裏腹に、何故かティエラは御機嫌で私の頭を撫でて、今度こそ外に出て行ってしまった。
ティエラがプロミネ達に状況を報告する為に出ている間に私は着替えを済ませていた。
コテージと言えばしっかりした寝床ぐらいの想像しかしていなかったけれど、中にはシャワーもキッチンも付いてるからこのまま住めそうなくらい充実している。
シャワーとは別に公衆の大浴場もあるみたい。これは来るまでの道のりでリプカさんに誘われた気がする。
一つ借りるのにそれなりにお金も掛かるけれど、周辺に色んなお店も揃っているみたいだし、最早小さな街のようになっている。
緑の国が経営していると聞いて納得した。こんな山奥にまで気が回っているのがユビテルらしい。
暫くしてからティエラは疲れた顔をして帰ってきた。ただいまの声からも疲労を感じる。結構遅かったけれど、プロミネに会うまでに何かあったのだろうか。
「他の旅人の女の子に挨拶されて、笑って返したんだ。そしたら何か、ワラワラ集まってきて囲まれちゃって……」
女の子に、囲まれる……?
何でそんなことになってしまったのか。ソファーに身を預けるティエラの姿をよくよく見ながら、納得の理由に辿り着いた。
もう長い間一緒に旅をしていて、二人の顔を見慣れてきていたから忘れてしまいそうになっていた。
この兄弟はとんでもなく美しい。命を持った宝石のような凄絶な美貌に留まらず、指先から毛先の一本に至っても溜め息が出る程美麗だ。
子どもの姿のティエラですら、もう既に凄まじく美少年なのだから、大人の姿なんて言葉では言い表せない。私程度の語彙力では間に合わない。
そんなことにすら気にも留めていなかった。というか気に留めていない今までの私がおかしい。
普通は綺麗な男の子に女の子は言い寄る。それも性格関係無く。無表情でもエスはそれが美形を引き立たせている。発情期で一人のエスを放っておく女の子なんていない。
「ティエラ、綺麗な男の子に言い寄らない私はおかしいよね?」
「えっ? えーっと、ショコラは今まで、色恋の前に仲間が欲しかったんだからちょっとずれてるのは仕方ないんじゃない?」
確かにそれどころではなかったけれど……それにしても疎すぎる。
エスみたいな綺麗な男性はティエラの現状同様に群がられて当然だ。氷龍族の縄張りにいる私はともかく、エスは私のものじゃないのに誰にも渡したくないと、どす黒い感情がお腹の奥底で渦巻いた。
この込み上げてくる今までに感じたことのない気持ちに不快感が募る。何なのだろう、これは。
「そう言えば僕、ショコラに会った時の話してないよね」
気持ち悪くなりそうになっていた時、ティエラは思い出したように話題を変えてくれた。
私とティエラが初めて会った時に、何かあっただろうか? 思い返してみても特に何かあるわけでもない。振り向いたらティエラがいただけだ。
ティエラは、その出会いを偶然ではなかったのだと語り始めた。
普段なら人型の気配や匂いがすれば離れるところ、私の時は明らかに女の匂いだったから近づいてみたのだと言う。
渓谷にやってくるのは、度胸試しと称してくる族のような男性ばかりだったそうで、私みたいな悪意の欠片も持っていない女が入ってくるのは初めてだったらしい。間違えて迷い込んだのなら帰り道を示さなければと思ったと。
……小さな男の子に迷子だと思われるなんて、どれだけ弱そうに見えたのだろうと情けなく思う。
龍族はそれだけ鼻が利くようだ。二回目に私がティエラを見つけた時も、私じゃなくてティエラが先に見つけてくれていたのだろう。
きっと、他に無数の旅人の匂いがして怖かったかもしれないのに、私の為に。
「それにしても、にーちゃん、ここにショコラという最上級の獲物がいるのに出ていくなんて」
「あ、それ、前にね、その時期が来たら私から離れるって約束してくれたの」
結果的には、私で済ませないようにしないといけなくなったから他の女の子を探すしかなくなった。
いきなり食べられそうになるのは確かに困るけど、こうして出て行ってしまうのも嫌なんてわがままだ。
溜め息を一つ吐いていると、ティエラは何故か目を輝かせて喜んでいるようだった。
「さすがにーちゃん。他の雄に見習わせたいね。僕だったらさっさとショコラにするよ」
ティエラは覚えてないかもしれないけれど、さっさと私にされた前科があるから笑えない。
何だかとても嬉しそうだけど、何がそんなに嬉しいのか分からない。約束を守ってくれるのはいいことだ。でも、エスがここにいないのは寂しい。
緑の国でもあまり一緒にいられなかったから余計にそう思うのかもしれない。
また込み上げそうになる嫌な気持ちを押し留めようとしていると、突然大きな音を立てて入り口の扉が開くものだからそちらに気を取られる。
ティエラが「あー鍵かけてたのに……」と零すのを聞いて、ふとフルミネが扉を壊した時のことが頭をよぎった。
「おいお前ら! いつまでも籠ってんじゃねぇよ! アスレチック行くぞ!」
「近くに巨大なやつがあるらしいのよね」
侵入者は予想通りの人物だった。夜までに鍵を直さないといけない、とティエラは頭を抱えている。そんな私たちのことなど気にせず、ズカズカと入ってくる二人はアスレチックの詳細まで語り始めてしまった。
「ね、ああいう常識も何もない大人がいるから、僕は大きくなってるんだよ」
身を以て納得した。大人な子どもと、子どもな大人。ティエラに聞けば、正式名称フィールドアスレチックとは野外運動用施設のことで、謂わば大きな複合型の自然味溢れる遊具らしい。遊びのお誘いに遠慮がない炎龍族に、ティエラは嘆息していた。




