13.ショコラ、薄い感情に触れる。
モルニィヤと別れて、今度こそ荷物をまとめる準備を、と思ったところで丁寧なノックの音がした。
扉を開けた先には、モルニィヤと同じ金糸と翡翠の瞳。優しく穏やかに細められる目が、今日は何故か少しだけ怖い。ユビテルもフルミネから聞いて来たのだろうか。
部屋の中に招き入れようとすれば、何故か外に連れ出されてしまった。立ち話でいいのかな? 首を傾げると、困ったような顔で笑われてしまう。
「ダメですよ。雄を簡単に部屋に招いては」
小さな子どもをたしなめるように、それでいて艶やかに口角を持ち上げるユビテルは、いつものほんわかした雰囲気とはまた違って危険な匂いがした。
腕を引かれて窓際に寄る。夕陽の沈みかけた廊下、赤い光に照らされたユビテルは寂しそうに見えた。
何も言われていないのに、私も寂しいです、と言ってしまいそうになって開きかけた口を閉じる。
「これから旅立つショコラに、重要なことを教えておかなければと。この先僕達龍族が、必要以上にショコラを傷付けてしまわないように」
ユビテルはとても優しい。私が悩んでいるように見えたら直ぐにでも声を掛けてくれて、いつも先回りして助けてくれようとする。
龍族の話は、この国に来てから少しずつ覚えられるようになってきた。縄張り意識や大事に出来なかったりする習性があること、恋愛感情がないこと、魔力で変わる龍の割合があること。
最初程傷付くことは無くなってきたけれど、まだ念を押される程に重要な何かがあるのだろうか。
「僕は、ショコラとのお茶の時間にたくさん癒されていました。それは変わることのない事実です。それから……ショコラが何を言っているのか、理解出来ない時が多々あったことも、事実です」
「え……」
信じられない程の強い衝撃を受けている自分がいた。モルニィヤに、元々雄は感情が薄い、と聞いたばかりだったのに。まさか、話している言葉すら通じていないとは思わなかった。
これは、龍族の男性だからなのだろうか。それとも、今まで他者と関われずにいたから、私の会話力が低すぎて通じていないのだろうか。
どうして、もっと気を付けて話すことが出来なかったのか。ユビテルが優しく笑っているからいいのだと思い込んでいたなんて。
思わず涙してしまいそうになった時、ユビテルは頭を振って私の髪を撫でてくれた。私が悪いのではないと、自分達が特殊な生き物なのだと。もっと、早くに言ってくれても良かったのに、今まで我慢し続けてくれていたのかな。
ユビテルは、自分が八割方龍なのだと教えてくれた。モルニィヤやフルミネを越える割合に驚く。
龍族は七割を越えた辺りから、特に雄は感情から大きく離れてしまう。人型の女性の言葉は感情が多く散りばめてあることから、雄にとっては近い言葉への翻訳が極めて難しく、幼い頃から様々な知識を付けているユビテルでも、処理が追い付かない時があったのだと告げられた。
「その中でも、雄が意味を理解するのが難しいと言われているのが『好き』という言葉の意味です」
何処までも落ち込んでしまう私の頬を挟むようにして包み込んで、尚もユビテルは優しく教えてくれる。
恋愛感情が無いという話に繋がったようだ。そう言われてみれば、龍族の皆が『好き』という言葉を使っているのを聞いたことがない。
「そのままでは理解出来ないので、近い言葉を当て嵌めて度合いを考えるのです。早いと二十代で分かるようになるんだとか」
考えれば考える程、人型でいると大変なんじゃないだろうか。
好きなんて何処にでも使える簡単な言葉だ。私もたくさん口にしている。それが皆を混乱させていたのなら、すごく申し訳ない。
「これを僕達に分かる言葉で言えば、一番近いのは『食べたい』とか『欲しい』ですね。人型には、この表現じゃ行き過ぎるんでしょう?」
火を点けられたように、急速に顔に熱が溜まる。女の子のモルニィヤと男性のユビテルが口にするのでは、言葉が耳朶を打った瞬間に感じる羞恥の大きさが違った。
湯気が出そうになりながら肯定すると、更に追い討ちを掛けられるように、「可愛いですね」なんて付け加えられてしまう。やっぱり刺激が強い。
先日の森でエスに言われた言葉を思い出す。ムカつくことばかり言う、という話だ。もしかして、あれは何も通じていないから、ということだろうか。
何を言っているか分からない話を、日常的に言われ続ければ当たり前に苛々もする。違う言語を聞き続けているようなものなんだから。
「私が何を言っているか分からないから、ユビテルもしんどかったんですか……?」
優しいユビテルは一度きょとんとした顔をしてから、また微笑んで否定する。こればかりは嘘だと思う。だって、言葉の意味を考え続けないといけないのに疲れないはずがない。
「何とかして理解したくなる状況は、ショコラが思っているより楽しいものですよ。ショコラのことを分かりたいと思う、これも一つの『好き』の形ではないでしょうか」
合っている。
私も龍族の皆のことを分かりたい、もっと知りたいと思っている。その理由は皆が好きだからだ。
頷いた瞬間に泣き出しそうになってしまって俯くと、また優しく頭を撫でられる。この人も、異種族で薄紫なんて色を持つ私を受け入れてくれる。それどころか分かろうとしてくれている。
すごく幸せだな。私ももっと皆に出来ることを探していきたい。
「……というわけで、お間違いないでしょうか?」
突然遠くに向かって声を掛けるものだから、意味が分からずにその視線の先を追うと、真顔ながらどこか不機嫌そうに壁に凭れているエスと目が合った。「ちょっと前からいましたよ」なんて悪戯が成功した子どものような顔で笑うユビテル。全く気が付かなかった。
エスに視線を外されたかと思えば、私の頭上をじっと見つめ続けている。頭の上に置かれているユビテルの手が気に食わないのだろうか。
「エストレアも僕と同じ八割ですし、上手く説明が出来ないなら、と思いまして」
「別に、頼んでない」
無機質な美声が短く吐き捨てる。
エスも八割が龍なんだ。やっぱり、言葉が通じなかったからムカつくなんて言われたのかな。私自身がムカつくんだったら、どうしようもなく悲しい。
「分かりたいから苛立つんです。興味がなければ、最初から視界にすら入らない。ましてや着いていくなんてしませんよね」
えっと、ユビテルの言っていること、今までの話を振り返ると、まるでエスが私のことを好きでいてくれている、という結論に――うん、違う。多分それはない。
精々嫌いじゃない程度らしいから、それだけでも嬉しいのに、好きで仲間をやっているなんて言われたら今度こそ泣いてしまう。
「いい加減、手、退けろ」
「縄張り意識なんて、滅多に湧かないものだと思いますが。凄まじい可愛がりようじゃないですか」
……ユビテルも大逸れた誘導尋問するよね。勘違いしたら、私は瞬間湯沸し器になるしかないのに。期待すると後がつらいのに。
「だったら何」
手遅れだった。エスも何を乗ってしまっているのか。みるみる顔が熱くなって逆上せてしまいそうだ。
「分かります。こんな可愛い獲物、なかなかお目にかかれませんよね。龍族の雌は気が強いですから」
わざとエスを挑発しているのは分かっているけれど、ユビテルが龍族らしい言い回しをすると、普段とは真逆の危うい雰囲気が出て私には刺激が強すぎる。恥ずかしい。逃げたい。
逃げ出そうとじたばたしていると、至極自然な動作で腕を回されて抱かれてしまうものだから、ユビテルが何を考えているのか分からない。
「放し飼いにしているのなら、この子、僕にくれませんか?」
何を言われたのか、頭がそれを理解する前に、後ろから思いっきり引っ張られてエスの方に引き寄せられた。直ぐ様手を離したユビテルが含み笑いをする。
「やっと動く気になりましたか」
「何の目的があるのか知らないけど、俺はお前のやり方嫌い」
「結果が良くなるなら、手段を選んでいる場合ではないと思いますが」
びっくりした。信じるところだった。何が始まったのかと思っていたけど、どうやら私はユビテルにからかわれたらしい。心臓に悪いから私もこのやり方は良くないと思う。
結局、今のやり取りでは私には何の結果を求めたのかは分からなかったけれど、あの含み笑いは上手くいった結果の笑みだった。
いつものゆるゆるとした笑顔に戻ったユビテルは、上機嫌で私に手を振ってから去っていく。一体、何だったのか。
「あ、あの……」
廊下の真ん中で抱き締められたままなのはちょっと、いや、かなり恥ずかしい。エスは何やら難しい顔をしたままだけど、出来れば考え事は私を離してからにしてほしい。
離してくれる気配がないどころか、何故か先程までよりも抱き寄せられている気もする。心臓爆発しそう。何か、気を紛らわす話題は……。
「エス……私の言ってること、分からないの?」
「何言ってるか分からないことが多い」
ユビテルに引き続き、またもや衝撃を受ける。どういう言葉選びをすれば通じるんだろう。エスの負担は軽くなるんだろう。
「分からなかったらすぐ言ってね。違う言葉にしてみるから。エスに伝えられるように頑張るから!」
落ち込んでばかりもいられない。私に出来ることを探していかないと。
「お前には無理」
例え、間髪入れずに一蹴されてしまってもだ。どうしてだか、短くて冷たい言葉なのに声色が柔らかく感じた。まだ希望はあるということにしてもいいのだろうか。
やっと解放されたかと思えば、頭の上に手が乗せられる。
「俺が先に慣れるから」
そうやって、また私ばかりもらってしまう。嬉しいけど、私が何かしてあげたいって思うのは迷惑なのかな。




