8.ショコラ、女神の話を聞く。
夕陽が差し込んで赤く染まり、青い絨毯が不思議な色合いを見せている廊下を足早に歩いていた。ユビテルに呼ばれて執務室に向かっている。
途中、焦げ臭さを感じてその匂いの元を辿れば、真っ直ぐに続いているはずの絨毯が無惨に焼き切られており、周りの壁までもが真っ黒に焦げていた。
一体何があったというのか。しゃがんで絨毯に触れてみると、焦げてザラザラした感触になっているのにも関わらず、中の方までは焼けておらず、何故かしっとりと濡れていた。まるで早い段階で消火されたみたいだ。
炎で焼けたという割りには焼きが甘く、被害を受けている範囲が狭い。
これは何なのだろうと、大して良くもない頭を働かせて考えていると、何か大きな人影が高速で通り過ぎていった。その時の風で髪が靡く。
「待ちなさいフルミネ! 今日という今日は許しませんわ!」
続いて豪速球のようにやってきたのはモルニィヤだった。幾重にも布を重ねられた美麗なドレスの重さをものともしないその速さは人型離れしていて、王女様らしくもなくて呆気に取られてしまった。
やっぱり先の大きな人影はフルミネだったようだ。さすがに疲れてしまったらしいモルニィヤは、私の近くで立ち止まって息を整えていた。
「あの、一体……」
「この惨状、あの不届き者が原因ですわ。場所も弁えず、エストレア様と派手に遊んだそうですの」
エストレア様が相手をしながら消化してくださったみたいですけれど、あの不届き者は何を考えているのかしら。
早口でそう続けながら、怒りを隠さないモルニィヤはドレスが汚れることも厭わずに座り込んでしまった。
この焦げ跡がエスとフルミネの戦った跡だというなら、エスはどうしているのだろう。怪我とかしていないといいんだけど。
「ハイドランジア、よく似合ってますわ」
「あ、ありがとうございます」
怒るのに疲れてしまったのか、モルニィヤは話題を変えて穏やかに微笑んだ。夕陽に照らされた金糸の髪が美しく輝き、その美麗な笑みを飾る。
モルニィヤから貰ったバレッタは此方にあると、服の袖を見せてその所在を示す。「気になさらなくて宜しいのよ?」と優しく言われるけれど、せっかく好意で貰った物を身に着けないのは何だか申し訳ない。
「女性に花を贈るだなんて、エストレア様は氷の視線と相対して情熱的な方ですのね。とても素敵だわ。何処かの馬鹿に爪の垢を煎じて飲ませたいところですわね」
おかしいな。途中までは見とれてしまう程綺麗な笑顔だったのに、最後辺りから黒さが湧き出てきた。
優美な動きで立ち上がったモルニィヤが窓の外を見た瞬間に、その猫目の瞳孔が縦に裂けた。
見た目の可愛らしさと相反する、好戦的なその目付きを見て狼狽える私に、モルニィヤはドレスの裾を摘まんで優雅に礼を取った。
「ではショコラ、またお話致しましょう。わたくし、今から不届き者を片付けて参りますわ」
「っ! あんまり危ないことは――」
窓を開け放ったモルニィヤが窓枠を掴んだ瞬間、驚いて手を伸ばしたけれど、美しい所作で飛び降りてしまった。
間もなく轟いた雷鳴と、確実に狙って落としたと思われる白いいかずちが、徐々に暗くなりつつある空を明るく照らした。
窓から身を乗り出して下を確認すると、庭園にてモルニィヤとユビテルの決死の追いかけっこが白熱を極めていた。見目の良い二人が笑顔で走り回っているのは、雷属性魔法が飛び交っていなければ仲睦まじい光景なはずなのに。
暫く恐々と見守っていたけれど、かなり荒っぽい割には何処も壊れたりしていないから、あれも一種の遊びなのかもしれない。
私にあの激戦を止められるとも思えないし、ユビテルを待たせているから仕方なく放っておくことにした。
「……さて、まだ話してくれませんか?」
静かにお茶を点て、流れるように私の前に茶碗を差し出したユビテルは、いつもの優しげな笑みで問い掛けてきた。
数日作法の真似をしているとそれなりに様になってきたのではないか、茶碗を回す手を止め、「え?」と反射的に口にしてしまった。だけど、その疑問が何に対してかは大方予想がつく。
「先日モルニィヤに話していた夢についてでしょうか。何を探してるんでしょう? 僕ではお力になれませんか?」
やっぱり、ユビテルにはお見通しだったらしい。
この様子では、連日私が図書館に通い詰めてるのも知っているのだろう。隠す程ではないと思う。エスに怒られるかもしれないけれど、恥ずかしいくらいにふわふわした内容だとしても、私は自分の夢を隠しておきたいとは思わない。
「……お父様がいるという、異世界に行きたいんです。その行き方を探しています」
ユビテルは優しく細めていた美しい垂れ目を瞠り、翠の瞳に興味深そうな光を宿した。
「異世界、ですか。どの世界かは知りませんが、行くだけなら行けますよ」
ゆるりと簡単そうに言うせいで私は素頓狂な声を上げかけて、お茶と一緒に飲み込んだ。
そんな軽い感じでいいのか。もっと早くに聞いておけば良かった。
「ただし、移住するとなるとそれなりに大変でしょうね。『別の世界』ですからね。本来そこに存在しないものを送り、本来ある場所から消す。というのは一時的には誤魔化せますが、継続的にはどう支障が出るか分かっていません」
……ユビテルの言う通りだ。あまりにも安易にものを考え過ぎていた。
行き方が分かったらすぐにでも移住してしまうつもりでいたから、その辺りの問題には気付かなかった。
私が思うよりも、旅行気分では向かえない場所なんだ。国から国へ移動するように、手軽な範囲で認識していた。別の世界だと何度も言いながら、それが何なのか、どんなものなのか分かっていなかった。
「我が国は現状、かなりの魔法技術、科学技術を持ってますが、さすがに世界の在り方を書き換える程の力はありませんからね」
協力するとなると難しいですね。と付け加えてユビテルはお茶を啜る。
「雷龍族は安定してはいますけど、龍族では凡庸、いや最弱ですね。昔は最強というものがいたのですが、力有るものの元に争いは絶えないもので、ほぼ絶滅してしまいました。ショコラのお仲間さん、氷龍族の話なんですけどね」
思わずお茶を吹き出しかけた。
氷龍族が龍族最強、つまり、この世界で一番強い。とんでもない種族と行動を共にしていると、以前感じたのは概ね間違いではなかったらしい。
力有るものの元に争いは絶えない、という言葉が引っ掛かる。私はまだ二人のことをよく知らないままだけど、想像も出来ないようなひどい過去があるのかもしれない。
きっと国を持っていた。何故か同じ種族を殺してしまった。あれだけひっそり隠れ棲んでいたのだから、訳があるのなんて一目瞭然なのに、馬鹿な私はそこを引っ張り出して連れてきてしまった。気分が沈む。
「お二人のこととなるとショコラはコロコロと表情が変わって実に愛らしいですね」
「えっ、その……」
唐突にそういうことを言われると反応に困ってしまう。思ってもいない褒め言葉には御礼を言うべきか、はっきりとそれは違うと否定するべきか。慌てていると、顔を覗き込まれて心臓が跳ねた。
目の前に端正で儚げな顔立ちが現れれば誰でも驚く。長い睫毛まで陽の光のように輝いているのが眩しい。
「羨ましいです。僕も、そんな色んな顔、させてみたい」
息を詰めて離れようとすると、当然のようにその距離の分だけ追い掛けてくる。
龍族って皆こうなんだろうか。皆仲良くなってくると距離が近いし、平気で顔を近付けたりしてくるし……。どうしてこんなに刺激が強いんだろう。
ゆるゆるとした雰囲気のユビテルですら、安心出来る人にならないのかと思うと全く気が抜けない。
「ところで、ショコラは龍の女神という言葉はご存知ですか?」
急に話が変わり、その聞き慣れない単語を反芻してから首を振れば、ユビテルはやっと離れてくれた。綺麗なお顔を不意打ちでよく見せられると本当に心臓に悪い。
聞いてみれば、その『龍の女神』というのは古い言い伝え、伝説のようなものだった。
その者を手に入れることで龍族に平安と繁栄をもたらすと言う、謂わば勝利の女神らしい。
女神だというのは手に入れるまで分からず、未だに現れておらず、何を以てして女神と定義づけるのかも分かっていないという。
まるでお母様から聞いたエルフ族の秘密の力のようだと思った。分からないのに、分からないまま話が大きくなり、とにかくすごい、ということしか分からない不思議な話。
そんな女神様がエルフ族にも存在したのなら、私はお母様や仲間を失わず、長い間幽閉されることも無かったかもしれない。
でもそうしたら、私はエスと出会えない。今みたいに龍族の習性が分からなくて、エスの行動や言動をとって一喜一憂することもなかった。
エルフ族の皆と森の中でひっそりと暮らして、エルフ族の男性と一緒になって、子どもを産んで育てて、静かに長い生涯を終えて。
変だな。私は異世界にいるお父様に会って、きっと向こうにまだ存在するエルフ族の皆と平和に暮らしていく夢を見ていたはず。なのに、何故か今の想像が幸せだと思えない。
「僕は、その女神はショコラな気がするんですよ」
「はあ…………へ?」
この人は何を言い出すのか。要らぬ想像から意識を引き戻された私は呆けた声を上げる。
「まさかこんな可愛らしい女性が、約九年前に絶滅したことになっている氷龍族を連れているなんて。それに、こんなに強い魔力を感じるのも約九年ぶりですからね」
どういうことだろう。魔力については、私にはそれを測る能力が無いから分からない。その強い魔力がエスのものだとしても、エスはずっと生きていたのだから話の内容に齟齬が出る。
私の疑問点に気が付いたのか、ユビテルはそれに付け足して説明してくれる。
「仮定ですが、彼は意図的に魔力を制限して生存を悟られないようにし、絶滅したことにしたかったのではないでしょうか。力有るものの末路を知って」
「そんなこと、出来るんですか?」
「何でもやる気になれば出来ますよー」
ゆるい。難しい話をしていたかと思えば、いきなり周りに花が飛んでいるような空気に変えられてしまう。
全力で追い掛けていたところに制止を掛けられてしまった。確かに、エスならそれくらいは出来てしまうかもしれないけど。
「今の彼なら氷龍族も立て直せそうですよね。もう大人ですし、ショコラがいますし」
「えっと、私、今の話に何か関係してましたか?」
「してますよ。引きこもりを外に連れ出して本来の力を出させるなんて、至極大変なんですから!」
素晴らしい功績を上げたと言わんばかりに、ぎゅっと手を握られてしまって思わずおののく。
氷龍族を立て直せる、という話。もし、本当にそれが出来るのなら、そんなにすごい種族なら、わざわざ私なんかに着いて来なくてもいいのに。馬鹿な夢に付き合わなくてもいいのに。
そう考えながらも黒い気持ちが渦巻く。
何だか、色んな話で頭の中がぐちゃぐちゃになってきた。




