6.ショコラ、雨季に咲く花を贈られる。
私はどうしてしまったのか。エスが聞けば、今までも充分どうかしていた、と瞬時に一蹴されてしまうだろうけれど。
額に口付けられてからというもの、鏡を見る度に顔に熱が溜まる。フルミネをどうと思っているわけではなくて、一日経った今でも唇の感触を何度も思い出して羞恥に苛まれているだけ。
今までも何となく龍族の人達は距離が近いとは思っていたけれど、からかわれているのだとしても、まさかキスをされるとは思っていなかった。
そして、会いたくないと思っている時に限って向こうから訪ねてくるもので、今、私は居留守を使っている。扉を挟んで聞こえてくるのはフルミネの声だ。
直々に遊びにきてやったぜ。おいコラてめー居留守使ってんじゃねー。返事くらいしろっつってんだろ。
と、最初は笑いの混じった声だったのが、どんどん借金取立て屋のようになっていく。借金と言えば、フルミネに似た人を一人思い浮かべて、それどころじゃないと大きく頭を振った。
一瞬静かになったかと思えば、間もなく無慈悲にも扉が蹴破られた。変形して使い物にならなくなった蝶番、無惨に床にひれ伏した扉、その扉を極悪な笑みをして踏み締めているフルミネ。
ああ、早くユビテルに言わなきゃ。今度こそクビですわね、とモルニィヤが高らかに黒く笑う姿が容易に想像出来る。
「遊ぼうぜショコラ」
「遊ばないから返事しなかったのに……」
昨日、フルミネは実は真面目な良い人なのにちょっとやんちゃしてるだけなんじゃ、と思った自分こそどうかしていた。
一体何でこんな暴君に目を付けられてしまったんだろう。私に面白い要素なんて何処にもないのに。
「ひどい。扉壊してまで私に会いたかったの?」
「っ、まあ、そうだな。すげー会いたかった」
何故か言い出しがまごついていたけれど、すぐに調子を持ち直したフルミネは私の頭に手を乗せてくる。
「さっきからうるさい」
間抜けにも半泣きになっていたところ、うんざりした様子でエスが入り口から覗いていた。
扉を持ち上げて壁に立て掛けたエスは、至極めんどくさそうにこちらに視線を戻す。
「だから先に来たんだけどな……」
独り言を呟いたフルミネはエスの存在を無視して、私を抱え込むようにしてから頭を乱雑に撫で回してくる。
撫でるなんて優しい表現じゃダメだ。これは一種の脳震盪だ。首が痛い。
「遊んでないで返せよ。そいつ、俺のだから」
今、なんか、すごい言われ方をした気がする。
エスは遠慮なくフルミネの肩を掴んで私から引き剥がし、私の腕を掴んで引っこ抜くようにして引き寄せる。あまりの勢いに思わず少しばかり跳んだ。
「獲物に一度も手ぇ付けずに放し飼いってのは、随分嘗めてんだな」
「三頭掛かりで横取りを企むお前らの方が嘗めてる」
何の話なのかさっぱりついていけないまま、エスに腕を引かれて扉の無くなった部屋から連れ出された。
扉を蹴破られた時も思ったけど、龍族は、男性は本気を出せば力が強いのだと。
頭一つ抜けて力の強いティエラとはまた違う驚きだけど、とにかく、今はエスに引かれる腕が痛い。こんなに乱暴なのは再会してすぐ以来だ。
何処に向かっているのか。淀みなく歩を進めるエスに、背が低くて足の短い私は小走りどころか半ば引き摺られていくしかない。
程なくして辿り着いたのはエスの部屋だった。一言も発する間もなく、私は中に放り込まれる。
二、三歩よろめいて部屋の中程で立ち止まった私は、後ろから感じる冷気に身を縮こまらせるしかなかった。とてもじゃないけど振り向けない。
この冷えた空気は私の気のせいかな。比喩じゃなくて急激に気温が下がった気がする。まだ日が昇りきる前だから、時間的にはそんな現象が起こるはずないんだけど。
この国に来てから、不機嫌だったり怒っているエスしか見ていない。せっかく仲良くしていけそうだと思ったのに、距離が開いてしまったみたいですごく寂しい。
寂しさが恐怖を上回って、寒さを感じなくなったと思えば気持ちを吐露していた。
「エス、最近どこに行ってるの? あんまり話せないの、寂しいなって、思って……」
また私には関係無いと言われてしまうだろうか。確かに何をしていても個人の自由だし、干渉し過ぎなのかもしれないけど知りたい。
祈るような気持ちで返答を待っていると、突然頭に優しい温もりを感じた。
髪を梳いて撫でていくその手は、ついさっきフルミネにぐちゃぐちゃに掻き回された髪を解していくみたいだ。
エスに頭を撫でられるのは好きだ。この動作に巧拙があるのはフルミネのお陰で知れた。やっぱりお兄さんだからなのか、小さな子どもをあやしているような撫で方ですごく優しい。
「他は?」
ん? どこに接続される言葉? 明らかに質問への返答ではなさそうだ。疑問符を浮かべたまま振り返ると、意外にも至近距離にエスがいて少し驚いた。
また髪を軽く梳いて手が離れる。その手の温もりを追い掛けてしまいそうになっていると、続いて腕や肩に触れられて更に疑問が増える。
「アレに触られたところ」
「アレ……」
そのアレとは、フルミネを指す言葉だろうか。
首が千切れるような勢いで頭を撫でられたのと、後は……昨日の出来事が頭を過る。これも言わないといけないのかな。あんまり、声に出したくない。でも、嘘を吐くのはかなり下手な方だから変に隠せない。
「ここ……」
額を指差して口にするだけでまた顔が熱くなってくる。エスと目を合わせられない。鮮明に感触を思い出してしまってどんどん顔に熱が溜まっていく。
エスが肩に手を置いた瞬間、大袈裟なくらいに身体が跳ねてしまって、それと同時にエスが不機嫌そうに眉根を寄せるのが目に入った。
肩に置かれていた手が首を辿っていったかと思えば、指で引っ掛けるようにして顎を持ち上げられる。
強制的にエスを見つめる形になると、当然のように顔が近付いてきて、咄嗟に身を離そうとした瞬間に顎を掴まれた。
「っ、ちょ……っ、ちょっと待って!」
「やっぱり。今のは一度目の反応じゃない」
表情は真顔からそこまで変動はないのに、物凄く怒っているように見える。
もう片方の手を背中に回されて、強く引き寄せられた時には小さく悲鳴を上げた。幾ら以前に抱き締めてしまったことがあると言っても、一度や二度でこの距離に慣れる程強靭な精神は持ち合わせていない。
何とか身動きを取ろうとしていると、顎を掴んでいた手が頬を撫で上げて髪に着けていたバレッタを外して床に落とす。
金属の叩き付けられる音だけが響く静かな部屋の中で、自分の心音がやけに大きく聞こえた。限界まで上り詰めた羞恥に苛まれて上手く呼吸が出来ない。
「エス、あの……っ」
何とか声を出すだけでも心臓が飛び出そうになる。
目の前には静かに怒っているエスの顔。沸々と煮えている蒼い瞳。ゆっくりと顔が近付いてくる時間が、信じられないくらい長く感じた。
ふわりと額に触れるエスの唇、少し冷たくて柔らかいその感触に困惑する。頭の中がぐるぐるする。
何をどうしたらそんなに形が整うのかと、問い質したくなる程形の良い唇が。美しい花びらのようでありながら、きつい言葉を惜し気もなく発するそれが。今、私の額にあるという事実を受け止められない。
「なんか、熱気で熱い」
エスは事もあろうことか、唇を触れさせたまま不思議そうに呟いた。額の上で柔らかな唇がくすぐるように動く。耳触りの良い声が骨を伝って脳に響く。このまま熱が上がり続けたら全部エスのせいだ。
昨日のフルミネもそうだけど、本当に龍族って分からない。距離が妙に近いのも、何でもないように簡単にキスをされるのも、経験値なんて無いに等しい私には刺激が強すぎる。
それに長い。もう耐えられない。どうにかなってしまいそう。
「エス、も、やだ……やめて……」
拒否するとあっさり唇を離してくれた。
やめてと言ったのがいけなかったのか、微々たる変化ではあるけれど複雑そうな顔をしている。この表情は何と言ったらいいのか、一番近いのは拗ねているような。
「あ、あのね、嫌とかじゃなくて……エスのはダメ」
「何で」
声色が格段に低くなって背筋が冷える。一生懸命、ほぼ真顔に近い表情を分析しようとしなくても良いくらいに、比較的分かりやすく機嫌が悪くなった。
今のは確かに言い方がまずかったと思う。私にもう少し会話力とか語彙力とか、表現力があれば良かったのに。きっと、そうしたらちゃんとこの状態が何なのか上手く伝えられるのに。
「お前が嫌でも関係無い。雷龍臭いまま居させるとか無理。あんまり酷かったら、他の龍族の匂いは上書きする」
やっぱり縄張り意識的な問題だ。
安堵する反面、複雑な気持ちも残る。僅かながら、何かを期待した気持ちが萎んでいくような。
「えっと、そうじゃなくて、エスのは心臓飛び出そうな程、恥ずかしいから……」
曖昧な言葉だとお気に召さない雰囲気だ。恥ずかしくて仕方ないけど、何とかエスが納得してくれる言葉にするしかない。
「触れられるのが嫌なんじゃなくて、仲間のエスの方が好きだから、フルミネより恥ずかしいのは当たり前なの」
唇は離れたと言っても距離は近い。腕も回されたままだ。
早口になりながらも言い切るだけ言い切って、エスの胸を押したけれど離してくれる気配はない。
これでもまだ分かってもらえないのか。ドラゴンは見るからに気難しそうとか、頑固そうだとは思ってたけど、これ以上は無理だ。恥ずか死ぬ。
もう一度逃げようとしたけれどそれは叶わなかった。
背中に回っていた手が後頭部に移動したかと思えば、頭を引き寄せて旋毛に唇を落としてくる。
「自分が何処のものか、分かってるならそれでいい」
「……龍族、分からない……」
急に機嫌が直ったみたいだけど、本気で龍族が分からなくなってきたところだ。
人型ならば仲間以外の何でもない二人が、こんな距離でこんな恥ずかしいことしない、と思う。いや、私がその方面に疎くて知らないだけかもしれないけれど。
いくら違う種族だからと言っても、こんなことを当たり前のようにされてしまったらついていけない。
もう、エスが龍族だから人型の私では分からないのか、私が無知なまま生きてきたから理解出来ないのか、どっちなのか分からなくなってきた。
縄張り意識からの怒りを鎮めて、人心地がついた途端にさっき落とされてしまったバレッタの存在を思い出した。モルニィヤが選んでくれたバレッタが無造作にも足元に転がっている。
……拾いたかったけれどどうにもしゃがめなかった。何せ、まだ解放されていない。そもそも何故外されてしまったのか。
「後ろ向け」
いきなりのそれは、お願いではなく命令だった。くるりと身を反転させられたかと思えば、エスの手が器用に髪に触れていく。
横髪が綺麗に捩られて耳の上を通っていくのを感じながら、最後にパチンと金属が高い音を立てて留まるまでを聞いていた。謎の金属音の正体は何なのだろう。
「どう考えても色、こっちだろ」
鏡の前に連れていかれて視界に入ってきたのは、淡い青と紫のグラデーションの小さな花が集まって、不規則に楕円を象っているデザインのバレッタだった。
四枚の花弁が四つ葉のクローバーのように綺麗に並んでいる。主張する派手さはないけれど、とても愛らしい花だ。
「ハイドランジア。雨季に咲く花らしい。よく泣くお前にはぴったりだな」
ユビテルと食べた綺麗な和菓子の中に似た花の形のお菓子があった。青や紫、淡いピンクの花をつける、玉のような綺麗な花だ。
人間界の東洋という場所で、紫陽花と呼ばれている花らしい。
「これ、どうして?」
薄紫色の私の髪の上で、違和感無く佇むバレッタ。花自体が派手なものでなくても一つ一つの作りがとても丁寧だから、結構値が張るんじゃないかと思って鏡越しにエスを見上げる。
「他の龍族に貰ったものばかり、身に付けられてると苛つく」
ティエラの言っていた通り、自分の縄張りのものを勝手に変えられたことに腹が立っているのなら、すごく納得出来る理由だった。
「……私が、雷龍族に何かされてるの嫌?」
率直に聞いてみたくなって口にしてしまうと、自分がとんでもない事を聞いてしまったんじゃないかという意識に襲われた。
傲慢にも人型の感情に変換して、嫉妬してくれているんじゃないかと期待してしまったから。
「嫌じゃなかったら何もしない」
「そ、そっか」
当たり前のように返されたけど照れる。龍族にとっては当たり前なのかもしれないけれど、私にはその感情一つで全然違うから。
龍族の仲間意識は、普通に他者と関係を築き上げた実績のない私にとってはかなり刺激的だ。エスに安心感なんて抱いていた自分は一体なんだったのか。
「最初の質問の答えだけど、お前が集られてる内に体慣らししてた。それ買うのも、この先も、要るものは要る」
体慣らし、要るもの……それが発行令をこなしてお金を稼いでくれていた事に結び付いた瞬間、泣きそうになってしまった。また鬱陶しいと言われてしまう。
私がユビテルやモルニィヤの話し相手になっていたり、ティエラと遊んだり、お城の図書館で調べものをしていたり、廊下でフルミネに絡まれていたりしていた頃、エスが働いてくれているなんて思いもしなかった。
幾ら奇跡的に金銭面で雷龍族に甘えられていると言っても、ここを離れる時にはまたお金は必要になるのに。それに気付かずにただ寂しがっていたなんて、本当に馬鹿だ。
左耳の上で光を受けて輝くバレッタ。一人だけこの先の為に働いていてくれて、可愛い髪飾りまで贈ってくれて、私はどれだけ仲間に恵まれているのだろう。
「エス、ありがとう。ずっと、大切にする……」
嫉妬の件も併せて嬉しくて、さっきまでの恥ずかしさも忘れて笑顔になってしまう。
溢れ出る感謝の気持ちと、堪え切れなかった涙を滲ませながら、エスの顔を見上げた瞬間に息が止まった。
優しげだった真顔が、花が綻ぶようにして微笑みに変わる。なんて、綺麗に笑うんだろう。
初めて見るエスの笑顔の美麗さに視線が離せなくなってしまった。元の真顔が神の作りたもうた最高芸術品のように綺麗なのは初めから知っていた。怒った顔が凄絶と呼べる程の強い美しさを放つことも知っていた。
だけど、こんなに美しいもの、見たことがない。見ただけでこんなに幸せになれて、心が温かくなるものがあるなんて、知らなかった。
淡い青と紫のハイドランジア。私の髪の色にもぴったり合っているけれど、水色髪のエスの隣に居ても色合いが喧嘩しない。
そんな意味なんてないはずなのに、隣に居てもいいと言われているようで、何だかすごく、どうしようもなく嬉しかった。




