5.ショコラ、龍族の習性に戸惑う。
今まで私は細々と旅人をしていた。屋根のある場所で寝られなかったり、ご飯が一日に一食だったり、服がボロボロに解れていても気付かなかったり。
そんなことも当たり前の生活をしていたというのに、今日から安めの宿屋がお城の客室に格上げされると言われて誰が信じられるのか。
お城という幼い頃に一度は憧れた建物に足を踏み入れた時、私は冷や汗を流していた。肩身が狭すぎる。貧乏を下回って極貧生活が長かった私には畏れ多すぎる。
天井が高いどころか吹き抜けだとか、踏み締めた青い絨毯が柔らかすぎて汚してしまっていないかとか、全力で走り回れそうな程広いとか、使用人の方がたくさんいるとか、どこに目を向けても畏れ多すぎる。別世界だ。
ここに来るまでの流れで、フルミネが客室まで案内してくれることになったみたいなんだけど……
「あ? んだよショコラ」
大袈裟に眉を跳ね上げて、見下ろしてくる。
フルミネはすごく背が高い。エスで見上げ慣れてきていたはずなのに、それでもまだ大きい。その分、威圧感が増して怖い。よくこの人と剣を交えられたものだと。
じっと見上げていると、何だか微妙な顔をしてから目を逸らされた。
「……ったく、ぐずぐずしてんじゃねえ。さっさとついてこい」
「あっ、うん、ごめ――」
「こいつはぐずぐずしてるんじゃなくて、元々とろいんだよ」
反射的に謝ろうとすると、何故かエスが言い返した。しかも、意味合いを考えると大して変わらないというのに。
フルミネの顔はますます怖くなっているし、エスはエスで機嫌が悪そうだし、一体どこで火が点いてしまったのか。
「あんだと? 澄ました顔しやがって」
「……単細胞が」
庇ってくれようとしたのか何なのか分からないまま、二人は黙ってしまった。
ちょっと待って、もしかして部屋に着くまでこの険悪な空気に挟まれていなきゃいけないの? 何とかしてこのサンドイッチから逃れようと考えていると、隙間からひょっこりティエラが現れた。
「うん、現れてみたけどどうしようもないかも。ごめんねショコラ」
変わらぬ愛らしい笑顔でティエラは謝ってきた。だよね。ティエラが悪いんじゃないよ。
本当に、何が引き金になってしまったのか……。
そんな雰囲気で初日が始まったせいで、お城に寝泊まりする緊張感が吹き飛んでしまい、ほんの数日でこの生活に慣れてしまった。いいのか悪いのか分からない。
ただの旅人の私に使用人の女の子達は優しくしてくれるし、食べ物にも困らないし、贅沢過ぎる毎日を過ごしているけれど、今のところ特に異世界への経路の手掛かりは見付けられていない。
大きな国なのだから少しくらいは情報があるはずだと思っていたけれど、何を探しているのかを隠していては誰かに話を持ち掛けるわけにも行かず、何から探していいのか皆目見当もつかない。
私の思い描いていた夢は子どもが夢を見ているそのままで、まるで現実味もなければ手立てもないのだと身に沁みて実感した。物凄くアホな私の計画に二人を付き合わせているのだと思うと深い溜め息が出る。
お城の図書室から部屋までの帰り道で、角を曲がった瞬間だった。
「あんだとコラ」
「うぜえ」
突如、荒っぽい言い合いが耳に届く。これも数日経てば聞き慣れてきたけど、居合わせてしまうと焦る。
言うまでもなくエスとフルミネだ。フルミネはあの調子が通常なんだとして、エスは機嫌が悪いのか口調が粗暴になっている。普段はそんなに、きつい物言いを除ければ口が悪い方ではないのに。
「二人とも、また喧嘩してるの?」
「喧嘩じゃない。コレが突っ掛かって来てるだけ」
「はあ!? それはお前の方だっての!」
間に入ろうとしたらまた拗れそうになっている。
何で今こうなってるか経緯は分からないけれど、相性が悪いとちょっとのことが喧嘩の火種になってしまうのかもしれない。
このお城に来てから数日の私と言えば、ユビテルの擬似的な孫のような立場になって、ゆるゆるとした空気に飲まれながらお話を聞いていたり、モルニィヤとお茶を楽しんでいたりと、二人の話し相手になっていることが多い。
勿論、情報を探したり、ティエラと遊んだりもしているけれど、エスはいないことが多くて最近あまり話していない。見掛けるといつもこんな風にフルミネと言い合いをしている。
エスと喧嘩か、いいな、私もしてみたいな。
「喧嘩、羨ましいな」
「「は?」」
二人の喧嘩は私の呟きによって終わりを告げた。不思議な生き物を見るかのような視線が向けられる。
だって、私はもう一月近くエス達と仲間なのにそうやって喧嘩をしたことなんてない。私だってもっといっぱい話したい。
「お前って、本当に頭大丈夫か心配な時が多々ある」
「さすがに同意するわ。コイツ大丈夫かよ」
私を馬鹿にする時だけ同調するのはやめてほしい。
怒りが鎮火したのか、お互いから興味が失せたらしい二人は、背を向け合って何処かに行ってしまおうとする。
「あ、エス」
「何」
特に話題もないのに引き留めてしまった。無表情の蒼い瞳が静かに射抜いてくる。
最近あまり話せていないのが寂しいなんて言ったら、一体どんな顔をされてしまうのか。困らせるのか、不機嫌にさせるのか、何の反応もないのか、何れにしても良い反応はないだろうと思うと、少し怖くなって押し黙る。
「何もないなら出てくる」
「えっと、どこに――」
「お前には関係ないところ」
エスはそう言い捨てるとすぐに踵を返して何処かへ行ってしまった。
……冷たい。すごく優しい時もあれば、こうやってすごく冷たい時もある。心に棘が刺さる時、必死でティエラに言われた言葉を思い出す。
冷たくても、怖くても、私を大事にしてくれている。ティエラが言うのだから間違いはないだろうけど、本人に言われたわけじゃないから、信じようと思っても崩れそうになってしまう。
暗い気持ちに浸りそうになった時、ユビテルとのお茶の約束を思い出した。
バルコニーにざぶとんという敷物を敷いて、今日こそ本気でお茶を点てると言っていた。お茶を点てるなんて言い方、初めて聞いたから何をするのか気になる。
いちいち傷付いている場合じゃない。気持ちを切り替えて行こう。
とても不思議な光景だった。ざぶとんという敷物と、お城のバルコニーの雰囲気が全く合わない。でも、ざぶとんとユビテルの着ている服はとても合う。
これはモルニィヤもだけど、この兄妹は王族の正装から外れた格好をしている。この国に着いた初日に、街中で見掛けた変わった民族衣装に似ていた。『和』という種類なのだと聞いたけれど、よく見る服と形が全く違っていて、リコリスの柄もとても綺麗だと思う。
「どうですか? 上手く点てられているといいのですが」
「はい、初めて飲みましたけど、とても美味しいです」
それは良かった、と微笑むユビテルの姿はとても麗しいのに、ゆったりとした雰囲気が完全にお年寄りだ。
器用にも静かに点てられたお茶の味はとても良かった。前に聞いた時にはどこかの国? の伝統のものと言っていたような。
「これも、人間界の東洋の国から取り寄せてみたものですが、なかなかにハマってしまいまして……」
人間界。聞き慣れない言葉が耳を掠めた。ユビテルは物識りだ。分かりやすく説明してくれるけれど、難しくて理解出来ない事もある。
「そうです。異世界なんですが、ショコラは信じますか? そこは魔法もないのに技術のみが高度に発達した人の世界があるのですよ」
「っ、はい、信じます」
異世界の話が出て、思わず食い下がってしまいそうになるのをぐっと抑える。無意識に拳は固めてしまった。
異世界というものがあるという事実が聞けただけでも一歩前進だ。取り寄せたということは、移動する為の何かしらがあるに違いない。
夢が少しだけ現実に近付いた。
「時にショコラ、龍族はとても優しくて穏やかに見えて、その実、全くそうでもなかったりします。何せ、人ではありませんから。ただ、大事にしたくても壊してしまったりするのです」
「……え?」
茶碗という変わった形のコップを口許に運ぶ仕草の優雅さが、言葉の意味を打ち消すようだった。
「落ち込んでいるように見えまして、違ったのなら野暮な話をしてすみませんね」
大事にしたくても、そう出来ない。
それは人型の私達でも事情に寄ってはあることだ。龍族であるだけでそれが顕著になるのだとしたら……。
少し前に聞いた二人の言葉と人ならざる殺意が頭を過る。それが、よくある龍族特有のものなら、私はいちいち傷付いたり落ち込んだりしないでいいのかもしれない。
「物凄く穏やかなユビテルにも、そういう時があるんですか?」
「全然ありますよー。そりゃ大事にすればする程にね!」
ユビテルはにっこりと微笑んで親指を立てた。おお、かなり明るい反応。殺意に関してはよくあるのはちょっと困るけど、気にする程悪いことではないのかな。ただ、どういう原理なんだろう。
「仲良くすればする程、殺したいと思うんですか?」
「殺したいなんて思いませんよ。誰にも渡したくないと思い始めた時、気が付けば手に掛けようとしているのです」
あの夜、首を締め上げながら途中で気が付いたのか、驚いた表情になるエスの顔が脳裏に浮かび上がる。
「相手が龍族だと痛めの愛で済みますが、人型だったら死にますね」
エスが私を大事にしてくれているというのが、ティエラの言う通りであるなら。殺してしまいそうになる段階までエスと仲良くなれていることになる。
複雑だけど、やっぱり嬉しい。何とか殺されなければいいんだから、それでも私は二人の仲間でいたい。
和菓子というお茶請けのお菓子の、美味しさと美しさで一頻り盛り上がったところで、部屋に戻ろうとしたところをフルミネに呼び留められた。
何だかニヤニヤ笑っていて怖いし、返事もそこそこに通り過ぎようと思っていた。なのに、どんどん壁に追い詰められ、手を着かれて距離も詰められ心臓が跳ね上がる。それと同時に身体も跳び上がった。
「お前、ほんといちいち面白ぇな!」
「わ、私は面白くないっ」
私で遊ぶという意味に気付くのに、そう時間は掛からなかった。
フルミネは私を怖がらせるのにハマっているらしい。ここに来てからというもの、笑いながら近付いてきたら要注意だ。つくづく趣味の悪い人。ガラが悪いだけじゃないんだな。
「つーかお前ってさ、水色髪のアイツに惚れてんの?」
「えっ、ほ、惚れ……!?」
この人は急に何を言い出すんだろう。
どちらかと言えば、エスのことは好き。仲間なんだからそれは当たり前だ。だけど、そういう、恋愛的な意味だとしたら分からない。私は今までに恋なんてしたことがないから。
「雛鳥みたいにくっついて行こうとしてるから、てっきり惚れてんのかと思ったぜ?」
「それは、違うと、思うけど……」
言い淀んでいると、またフルミネは壁に手を着いて、私を挟むように閉じ込めてくる。
いきなり近寄られるだけで吃驚するから、反射的に目を瞑ると心底愉快そうに笑われた。なんて人だ。
「完全否定じゃねーのかよ。ま、悪いけど、俺ら龍族には人型が持つような恋愛感情とか言うもんはないから」
そう言われてみれば、恋愛感情というものは人型特有のものだった気がする。
「強いて言うなら、食いたいか興味ないか。例え俺らの中の人型の方が感情論を大事にしようと思っても、龍の方が強ければ結局何するかわかんねーからな」
さっきまで人を馬鹿にして笑っていた癖に、フルミネの顔が急に真顔になる。
鋭い青の瞳から目が逸らせない。この青色はエスの蒼色とは深みが違うだなんて、何で比べてしまうのか。
頬に宛がわれるフルミネの骨張った手が、エスの手よりも体温が高くて固い感触だなんて、何で全部比べて『求めているものじゃない』って心が否定しているのか。
「お前が吃驚するくらいの馬鹿だから教えておいてやってんだからな。親切だろ」
「うん、ありがとう」
「いや、今のは嫌味だっての。ほんと調子狂うな」
そのまま撫でられて気付く。この固さやザラザラとした感触、剣を握る人の手だ。
とてもじゃないけど、何もしていない怠け者の手じゃない。ちゃんと主を守れる騎士の手をしている。
思わず、話が逸れてしまうのも構わずにその手を掴んだ。思った通り、所々の皮が捲れて、掌にたくさんマメが出来ていた。
「フルミネは、本当は真面目な人なのかな」
「っ……んなわけねーだろ」
要らないことを言ってしまった。フルミネは焦った様子で私の手からその手を引き抜いた。
「そうだよね。ひどい人だもんね」
「ああそうだよ。それに、人じゃねーよ。ドラゴンだ」
こめかみ付近に手が添えられたかと思えば、次の瞬間には額に柔らかな感触が落ちてきた。
フルミネの唇が一瞬触れて、調子を戻すように、「面白ぇ顔」といつもの悪人面で笑ってから離れて行ってしまった。
さすがにそれをされると顔が熱くなる。からかうにしても度が過ぎている。そんな風に、男性に唇で触れられたことなんてないのに。




